第7話
夜が明けて、四日目となった。帰国の日だ。九時にホテルを出発する。朝食の後、O氏はチェックアウトの準備を始めた。靴下、ハンカチを新しいものに代え、帰る日用にと考えていたブレザーをスーツケースから取り出して着た。小卓やスタンド台、机の上に置いている筆記具や手帳、冊子類などをショルダーバッグに回収した。不要なものはゴミ箱に捨てた。クロゼットを開け、今日着ない衣類をスーツケースに仕舞った。酒三本もスーツケースに入れた。浴室を見て、未使用の歯ブラシ・歯磨きセットや、櫛、髭剃りは持ち帰ることにした。そして、ある緊張感を覚えながら、貴重品を入れる金庫からパスポートと、財布に小分けした金以外の所持金全部が入っているポーチを取り出した。この二つは絶対になくしてはならないと意識し続けていたものだった。最後に外套を着て、O氏はもう一度室内を見回した。忘れ物はないはずだった。まあ、楽しかったな、とO氏は旅について思った。来てよかったという感慨をO氏は抱いた。
ロビーに下りると一行の大半が既に集っていた。O氏は昨夜夕食を共にした台湾人の女性研究者に近づいた。挨拶を交わした後、机の上に置かれていたメモ紙を取り出し、解読を請うた。大陸の簡体字は読みづらいのか、彼女は眉根を寄せて読んでいたが、やがて顔を上げ、「先生が毎日熱心に本を読んでいるようだから、栞をさしあげる。快適なご滞在を願います、と書いてあります」と言って微笑した。O氏も微笑んだ。いい思い出ができたなと彼は思った。部屋の係になっている人が、いつも枕許にある本を見て、栞をプレゼントしてくれたようだ。会ったことはない人だった。メモの署名を見ても男か女かさえO氏には分からなかった。しかし、O氏の心は温まった。二日目の夜、スタンド台に英文と中国文の二通りの文章が印刷された紙片が置いてあるのにO氏は気づいた。英文の方を読むと、どうやらベッドのシーツや枕カバーを毎日取り替える必要があるかどうかを訊ねているようだった。それぞれの文章の下にチェック欄が付いた選択肢が印刷されていた。O氏は取り替え不要のチェックを中国文の下の選択肢に付けた。それは中国文が読めるという見栄を張りたかったというより悪戯心のなせるわざだった。係の人はそれを見て、O氏が中国語を理解すると思い、メモを残したのかもしれなかった。
O氏はバスに乗り込んだ。後は一路帰るだけだった。大きな失敗もせず、何とか無事に旅を終えられそうだった。まあ、いい旅だったな、とO氏は安堵の気持とともに思った。ホテルの玄関に目をやると、朱蕾がスロープを上っていくところだった。その後に同じような肥満した体躯の年配の婦人が従っていた。朱蕾は出発間際まで忙しく立ち働いているようだった。
バスの中では会長の挨拶が始まった。会長は大会が不測の事態を乗り越え、所期の成果を収めて終ったことを称えた。そして、来た時と同じように朱蕾の貢献を語って、感謝を表明した。朱蕾の母親が紹介され、朱蕾と母親は前に立ち、参加者の拍手を浴びた。朱蕾の横に立っていたのはさっき朱蕾の後を歩いていた婦人だった。やはり朱蕾の母親だったとO氏は思った。二人は容姿がよく似ていた。O氏も旅行中の朱蕾の働きを思い、強く手を叩いた。バスは発進した。
瀋陽市内にある工科大学の教員がマイクを握って、市中案内を兼ねたスピーチを始めた。四十代半ばと思われる中国人だ。バスが今通っている路は自分が毎朝通勤するルートに重なっていると語りだした。もちろん日本語だ。学会では日本語が公用語のようになっている。昨夜ビールを飲みすぎて、まだ酔っていると言いながら、剽軽な語り口でしゃべる。彼が勤務する大学が車窓を過ぎると、学内事情を語りだしたが、考え方の合わない同僚との対立や、研究内容・方法への当局の干渉など、不満の種を冗談にまぶしながら、面白おかしく語った。中国はやはり不自由な統制社会であった。
一時間余りでバスは瀋陽空港に到着した。土産に酒を買った者は、空港で梱包してくれると朱蕾から言われていた。三名の該当者は、一行が搭乗手続きのために並ぶ列の末尾にいるように朱蕾から指示された。先頭の手続きが始まった頃、朱蕾は三人を列から抜けさせ、フロアの端の、二、三人の係官が机の後ろに控えている所に導いた。そこで酒瓶を計量し、梱包するのだった。朱蕾が係官と中国語で二言、三言話を交わし、作業が始まった。秤で重さを計測し、酒瓶を緩衝材で被い、大きさと数量に合わせたダンボールの箱に詰める。箱には機械によって紐が縦横にきっちり掛けられた。これなら途中で割れる心配はないとO氏は思った。
