財布譚
坂本梧朗
第1話
黒い牛皮の二つ折の財布だ。購入してから六年ほどになるだろうか。確かK駅前のデパートで、妻と一緒の時に買ったと思う。奮発した記憶がある。私の持ち物としては少し贅沢な買い物だった。中央から進出してきたそのデパートも業績不振で撤退し、現在はその建物に地元のデパートが代って入っている。
この財布を使い始めて、しまったと思ったことは、小銭の出し入れがしにくいこと、特に出す方が困難だ。小銭入れの口が大きく開かない構造なので、中で指が動かしづらく、硬貨の選り分けに手間取るのだ。それと、カードや名詞などが溜まってくると、小銭入れの膨らみと合せて、財布の厚みが三センチを越えるほどになり、それを尻ポケットから取り出すのが困難だ。後ろに待つ人がいる時など、早く支払おうと焦るのだが、なかなか取り出せず、身をくねらせるような仕儀となる。私は長年の習慣で財布はズボンの右の尻ポケットに入れることにしていて、これが一番納まりがいい。だからこんな不便があっても、財布の入れ場所を変える気にはならない。
この財布は今まで何度姿を消したことだろう。この財布について語るとすれば何といってもそのことだ。
突然の消失。それに気づいたのが例えば休日だとすると、その時点で休日の平安は吹き飛んでしまう。私は失せ物捜しは苦手だ。しかし捜すほかはない。明日からまた勤めがあり、出勤に財布は不可欠だ。財布には現金も入っている。まあ、大した額ではない。せいぜい数千円だ。それでも一週間分の昼食代にはなるのだ。財布に入っているのは金だけではない。カード類。幸いなことに私はキャッシュカードは持っていない。それはよかったのだが、悪いことには運転免許証が入っていた。これは困る。免許証は必要だ。運転にはもちろんだが、各種の手続の際の身分証明に欠かせない。これは困ったな、何とか見つけなくては、という思いが私を駆り立てる。
私は一階と二階を上り下りして捜す。ありそうな所は一通り捜したのだが見つからない。どこか外で落したのかという嫌な思いが湧く。それならダメだ、と頭の中で呟く。どこで落したのか。自分の近過去を振り返る。昨日、職場から帰ってから今までの自分の行動、動線を思い浮かべる。財布を出し入れした場面を思い起こす。ちゃんと尻ポケットに押し入れたか。財布が尻ポケットから落ちるような状況はなかったかと思案する。自転車・バイクに乗らなかったか。尻ポケットからハミ出ていた財布が振動で落ちてしまうような状況はなかったか。自転車には乗ったことを私は思い出す。その時、落さなかったとは断定できない。私は絶望的な心情に浸されながら苛立つ。その時だった。
「あんた、あったよ」
妻の声が耳に入る。エッと驚きながら、思わず笑みが浮かぶ。急いで妻のもとに行くと、「どこにあったと思う」と、財布を見せながら問う。「わからん。どこにあったん」と訊くと、「階段」と答えた。 階段? 何度か上り下りした階段になぜ? 下から四段目くらいの踏み板の隅に財布はあったという。その上の踏み板の陰になって見えなかったようだ。思い出した。トイレに行く途中、分厚い財布は座る時の邪魔になるので、尻ポケットから出して、階段に置いたのだ。便意に急かされながら、私が咄嗟に行ったことだった。
こんなふうに姿を消した財布が家の中で再び見つかることが二、三度あった。財布が見つかると私の心は息を吹き返した。財布を見つけるのは私より妻の方が多かった。
出勤の朝、財布が見つからない。昨日は職場から帰ってきて、服を着替え、財布と定期はいつもの棚の上に置いたはずだ。一通り捜してみる。現れたり消えたり、消えたり現れたりするな、と苛立ちのなかで自嘲をこめて思う。見つからない。妻に財布の消失を告げる。私は彼女の失せ物捜しの能力に期待するのだ。彼女も朝は忙しい。それでも彼女は二階に上がり、少しばかり捜してくれた。が、見つからない。時間切れだ。家を出なければならない時刻だ。仕方がないので、今日必要な金を妻から受取り、ポケットに入れる。定期はあった。同じ棚に置くのだが、なぜか財布だけが見つからないのだ。
職場にいる間は財布のことは忘れている。昼食時、代金を払おうとして財布の消失を思い出す。どこに置いたろうかと少し考えをめぐらすが、やはり思いつかない。
家路につくと、また財布のことを思い出す。妻が既に見つけてくれているかもしれないという期待が生まれる。そうあってほしいものだ。
「ただいま」と妻に言うが、「おかえり」と応じるだけだ。財布は見つかっていないようだ。「財布は見つからんやろ」と一応訊いてみる。「あの後も捜してみたけど見つからんね。あんた、どこか落したんやろ」と言う。妻にそう言われると、そんなはずはないと思いながら、どこかに落したのかな、という気もしてくる。
数日が過ぎた。財布は依然として見つからない。この数日間、思いつく所はその度に捜した。まさかとは思ったが、家から電車の駅まで時々乗る、バイクのヘルメット入れの中まで見てみた。
事態は深刻になった。その深刻さは運転免許証が財布の中にあることによっていた。妻は免許証が他人に悪用されることを心配した。早く警察に届けた方がよいと言うのだった。
私は警察への届け出には躊躇を覚えた。昔から私は警察や軍隊は好きではなかった。その
休日、所管の警察署に赴いた。妻が車で送ってくれた。私は少し緊張していたが、応対した警察官の物言いが穏やかだったのは救いだった。
その二日後のことだ。朝、服を着替えて、定期を棚から取ろうとしたら、誤って下に落してしまった。屈んで定期を拾い上げたが、その時、横にある籐の籠と棚との間に隙間が少しあることに気がついた。ある考えが私に閃いた。私は籠を動かし、棚との隙間を広げた。そして覗きこんだ。案の定、そこに財布が落ちていた。財布は何かの理由で棚と籠の間の隙間に落ちたのだ。籐の籠は赤ん坊を寝かすためのもので、親戚の家からもらってきたのだが、古着や古切れなどの入れものになっていた。これが棚の前にあるのは不便だったが、他に置くところもなかった。こんな所にあったとは灯台下暗しだ、と私は思った。財布が見つかって嬉しかったが、同時に当惑もした。警察への届け出を撤回しなければならない。私は気が重かった。叱られそうな気がした。届け出をもう少し待てばよかったと悔いた。
早い方がよかろうと、翌日、私は警察署に出向いた。財布が見つかり、運転免許証も手許にもどったことを私は遠慮がちに告げた。応対した年配の警察官は、「財布が見つかったの」と言って驚いたような顔をした。「家の中にあったの」ともう一度呆れたような表情をした。「はあ」と私は恐縮した。「お手数取らせてすみません」と頭を下げた。「見つかったのはいい事ですが」と警察官は言い、「じゃぁ、届けを取り下げるわけね」と言った。私は「はい」と頷いた。警察官は立ち上がり、一枚の紙を手にして戻ってきた。それは私が書いた紛失届だった。彼はそれを私に示して、「これ、破棄しますよ」と言った。「はい。すみません」と私はまた頭を下げた。とんだ苦労をさせる財布だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます