第2話
酒は飲む前が実は一番楽しいのかもしれない。楽しいというのはそれを思って心が弾むという意味だ。もちろん気が重い場合もある。できるなら出たくない飲み会もある。しかし、そんな場合でも、酒を飲むそのこと自体は、私の心をどこかで喜ばせている。酒のうまさは初めの二、三杯だ。後は惰性だ。その後の楽しみはその場の雰囲気、話の展開、事の展開に依存する。楽しいとつい飲みすぎてしまう。何度失敗したことだろう。自分が酒に飲まれる人間、自制のきかないダメ人間であることを何度思い知らされたことだろう。ザンゲ、ザンゲをくり返して、私もようやく酒の飲み方が分かってきた。といっても、やはり失敗とは縁を切れない。
その日は同窓会だった。同窓会と言っても、年に数回、定期的に集まる小規模な会だ。同期生の中に焼き鳥屋を経営している者がいて、その店が会の場所に定まっている。私はその会に出たり出なかったりしていた。どちらかと言えば欠席の方が多かった。その日はなぜか酒が弾んだ。話も弾んだ。おそらく注ぎ上手が私の前に座っていたからだ。彼は私の話を引き出すのもうまかった。同じクラスになったことはない男だったが、どういうわけか私を立てるような態度をとった。それで私はいい気分になった。
翌朝、私は目覚めた。不快な気分だ。二日酔いだ。ああ、嫌だなぁ、と思う。三十分ほどまた眠る。再び意識が戻ってくる。昨夜は飲んだなと思う。楽しかったから、まぁよかったなと思う。ところが終りを覚えていない。どんなふうにその会が終ったのか、自分がどのようにして帰ってきたのかが思い出せない。これは悪い兆候だ。失敗しなかったかなと不安になる。誰かと喧嘩などしなかっただろうか。覚えていない。参加者の顔を思い浮かべる。誰か気に食わない奴はいなかったかなと思う。思い当たる者はいない。口論になるような話題も思い浮かばない。喧嘩するような相手は多分いなかったと思われる。それで少し安心する。
次の不安が頭をもたげる。財布だ。財布を落したのではないか。これは確かめるしかない。寝ている蒲団の足先の方に、昨夜着ていた服が脱ぎ捨ててあるはずだ。そのズボンの尻ポケットを見ればどうなのかが分かるだろう。しかし確かめる気がしない。半ば恐いのだ。嫌な事はなるべく遅く知るほうがいい。私はなおも目を閉じて蒲団のなかにいる。
しかし、やがて直面する時はくる。私は上半身を起こす。ズボンに目をやる。引き寄せる。尻ポケットを見る。手を入れる。やはり、ない。だが、まだ希望はある。ブレザーのポケットに入れたのかもしれない。ブレザーはこの部屋には見当らない。あるいは、酔ってはいても殊勝なことに、いつものように棚の上に置いてあるのかもしれない。ブレザーと棚は別の部屋にある。私は仕方なく立ち上がる。後で、とも思ったが、引き延ばすのも面倒と、早速捜査に取りかかった。隣の部屋に入り、ブレザーを見つけ、表裏のポケットを調べる。ない。棚にも置いていない。下にも落ちていない。昨夜携行した肩掛け鞄の中も調べてみた。ない。ここまで分かって、私は改めて、昨夜の自分の酔いの程度を思う。かなり酔っていたのだ。誰かに迷惑をかけたのかもしれない。帰りを覚えていないというのが何とも忌わしい。どうやら事件は起きたようだ。二日酔いの不快感に包まれている頭は、さらに暗澹たる思いのなかに沈んでいく。暗い休日の始まりだ。
二日酔いというものはただでさえ侘しいものだ。宴の後の、「歓楽極まりて哀情多し」「面白うてやがて悲しき」の情調にとらえられる。もっとも、「歓楽極ま」るような宴会をかって私は経験したことはないが。私の場合はそんな雅な情趣ではなく、たいてい失敗をやらかしているので、その悔いや苦みを噛みしめる侘しさなのだ。今回はその極みだ。酒に酔って財布をなくすなどということは、その人間のだらしなさ、いい加減さ、不確かさを証明するものだ。口でどれだけ立派なことを言おうと、財布をなくしたの一事で、その人間がしっかりした人間ではないことが暴露されてしまうのだ。財布をなくしたという結末によって、その飲み会に参加したことも愚行であったと決定される。私は打ちのめされていた。誰のせいでもなく、自分の愚かしさしか責める対象がないということは何とつらいことであろうか。
しかし、財布の行方は気になる。もしかして、会場の店が保管してくれているのではないか。そんな藁にも縋るような思いも胸を過る。保管していなくても、問い合わせれば、会の終了時の自分の状況について何らかの情報が得られるかもしれない。私はそんなことを思った。
店の主人は同期生とは言え、こういう件で電話するのはやはり気が引けた。そんなに親しい間柄ではない。在学中三年間はクラスが別で面識がなく、卒業後、同窓会に出るようになって知り合ったのだ。ちょっと気難しく、エキセントリックなところのある男だ。