前の人が料金を請求された。金を払うんだと思って、O氏はズボンの右の尻ポケットに手をやった。財布の感触がなかった。電流のようなものがO氏の脳裡を走った。ああ、来た! とO氏は思った。やっぱり来た! とO氏は唇を噛みしめた。無事に終わることはないのだ、何かが起きなければ済まないのだ! O氏はホテルの部屋の枕頭のスタンド台を思い浮かべた。その抽出しの中に財布はあるのだった。どうするのだ、空港で気づくとは! どうしようもない。どうしようもない。O氏は搭乗手続きをする一行の列を眺め、この人達に間もなく自分の失態は伝わり、憫れみはこもっているとしても、奇異なものを見る目で自分は見られることになる、と思った。その場に座り込みそうになる自分をO氏は怺えた。「八十元です」と朱蕾がO氏に支払いを促した。大した額ではないとO氏は思った。だが、O氏には払えないのだった。こんなことを言って迷惑を掛けるなぁと、O氏は朱蕾に対して済まなく思った。しかし言わざるを得ないのだった。突然の事態に対する恐れと不安がO氏の声をか細く震えさせ、言葉遣いまでおかしくさせた。「先生」とO氏は朱蕾に呼びかけていた。「すいません。財布を忘れました」かすれたような声だった。
朱蕾は表情を変えず、「ホテルですか」と訊いた。O氏は頷き、「ベッドの脇の、スタンド台の抽出しの中です」と答えた。朱蕾は携帯電話を取り出すと、ボタンを押し始めた。そうしながらO氏に部屋の番号を訊ねた。O氏は答えた。電話が通じ、朱蕾は中国語で話し始めた。どんな財布で、中に何が入っているか、とO氏はまた訊かれた。昨日、ホテルを出発前に、一万五千円を元に両替したのだ。千二百元ほどになった。その後支払ったのは瀋陽故宮で買った扇子と酒三本の代金、それに夕食代だから、千元くらいが残っているはずだった。それと日本円が千円札一枚。あとは自他の名刺や使っていない診察券、図書館の利用カードくらいだった。運転免許証やキャッシュカードは入れていない。それは幸いだった。携帯電話を閉じた朱蕾は、「今から捜して、また連絡が入ります」と言った。O氏は彼女の敏速な対応に頭を下げた。
料金を日本円で支払うわけにはいかず、O氏は自分の前に並んでいた女性から金を借りた。その女性は私立の工業大学の講師で、O氏とは北京の大会の時に知り合っていた。彼女は土産には酒を買うつもりだと、出発の日に福岡の空港で顔を合わせた時からO氏に告げていた。O氏とは別の酒を十本ほど買っていた。酒の購入については彼女もまた朱蕾にいろいろと訊ねていた。
しばらくして、朱蕾が、財布が見つかったというホテルからの連絡をO氏に伝えた。中に入っていたものもO氏の言と一致した。そして財布を空港に届けてくれるという。O氏はそれを僥倖と感じた。不幸中の幸いと言うべきか。朱蕾の手を握って頭を下げ、感謝の言葉を捧げたい衝動に駆られた。財布が手許に戻れば精神的にかなり楽になるとO氏は思った。そうなればこの事件も旅行中の一エピソードに収まるだろう。そう思ってO氏は微笑をもらした。ところが朱蕾からO氏にホテルからの第二報が伝えられた。道路の渋滞が始まる時間帯なので、飛行機の離陸時刻までに空港に着けそうもないから、財布は届けられないとのことだった。やはりそんなことか、とO氏は思った。財布のなかに緊急に必要なものはないかと朱蕾はO氏に訊いた。O氏には思い浮かばなかった。図書館の利用カードが入っているが、緊急に必要ということはなかろう。「別にないですね」とO氏は答えた。朱蕾は「すぐに必要なものが入っていないなら、二十日になってもいいですか。二十日でいいなら私がホテルに財布を取りに行きます」と言った。二十日は三週間後だった。「いいですよ。すみませんね」とO氏は応じた。朱蕾の言葉がO氏には有難かった。
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