第6話

 一行は瀋陽故宮に向かった。瀋陽故宮は初代皇帝太祖ヌルハチと太宗ホンタイジによって建設された王宮である。第三代皇帝順治帝によって北京に遷都されるまで、ここが清王朝の王城だった。

 故宮の周辺にはデパートやスーパー、コンビニがあり、見物の終了後は土産物を買う予定になっていた。O氏は土産は酒と決めていた。おいしい地酒を買って帰りたかった。どこで買えばよいかわからないので、ツアーコンダクターのような役割を果している朱蕾に訊ねた。買物について彼女に訊く人は多かった。朱蕾は故宮周辺の店は値段が高いから、酒はホテルの近くの店で買う方がよいと言った。それでO氏は買物はホテルに帰ってからすることにした。彼は買物の時間も故宮の見物に費やした。「ヌルハチ」や「八旗制度」などの言葉に、O氏は高校時代の世界史の教科書を思い起した。

 その日の夕食はホテルではとらず、外ですることになっていた。一行はホテルを出て、夜の瀋陽の街を歩き始めた。O氏は酒を売っている店を探しながら歩いた。ホテルの近くのコンビニで売っていると朱蕾は言ったが、コンビニがどこにあるのかまでは訊かなかった。中国のコンビニがどんな様態のものなのかもO氏には分からなかったが、とにかく、らしきものはないかと目を配って歩いた。前を歩いていた人々が一つの菜館に入っていった。司書の女性や、話を交わした何人かがその中に含まれていたので、O氏もそのグループに加わろうと前に進みかけたが、なぜかその気持に抵抗を覚え、ままよと動かなかった。その店では全員は収容できず、列の後半の人々は別の店を探してまた歩きだした。先導しているのは朱蕾だった。彼女ならいい所に案内するだろうという信頼感が人々にはあるようだった。

 果して、手頃な店に朱蕾は一行を導いた。O氏はそれまで話を交わさなかった女子大の教授や大学院生たち、台湾出身の子連れの研究者などと同じテーブルを囲むことになった。O氏以外の人々は普段からのつながりがあるようで、席に座るとすぐ親しそうに話を始めた。一人部外者という感じのO氏は気詰りを覚えたが、一座のなかで自分が最年長者であることに気づき、それらしい態度を示そうと思った。つまり、座の和やかな雰囲気を壊さないように気を配りながら、自然な形で会話に加わっていくように努めた。台湾出身の女性研究者と交わした、大陸中国と台湾との漢字政策の違いについての会話はO氏の興を惹いた。臨席の女子大の教授とは過去の大会でも会い、面識はあったが、親しく話す機会はなかった。学会では若手(と言っても四十代後半)ながら、紀要の編集を担当する幹部の一人だった。言葉遣いに年長の自分に対する丁重さを感じ、O氏は好感を抱いた。

 朱蕾がテーブルに近づいた機をとらえて、O氏は懸案の酒の購入について訊ねた。朱蕾は近くに店があると言い、そこで売っている酒はこの店でも使っていると答えた。そして彼女はその酒を持ってきた。ビールの大瓶くらいのサイズの蒸留酒だった。四十度の強い酒で、値段は一本六元という。信じられないくらいの安さだ。それが箱に入れば二十元になるという。泊っているホテルの三階に酒類を展示したケースがあったが、芧台酒の箱入り(容量は一リットル未満)には九百元の値段が付いていた。O氏はそれと比較したのだった。よし、これを買おうとO氏は思った。箱はもちろんいらない。味見もせず、O氏は三本買うことにした。女子大の教授も一本注文した。朱蕾は早速店を出て、その酒を買って戻ってきた。O氏は代価を払いながら、朱蕾の働きは至れり尽くせりだなと思った。

 ホテルに戻って、シャワーを浴び、ベッドに横になると、O氏は枕頭のスタンド台に置いてある井上ひさしの小説『一週間』を手に取った。図書館にリクエストを出していたのだが、OKの連絡があって、入手したのは旅行に出る二日ほど前だった。読み始めるとすぐに引き込まれた。それで旅行に携行することにした。O氏の場合、旅行と読書はセットになっている。旅行中に読む本を常に携行しているのだ。ベッドに横になって、眠りに落ちるまで読み耽る読書。夜中に目覚めれば、脇に置いてある本をまた取り上げて始める読書。ホテルに三泊した間、この読書の時間はO氏に幸福感をもたらしていた。明日のことを考えず、他のことを考えず、ひたすら読書に没頭できる幸福。三日間、O氏の枕頭には井上ひさしの部厚い本が置かれていた。

 ページを開こうとすると、見かけない栞が挟まっていた。弁髪の子供が独楽回しに興ずる図柄を描いた栞だった。なぜこんなものがあるのかとO氏は訝しく思ったが、深く考えることもなく読書を始めた。しばらくして、さっき朱蕾から買い取った酒の味見をすることをO氏は思いついた。起き上がって、酒を取り出し、栓を開けて、カーテン際の、小卓に付いた椅子に腰掛けた。一口飲んだ。奇妙な味だった。喉を消毒する薬品のような味覚だった。強い酒であることは確かだったが、うまくなかった。アチャー、とO氏は思った。味見してから買えばよかったと悔いた。しかし、値段を考えれば、こんなものか、とも思った。三本は多すぎたなと思った。二口、三口と飲んでいくと、幾分か舌に馴染んでくるような気もした。ふと前の机に目をやると、メモ紙が置かれていた。手に取ると、四行ほどの中国文が書いてある。中国語を解さないO氏には文意は分からなかったが、栞と関係があるのではないかとO氏は思った。

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