「昨日はどうもお世話になりました」と、改まった物言いで私は切り出した。「どうもありがとうございました」と相手も尋常に応じた。そこで私は崩れて、「俺、だいぶ酔ってたやろ」と訊くと、「そうね、そんな感じやったね」と何の感情もこもらない声音で答える。「どんなふうにして帰ったのか、覚えてないんやけど、二次会とか行ったんやろか」と苦笑を交え、自嘲をこめた言い方で訊く。「二次会は行ってないんやない。だいぶ酔ってたから、もう帰らせたほうがいい、って周りが言いよったから。抵抗しよったみたいやけど」と言って相手は少し笑う。自分の酔態が浮かぶ。仕様がないなと思う。そこにあれば向こうから言うはずだとは思うのだが、訊かずにはおれない気持で、「そこに財布、忘れてないやろか」と私は言った。「財布の忘れものはないね。財布がないの」とまた何の感情もこもっていない声で訊く。「うん。お恥ずかしいことやけど」と私は恥じ入る。「それは困ったね」と相手は一言。この男とこれ以上話すことはない。「いや、どうも、お世話になりました」と言って、私は電話を切った。
どこかで落したのだ。妻の話によれば、その夜はタクシーで帰ってきて、タクシー代を妻に払わせている。かなり酔っていて、上がり框でこけたらしい。払ったタクシー代は駅からの金額なので、どうやら電車で帰ってきたようだ。しかし、私には電車に乗った記憶がない。
財布を落したとすればどこに落したのか。同窓会があった焼き鳥屋を出て、駅までの間。電車の中。電車を降りて家までのタクシーの中。焼き鳥屋は駅前にあり、駅まで数分の距離だ。駅の構内に落したことも考えられる。私は駅の遺失物係に問い合わせた。駅周辺を所管する警察署にも問い合わせた。どちらにも私の財布に該当する情報はなかった。実はタクシー会社にまで問い合わせたのだ。これも予想通りだめだった。
今度ばかりは私も観念していた。消えては現れを何度かくり返した財布だったが、今度こそはバイバイであった。私はあの黒皮の、ずんぐりむっくりした財布に愛着を抱いていた。確かに使いにくいところのある財布だったが、タフな財布だった。造りも丈夫だったが、何よりも無くなったと思わせては現れてくるところに、私はそのタフさを感じていたのだ。それはその財布のユニークさであり、私との縁の深さをも表していた。しかし、さすがに今度ばかりはリカバリーはあるまいと思われた。
中に入っていた金は、飲み代を払った後だから、大したものではなかったはずだ。運転免許証は、この前の件で懲りて、財布に入れるのはやめていた。確かに再発行を必要とするカードがいくつか入っており、その手続を考えれば少し面倒だったが、それもそれほどの打撃ではなかった。従って今回の財布消失は、私の愛着を除けば、実害としては大したことはなかったと言える。
しかし、私の慙悸の思いは消えなかった。帰りを覚えていないほどに酔ったあげくに、財布をなくすというテイタラクを、還暦が近い歳になってもなお曝す男で自分があるということが私を打ちのめし、自信を失わせていた。焼き鳥屋の主人からこの話を聞かされた同期生たちも呆れているだろうと思われた。つまらん男だ、愚か者だ、と私は自分を罵りながら日を過ごしていた。
財布を失くしてから五日が過ぎた。職場から帰ってくると、妻が、大分の警察署から電話があったと告げた。財布が見つかったみたいよ、と言った。私は驚いた。そして喜んだ。早速、妻が記した連絡先に電話を入れた。先方は宇佐署だった。電話をくれた総務課・会計係の人の名前を告げると、女性が電話口に出た。
彼女は鉄道会社から落し物として財布が届けられていると言った。そして財布の形状、内容物を、婦人警官らしいきびきびした口調で告げた。私の財布に間違いなかった。私が自分のものだと確認すると、小包で送り返すという。財布の中に図書館の利用カードが入っていたので、図書館に連絡して、私の電話番号をつきとめたらしい。私は嬉しさと感謝の思いで一杯になり、何度もお礼を言った。電車の中で財布を拾い、届けてくれた人にこそ礼を言わなければならないと気づき、その名を尋ねたが、婦人警官は知らなかった。名を告げずに届けたのだろう。金はわずかしか入っていないと思っていたが四千円余りの現金があったのは意外だった。現金は口座振込で送るということで、口座番号を教えた。財布本体は着払いの小包で送り返すとのこと。その前に受領証、物件送付依頼書を送るので、それに必要事項を記入して返送してほしいという依頼があった。
受話器を置いて、私は何とも言い難い甘美な思いにとらわれていた。こんなこともあるのだ、という思い。よかった! という思い。日ごろに似合わず、警察の有難味なども思うのだった。財布を失ってからずっと私を抑えつけていた慙悸の思いがすっと消えていった。責められるべき私の迂闊さ、締まりのなさには何の変りもないのに、財布が無事に戻ってくるということだけで、負い目のほとんどが消えてしまう現金さに我ながら呆れるほどだ。私は嬉しくて唄い出しそうだった。
その後しばらくこの幸福感は持続した。私は自分を幸運な男だと感じ、人生を前向きに生きようという気持を鼓舞されていた。
電話から五、六日経って書類が届き、即日返送。その三日後に財布が届いた。防水のためビニール袋に入れられ、ボール紙とガムテープで堅固に梱包されていた。手厚いなと私は思った。中からずんぐりむっくりした黒皮の財布が現れた。二週間ぶりの対面だった。私は感慨深く財布を眺めた。宇佐まで行って、帰ってきたのだ。こんな財布も珍しいだろう。こいつは強運の財布だ。縁起のいい奴だ。私の愛着は深まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます