第5話

  三日目は「現地調査」という名目の観光だった。ホテルからさほど遠くない北陵公園(昭陵公園)と瀋陽故宮が訪れる場所だった。一行を乗せたバスは先ず北陵公園に向かった。北陵公園は清朝の第二代皇帝である太宗皇太極ホンタイジと、その后、孝端文皇后の陵墓だ。

 黄土色の瓦で葺かれた屋根が三つ並び、その下の赤褐色の壁を刳り貫いた三つのアーチをつないだ形の、高さ十メートルを越える門が入口だった。門を抜けると、幅三十メートルは優にある墓道が一直線に伸びている。一行は幾つかのグループに分かれて歩き始めた。O氏は四、五人のグループの後に従った。そのグループの中心には学会の役員をしている二人の教授がいる。

 墓道の先端には丘のようなものが霞んで見える。そこに陵はあるのだろう。そこまでどのくらいの距離があるのか。集合時間まで一時間余りしかない。往復を考えれば、今から遅くても三十分以内に陵に到達していなければならない。

 五分ほど歩くと、右手の林を透かして水面が見えてきた。肋木のような白い骨組だけの建築物も目に入った。興が動いて、O氏はそちらに足を向けた。近づくと、人々がその建築物の周囲に佇み、広い池を眺めていた。池には足で漕ぐ、水鳥の形をしたボートがいくつか浮かんでいた。ボートには親子連れが乗っている。その日は日曜日だった。瀋陽の市民が休日を楽しんでいるのだった。O氏は岸辺に近い水面に立つ女神のような白い彫像を写真に収めた。

 墓道に戻ると、O氏がその後のついていたグループは百メートル以上も先に去っていた。O氏は一人になった。別にかまわないと思った。司書の女性が二、三人の女性たちと前方左端を歩いていくのが目にとまった。

 凧揚げをする親子連れがよく目についた。ラジカセを鳴らして踊る集団もいた。

 歩き始めて十五分を過ぎても陵には到達しなかった。やがて武将の立像が墓道の中央に見えてきた。立像は二メートルを越える台座の上に立っていた。像の周辺には親子連れが二、三組いた。その一組が台座の前にいたので、O氏はその母子が立去るまでカメラのシャッターを押せなかった。誰の像なのか、近づけば分かるのだが、O氏は写真を撮るとそのまま像の傍らを歩き過ぎた。彼は既に焦りを覚えていた。

 しばらく歩いてようやく大きな門に到達した。その辺りの道はいつのまにか石畳になっていた。O氏はその門を背景に自分の姿を写真に撮ってもらいたかったが、シャッターを押してと頼む人もいなかった。門を抜けると、両側に馬や駱駝や象などの大きな石像が並ぶ道が伸びていた。その長い道を歩ききり、さらに一つの楼門を抜け、四角形の城壁で囲まれた「方城」と言われる領域にO氏は入っていった。途中、学会の一グループを見かけた。城壁の上部は通路になっており、O氏はそこを足早に歩いた。ここが最後の地点とO氏は思っていた。既に歩き始めてから三十分近くになっていた。そろそろ引き返さなければならない時刻だった。学会の役員をしている教授が若い大学院生と談笑しながら歩いていた。彼女は研究発表を行った院生だった。二人のゆっくりした足取りに、余裕があるなとO氏は思った。そろそろ引き返さないと集合時間に間に合わないぞ、と思った。

 四角形の城壁で囲まれた領域の中央奥にある楼閣にO氏は足を向けた。それが墓所となる建物だとO氏は思っていた。その建物をそそくさと見て回って写真を撮り、見るべきものは見たという思いでO氏はUターンを開始した。実はその建物の背後に「宝頂」と呼ばれる、皇帝ホンタイジと皇后の墳墓があったのだった。

 O氏は腕時計を見た。集合時間まで二十五分しかなかった。間に合うかな、と彼は少し不安を感じた。武将の立像まで引き返してきた。残り時間は十五分を切っていた。教授たちの一グループを見かけた。O氏は追い抜いた。

 O氏はゆっくり歩きたかった。何を焦ることがある。中国までやってきて何をあくせくするのだ。天気の好い、休日の公園だ。中国の市民たちものんびり過ごしている。はるばる日本から休暇を取ってやってきた旅行者が何をせかせかすることがある。ここであくせくして、ここまで来た甲斐がどこにある。O氏は自分に言い聞かせてみた。少々遅れたからといって、大したことはないとO氏も思っていた。自分を置いてバスが出てしまうとも思わなかった。しかし、皆が既に集合していて、自分一人を待っているという状況を思い浮かべると、落着かなくなるのだった。これが誰かと道連れであれば違っていただろう。O氏は一人だった。途中見かけた教授たちののんびりした姿はO氏を安心させなかった。教授たちは遅れても大目に見られるだろう。そんな人間関係を彼らは学会のなかに築いている。O氏はそう思った。一方、O氏には何もなかった。時間に遅れて、待っている人々の目の中を一人歩かねばならぬ自分を思い浮かべて、O氏は怖気をふるった。

 O氏の視界の中をさっき見かけた教授たちが、六人乗りの電気カートに乗って、入口に向かって走り去っていった。アッとO氏は思った。あんな手もあるのだ。それでゆっくりしていたのか。O氏は唇を噛んだ。ということは彼らも集合時間に間に合おうとしているのだ。実はO氏はゆったりした教授たちの動きを見て、出発時間は延ばされるのではないかという推測もしていた。それはこの学会ではよくあることだった。しかしそうでもないようではないか。O氏は腕時計を見た。十分を切っていた。入口の門はまだ見えない。クソッとO氏は思った。彼は走り始めた。凧揚げをする親子連れの傍らをO氏は走った。二、三分走って、O氏はやめた。息が弾んでいた。汗が少し出ていた。もういいだろうとO氏は思った。遅れたとしても仕方がないとも思った。これ以上走るのは馬鹿らしかった。

 入口の門が見えてきた。しばらく歩くと門の前に人々が佇む姿も見えてきた。さらに近づくとそれが学会のメンバーであることが判別された。O氏は笑顔をつくりながら彼らに近づき、その中の一員となった。彼らはそこでまだ戻らないメンバーを待っているのだった。集合時間を過ぎていたが、まだかなりの人が戻ってきてなかった。

三々五々、人々は戻ってきた。電気カートに乗ってくる一団もあった。その中に司書の女性もいた。待っている人々はにこやかに彼らを迎えた。O氏はそののんびりとした様子を見て、焦って走り出した自分が滑稽に思え、恥ずかしくなった。走る姿をここから見られたのではないかと思い、自分が走り始めたと思われる地点に目を凝らした。

 集合時間を十分以上過ぎて、会長ほか二、三名が戻ってきた。さらに遅れて、大学院生らしい女性四人連れが戻ってきた。殿しんがりだった。彼女らは急ぐ様子もなく、楽しげに話しながら歩いてきた。走らないのか、とO氏は呆れた。彼女らの「豪胆」に比して、自らの「小心」がO氏の胸にきた。なぜこうなのだろうかと思うと、孤立的な状況のなかで、周囲との摩擦に神経をつかいながら、日々を潜り抜けている職場での己の姿がO氏には見えてきた。

 バスとの連絡を担当している朱蕾が五分ほど前から顔を出していた。彼女は全員が揃ったことを確認すると、別の場所で待機しているバスを携帯電話で呼んだ。入口の門の前の道路には長く駐車することはできないのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る