5-5

「ん……くぅ、う――ぐ、っぅ……」

 壊れたスプリングと錆びたベッドフレームが耳ざわりな悲鳴をあげる。その騒音に、男の息遣いも、自分の鼻から漏れるどうしようもなく情けないうめきも全部かき消されてしまえばいいのにと願う。目をつぶれば見たくないものを見ないでいることはできるが、聞きたくないものは否応なしに耳に入ってくる。

「っふ、ん……んぅ……ッ!」

「――はは、やっぱり処女ヴァージンだったんだな」

 悪意を含んだ声と汗が背中と首筋に滴る。男が抽挿をくりかえしている箇所はひきつって、痺れたように感覚がない。それだけが救いだ。

 おそらく潤滑剤のぬめりとどちらのものかわからない汗で、相手の体が自分の上で滑る。その感触も……絶え間ない水音もいやだ。

「なあ、ほんとのとこどっちがどっちをヤったんだ? あんたがあいつを?」

「……」

 反応は相手を喜ばせるだけだと知りながら、彼の名誉のために首を横にふる。

「ふーん、じゃ、あいつはあんたのものを飲んだのか? それなら今ごろ――」

「んん――ッ!」

 それこそ全身で否定する。

「――って、しゃべれるわけねえよな」

 猿轡が取り去られ、腐り落ちる寸前の果実のような匂いの液体と唾液に濡れて重くなった布から、蒸気のようなものが立ちのぼったと見えたのは……目の錯覚だろうか。目の前が霞がかかったみたいにぼやける。

「そん、な、ことは、やってな……あぁッ!」

「ヤってる最中にしゃべろうとするからだろ」

 体を揺さぶられるたびに、心臓が体内を暴れまわっているような感覚にとらわれる。下肢の奥が疼いて……ひどく熱い。おかしい――こんなに薬の効果が、長く、続く、はずは……。

 だがたとえ舌を噛んだって構うものか。

「ディーンは、絶対に……っ、お前、みたいな……」

「俺みたいな、なんだよ」

 言ってみろよこのクソ坊主、と頭を小突かれる。

 ののしりの言葉と極彩色の幻覚が頭の中をぐるぐる巡る。喉まで出かかっているのに出てこない。悪夢だ。

 冷静に考えようとしても限界が……頭の片隅には理性が残っているのに、脳の四分の三と……それから腰から下が自分のものじゃないみたいだ……。

「お前みたいなろくでなしじゃ……」

 なんとか言えたのはそれくらいだった。こんなのはそれこそ蚊に刺された程度にも感じないだろう。

「俺がろくでなしならあんたはなんなんだよ」

「――う」

 急に強く動かれて咄嗟に声を噛み殺す。

「――え? はじめてだってのに男に突っ込まれてたせてるあんたはさァ」

「――嘘、だ……」

「嘘じゃねえよ。自分でわかんねえの、さっきからマットレスに擦りつけちゃってさ」

「――痛ッ!」

 牙のような歯で右耳を噛まれた。

「ツラいならやってやろうか?」

 男の声が耳の中で反響する。毒液でも流し込まれているみたいな、ねっとりした、熱い……。

「……」黙って頭をふる。絶対薬のせい、薬のせいだ、こんな……。

「ムリすんなって。俺だってホントは野郎のなんかしごきたくないけど」

 乱暴に腰をつかまれて引き上げられ――想像するだに厭な屈辱的な姿勢。さんざん毛羽立った生地との摩擦で熱をもっている頬がさらに熱くなる。

「――やめろ、なにす……ッ!」

 無様だろうと芋虫のようにでも這いずって逃れようとしたが、すぐにベッドのパイプにぶちあたり、肩口に爪を立てられて手荒く引き戻される。

「ッな、やめろ、触るな!」

 十年前の経験ショックがよみがえる。あのとき二度とそんなことはさせるものかと決めたのに!

