5-7

 耳に響く声が自分のものとは思えないほどあさましい。嬌声と思われても言い訳がきかないほどの……いっそ喉が潰れてしまえばどれだけいいか。

 自分の体がどうなっているのか制御コントロールできなくて、情けなくも涙が出そうだ。一滴でもこぼしたが最後絶対嘲笑されるだろう。かろうじて残された矜持だ、そんなことできるものか。

 喘ぎに重なるようにしてなにかが鳴り出す。マットレスに機械的なかすかな振動が伝わる。

 薄く目をあけると、にじむ視界の中で、枕元に放り出された携帯電話スマートフォンの画面が点滅していた。

「誰だよ、取り込み中いいところだってのにクソったれが」

 そこに表示されている名前は……

「――おっと」

 くくられた手を伸ばしたところをすかさず電話を取り上げられた。

 男が体を前傾させかがめたせいで奥が抉られ、また息が肺から押し出される。

「まったく、油断もスキもありゃしねえな。それともあんたの可愛いディーンにイイ声聞かせてやろうっての? まあ、ヘタレなあいつはそれ聞いてマスかくぐらいがせいぜいだろうけどな。あんたがヴァージンだったのがいい証拠だよ」

 呼び出し音はずっと鳴っている。彼はなんの用があって……なにを考えて、“群れ”のきょうだいに電話を……。

 火照っている頬がひやりとした。

「――は、なんだよあんた、泣いてんの? すぎて?」

 違……いやもうよくわからない、どうしてこんなときにこの男の声が……のそれに聞こえるんだろう……。ぜんぜん、ちがう、はずなのに……。

「へえ、面白いな。涙まで甘い」男が目尻に唇を寄せて吸い上げる。濡れた舌の感触。「ぜんぶ食ったらどうなるかな。あいつにはちょっとは残しておいてやるって言ったけど――」

 音は途切れない。もう何コール目だろう、よほど急ぎの用でもあるのか……それともなにかきょうだいに助けてもらいたいことでも……。もしかしたら彼になにか……

「なあ、電話に出てやろうか?」奇妙なほどやさしい声音。

「や……っァあ、い、嫌だ……」

 声が……聞こえたら、こちらの状況がわかるはずだ――二重の意味で。そのときにが感じるだろうことが……とるであろう行動が恐ろしい。彼に知られるぐらいなら――

「遠慮すんなよ、兄弟が困ってるんならさあ、なにかしてやらなきゃな。俺にだってそれぐらいの優しさはあるんだぜ」

 薬のせいで過敏になっている首筋を唇と舌でなぞられて、うなじから背筋に電流を流されたような感覚が走る。気持ち悪……いはずなのに……尾骶骨の周辺あたりにもどかしいような熱が溜まっていくのをおぼえる。

「こっちもだいぶ慣れてきたみたいだな」

「く、ぅ……っン」

 駄目だ、こんな状況で……。

 突然頭上で哄笑が轟いた。

 マットレスの上で鳴り続ける携帯電話をつかんだ手が、みるみるうちに、灰褐色の――こわい毛と太く鋭い爪をもつ獣の前あしに変わっていく。気のせいかディーンよりずっと変化のスピードが速い。早送りの映像を見ているようだ。

「なっ……」

 体内に捩じ込まれたそれもまた膨れあがるのを感じる。まさか、ありえない――それだけは絶対にありえない!

 おぞましさに全身の熱が一気に引いていく。

 肘を使って逃げようとして、脇腹がなにかに刺されたように痛んだ。

「あっ……ぅ、ぐ……ッ」

 思わず振り向いた視界に入ったのは、長さの三分の一ほどが皮膚を破り肉に食い込んでいる黒い爪。反射的に背を丸めてうめく。

「――!!」

 熱い息がうなじにかかる。犬や猫が仔を運ぶときに首の根元を噛むように、落とし格子の杭のように尖った牙に動きを封じられていた。

 向こうがお遊びのつもりでいるのか本気なのかわからない。下手に首を動かしたら嚙み切られそうだ。冷たい汗と狼の涎が鎖骨の窪みを流れ落ちる。おぞましい……のに皮膚がむずがゆい。ぞわぞわする。

 ざらついた舌でそこを舐め上げられ、喉の奥からひきつったような音が漏れ出た。

 一度は去ったはずの熱がまたよみがえってくる。

 反射的に腰を引いたのがきっかけトリガーになったのかもしれなかった。

 男が――灰色狼が――昂奮にまかせてめちゃくちゃに突き上げるたびにあちこちにやたらめったら噛みつき、人間のものではない舌で舐めずる。そのたびに膀胱の裏あたりが刺激されて……。

 堪えきれずに大きな喘ぎをあげていた。

 これが自分の声か、別人のではないかと思うほどのうわずった声と、遠雷のような狼の唸りが混じりあう。浮遊感でめまいがする。閉じたまぶたの裏に小さな火花がいくつも発火しては消え、またひらめく。腰が蕩けそうに熱い。早く解放してほしいとさえ願ってしまう。

 恥も外聞もなく叫んでいた。

 体のなかが溶岩のように溶け出し、ぼやけていく意識と視界の中で、悪夢に怯える子供のように、切羽詰まった声で誰かが誰かになにかを哀願しているのが聞こえた。どうかお願いだから——お願いだから、早く……。

 相手がそれに応えたのかどうかもわからない。まともにものが考えられない。これは現実のはずなのに……夢と区別がつかない。妙にリアルだ。闇の中を高く投げ上げられて――それからどこまでもちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る