第3話 登校

 翌朝、少年はベッドで目を覚ました。その一瞬間に、暗くて重い物が、彼の心を締め付ける。そして、それは、暫くの時間をかけて、血液を這うようにして全身を駆け巡り、遂には体内を満たしてしまう。


 「ああ。起きてしまった。」


 今まで現実とは離れた世界でゆっくり休んでいたのに、先ほどのその刹那に自分が憂き現実世界に無理矢理連れ戻されたのが、彼にとって最大の怪訝だった。もう少しばかり休んでいたかった。


 そんな後、ようやく、目が働き始める。周りの様子が、まじまじと自分の目の中に、我先に、我先に、と入り込んで来る。痛い、と思わず叫びそうになる。

 白い天井には、昨日と相変わらず、茶色のシミがうねっている。それが描く模様は、昨日と同じような気もすれば、若干違うような気もした。


 昨日の不可解な蠢きのことは、少年の頭の中にはすっかり無かった。ただただ、憂い現実の到来を知らせる鐘が、大きな音を鳴らしながら、彼の頭の中をうるさく彷徨いていた。


 鉛のような身体をもたげた後、台所へ向かう。蛇口から出る透明な水の動きを暫く眺めるが、残念ながらいつまで経っても、自分の心は透き通らない。暗くて黒い空気の塊が胸の内に堂々と居座り続ける。


 彼は、こういうのを意に介してはならぬと理解していた。平然とした顔で、朝食を食べる。平然とした顔で、親と話を交わす。平然とした顔で、家を出立して学校に向かう。


学校に向かう親の車の中では、何もする気が起こらない。ただ、ぼーっとする。顔は、車窓の外を向いているが、実際は外の景色など一つも彼の脳には入ってこない。こういう時、周りから見ると、彼の目は、まるで焦点が合っていないように見えた。しかし、実際は厳密にはそうではない。彼は、自分の目の焦点を、外界ではなく、自分の心の中の世界に合わせていた。それは、自分を苦から守るための機制の一種なのかもしれぬ。現実というものに目を合わせないようにしているのかもしれぬ。とはいえ、一つ、一つと学校に近づくにつれて、心の中の暗い空気の塊が成長するような気がして、恐いのには変わりない。


 車と時間は、彼の憂いを微塵も気にすることなく、平然と進み続ける。

 少年は、一旦、目を瞑ってみた。そうすれば、全て忘れられるのではないか。


 決して、そんなことはなかった。


 ともすると、そのうち、瞼の裏に、恐ろしい暗黒に満ちたものが浮かび上がってくる。人間の目のような形をしている。そうだ、紛れもない、人間の目だ。

 その目は、まるで自分を監視するように、鋭い視線でこちらを睨んでくる。その目は徐々に大きくなりながら薄くなって消えていく。と思うと、次はその薄くなっていく大きな目の中に新たな目が現れる。その目もまた、自分を鋭く睨む。そして、またその目が大きくなりながら消えていくかと思うと、また、その中心に新たな目が現れる。まるでマトリョーシカの如く、大きい目の中に新たな目が現れ、またその目の中に新たな目が現れ、…ということが永遠に繰り返される。恐ろしく気味が悪い。思わず叫びそうになる。

 いや、待て。自分が意識しているからこれが出てくるのだ、無視すれば、消えていくはずだ、と目を逸らしてそれをかき消そうとするが、かえって意識してしまい、次第にその像は鮮明さを増していく。耐えられず、目を開ける。暗黒のそれは消えた。

 と同時に、周りの様子が、まじまじと自分の目の中に、我先に、我先に、と入り込んで来る。車窓の外には、赤い大きな建物が立っている。煙突からは、薄黒い煙がたなびいている。ああ、目を瞑っていた間に、もうここまで来たのか、じきに着いてしまうではないか…また、あの怪訝を、もう一度最初から感じる羽目となる。ああ、いやだ、と思い、目を瞑る。


 すると、また暗黒の目が現れる…


 そんなことを繰り返しているうちに、遂に車は冷淡に学校に到着する。

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