第4話 少年

 しかし、実際には、一旦学校の建物に入ると、そういう憂さはある程度消えるのだった。

 というのも、少年は、別に、学校自体が嫌いなのではなかった。

 少年が真に嫌っていたのは、学校というシステムの中で、自分たちが、色褪せた日常の循環に半強制的に組み込まれたうえに、成績の優劣を基準にした競争に無理やり引き込まれるという事実だった。誰しもが感じるであろうこの苦悩に、少年はひときわ引き摺り回された。その原因は、他でもない、彼自身の性質である。


                   ✳︎


 彼は、小さい頃から好奇心旺盛だった。とはいえ、勘違いしないでほしい。彼は他人には全く興味がなかった。幼稚園ではほとんど一言も発さない、人見知りをする子だった。

 彼が好奇心旺盛であった、と述べたのは、他人への好奇心ではなく、この世界のさまざまな物事に対する好奇心のことなのである。だから、彼は、いろいろなことに興味を持っては、一人で自由気ままに、自分の興味のベクトルの先にある物を純粋に追いかけ続けた。


 例えば、幼稚園の頃、やっと平仮名を読み書きできるようになった幼い彼の目は、すぐに漢字の方を向いた。平仮名を読めるようになって喜んでいたところ、その日の夕食で牛乳が出たのだ。その箱には、「牛乳」と漢字で書いてあるが、まだ平仮名しか読めない彼には、それが何を表しているのか、皆目見当もつかぬ。悔しい、と同時に、彼は、この世界の広大さを感じた。まだまだ自分の知らないことだらけだ、と。


 その後、彼は、即座に、自分の世界の外に手を伸ばし、探索し始めた。彼は、漢字に夢中になった。大人の拳一個分の幅くらいの、ものすごく分厚い漢字辞典が、幼い彼の友達と化した。彼は、熱心に漢字辞書の一頁一頁を凝視して、そこに書かれた漢字を書き写していった。ぱら、ぱら、ぱら、と漢字辞書のページをめくる音が、毎日のように空間に放たれて、流れていった。


 そういうことは、次第に周りの人に知られていった。彼は、周囲から、「幼稚園で漢字勉強してるなんて天才やん。」と一種の尊敬の目で見られることがあった。しかし、そのとき彼が感じるのは、極めて陰湿で居心地の悪い感覚だった。彼は、別に、人から尊敬されたくて漢字を学んだわけでもなければ、将来のことを思って生真面目に漢字を学ぼうと思い立ったのでもなかった。賢くなりたいがゆえに、漢字を嗜んだわけでもない。


 彼はただ、自分の歩く道先に不思議な硝子の破片が落ちていたから、ごく自然にそれを拾ってじっくり眺めていただけなのだった。それなのに、急に、他人から「すごいね」と言われたのだから、幼い彼は、その意を解せず、混乱して動揺した。


 その後も、彼は、兎角いろいろな物事に興味を広げた。昆虫、植物、星座、化学、歴史…


 それに加え、彼の母は教育熱心だった。世間では、「あまり親が教育熱心だと、子供はかえって勉強したがらない」ということが偶に言われる。それはその通り、紛れもない事実であろう。しかし、彼の場合は違った。彼は幸運だった。

 少年の母は、少年の教育に関して、的確な判断をした。母は、教育熱心であると同時に、彼に、自分の興味の赴くところを自由に追求させた。そして、そのような環境と、少年の「純粋な好奇心」の非常なる強さが大いに調和して、あちこち彷徨い歩く少年の興味のベクトルは、常にその一角に、学問というものを離すことなく据え続けた。

 そうして、彼は、熱心に勉強をして、知識量と学力は自然と成長していった。




 “そして今、彼は、高校一年生である”


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