5-6

 ――主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ、

 主はわれをみどりの野に伏させ、憩いのみぎわにともないたもう……

 たとえわれ死のかげの谷を歩むともわざわいをおそれじ、なんじ我とともにいませばなり。汝のしもと、汝の杖、われをなぐさむ……


 眠いせいで目がかすんでよく見えない。ただあたたかな光が窓から差し込んでいるのはわかる。

 うだるように暑い夏の午後。アスファルト舗装と煉瓦造りの通りからは人が消えて、しんとして、世界に自分ひとりだけになった気がする。気だるい心地よさと窓から吹き込んでくる熱気に、本を読む気にもなれない、そんなひとときだ。

 金色の太陽が世界のすべてを照らして、かすかな風にそよぐ木々の葉一枚一枚のふちに黄金こがね色の縁飾りパイピングをつける。影はあくまで黒く濃い。木漏れ日が影の中で踊る。

 午前中にえたばかりの糊のきいたシーツの上に昼間から寝転がって、爪先つまさきを伸ばして……少しでもひんやりするところを探す。

 この時間が永遠に続けばいいのにと思う。夏が去らなければいいのにと。すべてが止まったようなこの瞬間が。毎年季節はくりかえすのに、二度とは巡ってこない一瞬が。自分はたしかにそこにいるはずなのに、透明な存在になって、外から世界を眺めているような気になる。

 ……ノーランさん、私をこの世にとどめているのは、ほかの誰でもなにでもない、ただこの夏の午後なんですよ。なにかあったときに思い出すのは、なぜかいつもこの光景なんです。子供のころに、誰もいない家の窓から眺めていた。

 それがあるから思いとどまれた。あなたにはとても信じてもらえないかもしれないが。

 あのときディーンの懇願ねがいがなんであったにしろ、お前の望むとおりにするよと言っていたら、なにか違っていたのだろうか? なにかもっと……たしかなものを見つけられたとでもいうのだろうか?

 誰かが静かに部屋に入ってきて、ベッドの足元に腰をおろす。父だろうか、それとも母……?

「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません」

 ……ディーン?

 そちらに顔を向けるのさえおっくうだ。

 眠りに落ちていきそうな中で、ベッドがきしんで、視界に影が落ちる。

「なぜならこの谷の中で……俺が一番凶暴な悪党だからさ」

 いきなりシャツを引きむしられて左の肩口をきつく噛まれ、次いでそこを舐めあげられる。見えないがおそらく出血している。ひりひり痛むが……もう慣れた。

「あんたはどこもかしこも甘いんだな」

 耳元に苦いアルコールと血のにおいのする息がかかる。

 ……放っておいてほしい。なにも考えずに眠らせておいてもらいたい。

「おい起きろよ。反応がないとつまんねえだろ、死体を抱いてるんじゃねえんだから」

 そうしてあちこちを尖った爪でひどくつねられる。

 反応ようにしているんじゃなくて……ただもうなにもかもめんどうくさいだけなんだが。

「ああいいよ、そっちがそういう態度なら、その気になるような話をしてやろうか? 子供ガキがいるって言ったら――俺がガキのためにこんなことをしてるって言ったら、あんたは俺を赦すかい?」

 ……子供?

「……誰、の」

 ひどい声だった。蛙どころか、喉にやすりでもかけられたみたいな。ここ数日……連日、の……唾棄すべき行為のせいでまともな声が出ない。

「誰のって、わかりきったこと聞くんじゃねえよ。俺のに決まってるだろ。にも誰がてめえのタネじゃねえガキのめんどうなんかみると思ってるんだよ」

 バッカじゃねえの、と吐き捨てるように言う。

「……どうして。ディーンが知ったら……きっと喜ぶだろうに……」

「まあな。あいつが子供好きなのは知ってる。だからあいつを群れのメンバーにしたいんだよ」

「そういう……ことなら、彼は一族クランに戻ると……」

「違うよ。やっぱあんたなんにもわかっちゃいねえんだな、俺らのことも――あいつのことも」

「――ッ!」今度はうなじのあたりの皮膚の薄い箇所ところに思いきり爪を立てられた。さすがにこれはかなり痛い。

群れだよ。俺は今の群れクランαアルファじゃないから自分の子供はつくれないんだよ。アルフレッドのやつが俺が群れを抜けるのを許すとは思えないしな。――まったくあいつはなんだってさっさと自分のつれあいをみつけないんだろう! 実はホモファグでしたとかいうんなら笑っちまうぜ、俺たちお先真っ暗だよ!」

 彼はバドワイザーの瓶をあおった。

「あんたも飲めよ」目の前に茶色の瓶が突き出される。

 黙っていると、

「また口移しで飲ませてほしいのか?」

 そんなことになったら今度こそこいつの舌を噛み切ってやるんだがと思いながら、ニヤニヤ笑いはできる限り無視して、のろのろと体を起こす。

 炭酸が傷んだ喉にしみる。 

 半分ほど飲むのを、彼は面白そうに見つめていた。

「少しはマシになったか?」

「なにが……」

 それ以上は言葉にならなかった。男の手にある物が目に飛び込んできて――

「……嫌だ」思わず踵と尻であとずさる。取り落とした瓶からこぼれたビールがマットレスに嫌な染みをつくる。

「そんな顔すんなよ。コレ使ったほうがあんたもイイ思いができるだろ?」

「どうして――ただ私の血がほしいだけならなにもこんなことをしなくても……それにもうじゅうぶん……」

「ああ、そうだな」

 ベルトをはずす音がやけに大きく聞こえる。目も耳もふさぎたい。どうしてこの男はわざわざ昼間にばかりやってくるんだ。こちらの醜態を見せつけて嘲笑あざわらうのが目的なのか……夜ならまだ闇がすべての罪を覆い隠してくれるかもしれないのに……愛ではなく。

「なんでって――そうするのが楽しいからだよ、なんだってそうじゃねえ?」

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