第8話

 財布を異国に置いたまま、O氏は帰国することになった。それがO氏には残念でならなかった。なぜ気がつかなかったのか。ホテルの部屋を出る際、確認のため部屋の中を見回した自分の行為をO氏は思い起した。財布は目に留まらなかった。抽出しの中に入れてあったのだから目に留まるはずはなかった。なぜ抽出しの中などに入れたのか。O氏はそんなことをした自分の心事を追思した。

 O氏が財布を特別に気に掛けていたことは確かだった。なにしろそれは、これまで何度もO氏の前から姿を消しては、また出現してきた代物だった。姿を消す度にO氏に苦悩をもたらした。O氏はこの旅でそんな思いをくり返したくなかった。O氏には前科もあった。北京の大会参加時に財布を忘れるトラブルを起していた。バスがホテルを出発しようとする時、O氏は財布を忘れたことに気づき、一行を待たせて部屋に戻るということがあった。財布は貴重品を入れる金庫に入ったままになっていた。そんな経緯があったから、O氏は財布の紛失には神経を尖らせていたのだ。O氏がこの旅行中、その紛失を最も警戒していたものは、パスポート、有り金の入ったポーチ、そして財布だった。パスポートとポーチは金庫に入れた。財布をどうするか、O氏は迷ったのだ。金庫は開閉、ロックの操作が面倒で、何度も出し入れする財布を入れるには不適だった。

 迷うことはなかったのだ。机の上でもスタンド台の上でも置いておけばよかったのだ。しかし、それがO氏には不用心に思われた。財布を手に取り、眺めたO氏は、財布をまだ失っていない安穏・幸福を感じた。この財布が無くなれば苦しむことになるのだった。すると、今ある安穏・幸福をより確かなものにして持続させたいという欲求が生まれた。その欲求からすれば、財布をポンと何かの上に置いておくことはとても不用心に感じられるのだった。O氏はおかしな考えに囚われた。O氏が部屋にいない時に誰かが、例えば部屋の清掃などをする人が入ってくる。その人はポンと置かれた財布を見て変な気持を起さないだろうか。起さないとは限らない。それで目に触れない所、つまり抽出しに入れておくのが安全だと思ったのだ。一度抽出しに入れてみると、部屋に帰ってくる度にO氏はそうするようになった。しかし、これは無意味な用心だった。部屋はオートロックで閉めれば外からは開けられない。客室係が入ってくるのはO氏が出かけている日中で、その時はO氏は財布を携帯している。財布が部屋の中にポンと置かれていて、O氏が不在とぃう状況は、例えば財布から小銭を抜き出して、部屋の外の自販機で買物をしている場合など、ごく短時間しかない。その場合もドアは施錠されている。O氏は財布があるという安心感を貪るあまり、過剰で無意味な用心をして財布を忘れることになってしまったのだ。O氏から話を聞いた司書の女性は、財布を抽出しに入れるなんてことは考えられないと言ったものだ。その上、チェックアウト時にはパスポートとポーチに気を取られて、財布のことを失念してしまった。O氏はこの事にも自分のだらしなさを覚えるのだった。たとえ何があろうと、財布の所持を忘れるなどということが普通の人間にあるだろうか、と。

 出国審査が終わり、保安検査を経て、一行は出発ロビーに入った。O氏の思惟は硬直を始めていた。何という迂闊者だ、何という愚か者だ、とO氏は自分を罵り続けていた。自分の失策を知っているはずの一行の人々と目を合わせるのも気が引けるようになっていた。自分が今後どんな見識を示そうと、このインテリの先生方の頭に一度インプットされた、財布を忘れるような不確かな人間という評価は消えないのだ。そのように考えるO氏は全人格を否定されたような衝撃を受けていた。

 ロビーの椅子にO氏と朱蕾は並んで腰掛けた。財布の件を処理しなければならなかった。朱蕾はO氏の住所と電話番号を訊ねた。O氏は朱蕾の手帳を取り、自分で書き込んだ。O氏はわざわざホテルまで財布を受取りに行ってくれるという朱蕾にお礼をしなければならないという気持になっていた。〈財布に入っている中国紙幣をお礼に差し上げますから、取ってください〉と言おうかと思ったが、不躾な申し出になるかなと考えて躊躇した。やはり事の済んだ後、何かを贈ったほうがいいと考えて、O氏は朱蕾の住所を訊ねた。朱蕾は怪訝な表情をした。O氏は仕方なく、「いや、お礼がしたいので」と言った。「いいですよ」と朱蕾は応じた。「いや、そうはいかない。気持がすまないので」とO氏は返した。「本当にいいですよ」と朱蕾は再び言ったが、O氏は首を振った。朱蕾は「それじゃぁ」と言って、O氏の差し出した手帳に住所と携帯電話の番号を書き込んだ。それは留学先の日本の住所だった。朱蕾は財布を受取ったら郵送すると言った。財布についての話はそれで終った。O氏は朱蕾の研究テーマを訊ねた。谷崎潤一郎だと朱蕾は答えた。大学で日本の近代文学を専攻したO氏の興味が動いた。谷崎を研究する理由を訊くと、とても正直な気持を書く作家、と答えた。面白い答だとO氏は思った。この中国人留学生とこんな形でなく知り合いたかったなと彼は思った。

 二人の前列の椅子に学会の会長が座っていた。「終りましたか」と会長は振り向いて訊ねた。この件の落着を会長も気に掛けていたのだ。三人は立ち上がり、搭乗ゲートの方に向かって歩き始めた。

「またやってしまいました」

 とO氏は前を行く会長におどけた調子で声をかけた。会長は「心配料をください」と手を差し出した。O氏はこの前の時も会長から同じような言葉を言われていた。今回は気のきいた言葉を返そうと思ったが、やはり笑い声しかO氏の口からは出なかった。五、六歩、歩いて、〈払いたくても財布がありませんよ〉という言葉が浮かんだ。

 免税店には酒も売られていた。その中には土産に手頃な紹興酒や茅台酒もあった。財布があれば両替した元で余裕をもって買える値段だった。昨夜買った酒が口に合わないものだったので、O氏には酒を求める気持がなお残っていた。ここでも買えたんだと彼は思った。もちろん日本円しか所持していない現在のO氏に購入は不可能だったが。

 

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