「じたばたすんなよ、あんまり暴れるとマジでタマ握り潰すぜ、んなことになったらいくらあんたでも困るだろ?」

「――、あ……!」

 また耳を嚙み千切られるかと思うほどの痛み、それに気を取られたすきにそこをつかみしめられて――

「うぁ、っあ、ああ――ぃ、嫌だ、や……あッ」

「いい声でくじゃん」

 嘲りとともに捩じ込まれ肺から空気が押し出される。早く、早く終われ――もうそれだけが希望のぞみだ。

 右頬に血と汗と唾液が筋をつくる。

 荒っぽい男の手に前が急き立てられる。

「や……ッ嫌だ、やめろ、放……っ!」

 なんでこんな……よりによって……の、……に――

 鼠径部のあたりにどうしようもない焦燥感が湧き上がる。熱っぽい呼吸音が耳元でこだまする。

「……っ、あ、ぁあ――……!」

 強制された射精に息が詰まり、下肢が痙攣する。

「――ッは、ああ、クソ、やっぱ締まる……っ!」

 野卑な罵りとともに、呼吸ができなくなるほどめちゃくちゃに突き上げられる。

 すぐあとに男の体の震えが伝わってきた。


 ずっとマットレスに押しつけられれていた頬と肩がひりつく。頭のほうはジンジャーエールだと言われてモスコミュールを飲まされた翌日のように、拍動とともに痛む。酸欠と薬剤の副作用で頭痛を起こしているんだろう。

 痺れて感覚のない両腕に血流をとり戻そうと動かしていたら、絡んでいたシャツがほどけた。肘から指先まで無数の針で刺されているようなピリピリした刺激が走る。死んではいないし夢でもない証拠だ。

 匍匐前進するようにそろりと体を起こす。途端に下肢が(これまで経験したことのない)疼痛を訴えた――表現したくもないし声にもならない。身体を縮めてひたすらにおさまるのを待つ。

 下腹部とマットレスの惨状から目を背け、汚れたシャツを羽織る。

 隣からは口笛と水を流す音が聞こえてきた。それがふと途切れたかと思ったら、ドアが開いた。

「そんな目でコッチ見んなよ」さも面白そうに言う。「ヤリ捨てされた女みてえ」

「……」

 そんなににらむなよ、俺は女をもてあそんで放り出したことなんかないぜ、ダビデみてえな偽善者のタラシじゃねえんだからさ、と小馬鹿にした口調で言い、相手はそのまま部屋を出ていった。

 しばらく待っても戻ってきそうにないのをたしかめ、そろそろと床に足をおろす。ほんの数フィートの距離がまるで十字架のゴルゴダへの道行きみたいだ……そうとでも思わなければやっていられない。

 洗面所のドアを開けて最初に剃刀カミソリを探す――が、どこにも見当たらなかった。

(……まああの悪魔みたいに狡猾な男がうっかり忘れて帰るとは期待できないか……)

 落胆なのか安堵なのかため息が出る。

 ……クリストファー、お前は一体なにを考えているんだ、許されないことか?

(……許されないのは私のほうじゃない)

 シャワーヘッドの真下で思いきり水栓をひねる。

 頭から冷たい水をかぶって、肩口に固まった血と汗と……あの男のにおいと残滓を洗い流す。それから自分の恥の証拠も。

(――しかしわたしはあなたがたに言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ……天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである……)

 苦い笑いとともに急になにかが喉元にこみあげる。シャワーブースのすみに膝をついて吐いたのは呪詛でも祈りの言葉でもなく――ろくに食べていないせいで――黄色い胃液だけだった。

 こんなことは大したことじゃない。

 口をすすぎ、配管を手すり代わりに立ち上がりながら、呪文のように自分に言い聞かせる。膝が生まれたばかりの子鹿並みに役に立たない。

 もっとひどい体験をした人だっていくらもいるのだし、少なくとも私には妊娠のおそれだけはないわけだし……感染症の危険はあるかもしれないが。まだ体が熱をもっているように感じるのは……風邪などでないといいのだけれど。

 シャツについた血の染みはこすっても落ちず、しかたがないので、乾くまでの辛抱だと、床に蹴落とされていた毛布を拾ってくるまる。

 もし途中であの男の気が変わって戻ってきたとしても、少しは手こずらせることができるように、壁を背にして毛布を体にしっかり巻きつけ、目を閉じた。

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