第2話 蠢き
快晴。
永遠に澄みわたった小川の水面。陽の光をさらさらと柔和にはね返す。
あちこちで、琥珀のような輝き。生まれては消え、消えては生まれる。
動物たちが引き寄せられる。雀やら燕やら磯鵯やらが、小川の岸辺に舞い降りる。
鳥たちは、甲高い声を上げて鳴く。細い嘴を水の中に突っ込む。
水もまた、それに応えて、ぴちゃぴちゃと音を立てては、余計に輝く。
近くに、古びた木造の家がある。もう何十年もの間ここに建っている家らしい。壁はところどころ薄汚く汚れ、隅には数匹の蜘蛛が棲家を設けている。しかしながら、かえって、そのような様子が、荘厳な雰囲気を醸し出している。
✳︎
家の中。小柄な少年が、静かに、しかし、はっきりと、一人佇んでいる。
この少年は自然が大好きなのだ。時間の空いた時には、きまって外に出て虫や鳥を探す。そうすると、彼の心は非常に癒やされるのであった。だから、今日も、こうやって、一人佇みながら、屋外から聞こえてくる鳥の声や水の音に聞き入って、感傷の海に浸っているに相違ない…最初はそう思われた。
しかし、暫く少年の様子を伺ってみると、どうも、それとは違うようなのである。どうやら、少年は薄暗い雰囲気の中に一人閉じ込められているのである。
自然の中に佇むときであれば、彼の眼差しは、いつもにも増して、柔らかに輝くはずである。だが今は、明らかに違う。その目を見ると、あのいつもの純真な少年の眼差しは、一切の片鱗も残さずに消え去ってしまったようだ。自然の美しさを忘れてしまったか、否、そうではなかろう。それ以前に、重苦しい何かが、彼の心を大いに締め付けて、陰鬱にさせている。
「はあ。」
一塊の空気が、少年の口から放り出された。それらは、外界に出て急に自由を得た!と言わんばかりに、周りの空間に四方八方に散らばってゆく。
「はあ。」
少年は、幾度となく重苦しい空気を吐き続けた。まるで、それを一瞬でも止めたら、身体の中のあらゆる循環が途絶えて、彼の命が消灯してしまうのではないかと思われるほどに。
彼は、彼の心を締め付ける何かを、自分の身体の外へと追い出そうとしたのであった。しかし、それは一向に出ていく気配を見せなかった。それはがっちりと少年のか細い身体に喰らいついたままである。
息苦しい…
少年は、少しばかり、その細い手を伸ばし、台所の引き出しに手をかける。手が小刻みに震えている。少年は、知っていた。そこに何があるかを。そして、それがいかに危険なものであるかをも。
少年は、自分の心を締め付ける何かを、それを使って消し去ろうとしたのだった。これ以上ない多大なる犠牲を払って。
いくほどかの躊躇の後、少年はすっと黒い引き出しを開く。それは、その鋭利さを見せつけるかのように、少年の目に鈍重な銀色の光を届ける。
そして、少年の小さな右手がそれをはっきりと握る。それの先端を自分の方に向ける。
「もはや…」
✳︎
そのとき、何か気配を感じた。今まで強張っていた手の筋肉がふっと緩む。心臓が、どくんどくんと動き始める。下を向いていた顔をおもむろに上げ、おそるおそる前を見た。
何も無い。
何も無いではないか、馬鹿者。気を散らすな、馬鹿者。果たせないではないか。
そう思ったその時であった、僕がそれに気づいたのは。
待て…待てよ。やはり何かいる。必死で目を凝らす。何か、見える。朧げに。遠くで…遠くで、眩い何かがゆっくりと蠢いている。ゆっくりと、ゆっくりと。滑らかに。何なのだ、あれは。
しばらくの後、柔らかく湿った空気が周りの空間を満たしていく。僕は、何も考えずに、ただただそれを見つめていた。温かな空気は、僕の心にまで染み込んでくる。
僕がふと気づいたときには、すでに、それは無かった。僕は必死で目を細めて、もう一度その陰影を目の前に認めようと試みたのだが、もうそこにそれは現れなかった。何だったのだろう。
僕の心を今まで締め付けていた何かは消えていた。解放された。
しかし、私の心に生じたのは、解放された嬉しさや安堵などではなかった。あまりに奇異な現象を目の当たりにしたことに対する重大な驚きだった。
そして、その後も、しばらくの間、僕は呆然と立ちすくんでいた。
✳︎
しばらく経って、少年はふと我に帰った。全く、どれだけの時間が経ったのか、分からなかった。たったの五分なのかも知れなければ、三十分、いや、一時間も経ったのかも知れなかった。
少年はそっと呟いた。
「もうよそう、こんなことは。私は先まで、なんと愚かなことを考えていたものか。どんな辛いことがあろうとも、もうこんなことはしてはならぬ。」
少年のうなだれた右手は、それを放棄し、それを黒い引き出しの中に戻した。
少年は、自分の右手を軽く叩いた。
彼の目には、いつもの純真な眼差しが戻っていた。いや、むしろ、いつもにも増して、透き通っていた。
彼は、一切の物音を立てずに、自分の部屋へと戻っていった。
少年は、自分の部屋に入るや否や、自分の身体をベッドへと投げ出した。ベッドは、彼の身体を受け入れて柔らかに包み込む。そして、彼は、大の字になり、上を見上げる。白い天井には、茶色いシミが、模様を描きながらうねっている。
少年は、さっき見た蠢きが何だったのかを思い出そうとした。
✳︎
あの蠢く何かは、眩いばかりの光を発して、僕の心を照らした。その刹那に、豪雨は一気に止み、虹が姿を現した。あれは、なんだったんだろう。この世界にあんな美しいものがあるものか。では、幻だったのだろうか。それとも、別世界の物が思わぬところに虚像として映し出されたのだろうか…
いいや、それは確かに朧げではあったが、はっきりとそこに在った。幻や虚像などではない。はて。
蠢いていたのは、空間なのだろうか。まるで、そこの空間が、突如として意志を持って、自身を歪曲させながら、動き出したようにも思えた。空間の意志。その空間の中で、光が活発に動き回り、衝動的に光は漏れ出る。眩い光。
とにかく、何にせよ、それは、我々の知っている世界の理屈や理論といったものでは説明できないような、とにかく、奇妙で超常的な現象だった。
と同時に、何か既視感も覚えたのである。似たようなものを今までにも見たことがあるのではないか、そして、自分はそれをよく知っているのではないか、という感覚が、なぜだかわからないが、我輩の脳裏を妙に掠っていくのだ。
結局、それが何だったかは分からない。
でも、きっといつか分かる、そんな気がした。
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