第3話

 O氏はある学会に所属している。日本語・日本文化の研究・教育に携わっている研究者、教育者、企業人などによって構成されている学会だ。欧米人も少数ながら含まれるが、日・中・韓の人々が会員の大多数を占める。O氏がこの学会に入ったのは偶然からだった。当時彼は趣味を通じてある文化団体に加入していたが、その団体がイベントとして韓国の詩人達との交流を企画した。その際、韓国側とのパイプ役を果した韓国人の大学教授が、この学会の創設者の一人だった。その大学教授は訪韓したO氏たちを自分の研究室に招き入れ、さかんに学会への加入を勧めた。会員の資格は極めて緩やかなようだった。年に一回、学会の研究発表大会が開かれるが、その開催地は日本、中国、韓国と順繰りに回る。旅行を楽しむような気持で参加してもいいですよ、とその教授は言った。O氏はその言葉を真に受けた。中国、韓国を旅行する機会にしようと考えてO氏は入会した。そんな考えのO氏だったから、日本で開催される大会には参加しなかった。

 今年の大会は中国の瀋陽で開かれることになった。O氏は参加することにした。二年のブランクを経ての参加だった。一昨年は東京で行われたので参加せず、昨年はその惰性というか、忙しさもあったが、学会のことは意識から遠のいていて、さして考慮もせず見送ってしまった。今年の大会への参加を決めて、資料を見るうち、昨年の開催地が韓国の光州市であったことを改めて確認した。光州事件の場所だったことを思い、行ってみたかったなとO氏は思った。

 今年の大会の会場は瀋陽市にある師範大学の予定だった。ところが大会開催日の十日ほど前になって、大学から会場提供を断るという通告があった。二ヶ月ほど前に起きた、尖閣諸島沖で中国漁船が日本の巡視船に追突した事件で、日中関係が緊張したことの余波だった。学会の会長は一時は大会の中止をやむなく決意したという。

 そんな事情は一参加者であるO氏は知らなかった。飛行機が瀋陽桃仙国際空港に着いて、ホテルまでの移動のバスに乗りこんだ後、車中での会長の挨拶で知ったのだ。会長は日本人の学者で、学会の創設者だ。教授の職は既に定年退職していた。彼が前記した、かなり年下の韓国の教授と諮らって学会を発足させたのだ。O氏も漁船追突事件の大会への影響を懸念はしていたが、やはりあったのだった。出発の一週間ほど前に宿泊先の変更通知が届いた理由がそれで分かった。

 大会中止の危機を救ったのが朱蕾という中国人留学生だった。彼女は瀋陽市の出身で、大分県内の私立大学の大学院に留学していた。彼女の母親は瀋陽で旅行会社を経営しており、朱蕾も瀋陽に戻るとその手伝いをした。彼女は大分と瀋陽の間を年に何度も往復していた。そんな関係で彼女は瀋陽のホテル事情に通じており、その方面に顔が利いた。それでわずか数日の間に、大会の会場にも宿泊所にもなるホテルを見つけ出し、大学並みの低料金で契約することができた。もちろん母親の協力もあった。中止に追いこまれそうだった大会は彼女の尽力で息を吹き返したのだ。会長は挨拶の中で彼女の貢献を強調し、感謝を表明した。そして彼女を参加者の前に立たせ、拍手を求めた。

 バスはホテルの正面玄関に着いた。ホテルは十階建ての現代的な建物だった。築後間もない新しさを感じさせた。玄関には両サイドにスロープのアプローチがつけられていた。回転ドアを入ると、赤い絨緞を敷いたロビーが広がり、天井は二階まで吹き抜けになっていて、シャンデリアが下がっていた。十メートルほど先にフロントのカウンターがあった。男の従業員は緑色の軍服のような制服を着ており、女性はスチュワーデスのようなスーツ姿だった。

 会長が挨拶のなかで、部屋数の確保が難しいなどと述べたので、相部屋になるのかとO氏は思っていたが、O氏には一人で一部屋が割り当てられた。ツインルームで室内は広く、天井に届く大容量のクロゼット、幅のあるツインベッドが置かれていた。ベッドの足先にテレビ、その横に木製の光沢のある机があった。バス・トイレを覗けば四畳半ほどの広さがあり、洗面台の鏡は壁一面を取ってはめ込まれていた。ホテルの外観と同じく、室内の内装も新しさを感じさせ、清潔な印象を与えた。

 これは快適だ、とO氏は思った。三泊四日をここで過ごす。なかなかいい。学会の大会ではあるが、自分としては観光旅行であり、寛ぎの時間なのだとO氏は改めて思った。高校の教員であるO氏は三日の年休を取り、授業の振り替えをして参加していた。出発の前日は振り替えのため連続五コマの授業を消化しなければならなかった。その前の日も三コマ連続授業だった。旅から戻れば、また振り替えられた授業をこなさなければならない。授業だけではない。いろいろ神経をつかうことの多い職場だ。せめてこの旅の間はゆっくり寛いで、毎日の仕事で疲れた心身を癒したい。これがO氏にとっての旅の位置づけだった。

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