5-8
「さて」
ウェーブがかかった蜂蜜色の長髪を
「今の気分はどうですか?」
「悪くはないです」私は答えた。
彼は胸の前で両手の指先を合わせてにっこりした。
慈愛に満ちた、実に柔和な微笑み。讃えられているとおりたしかに美しいのだけれど、神々しいまでに近づきがたいというより、やさしくて人好きのする感じを漂わせている。ひと目見ただけでひとを安心させる笑顔だ。こちらまでつられてにっこりしたくなるくらいの。
「悪くはない、ですか。まるでイギリス人のような表現ですね。君の肉体はあんな状態だというのに」
彼が下を指さすと、いつぞやの夢のように、病院のベッドに横たわっている自分の姿が見えた。心電図モニターやら各種点滴や採尿バッグにつながれている様子が。
「逆です。肉体から解放されたせいかもしれません。あるいはあなたのおかげかも――ラファエル様。それともこれはただの夢なのでしょうか?」
大天使はそれには答えずに、
「まだ完全に解放されてはいませんよ。肉体の意識が回復しないのは、君自身がそう望んでいるからです。肉体は生きようとしていますが、精神はそうではない」
……やはり天使だ、見透かされている。
「それではあなたは私に、もう一度肉体に戻るようにと、もしくは
「わたしは
「ただ今回はちょっと、“上のほう”でいろいろありまして――君の意志を確認しておくのが
私がお礼を言うと、大天使は唇の前に人差し指を立て、
「中身を見ずにお礼を言うのは早いですよ。贈り物を持ってきた天の使いには警戒すべきだ」
「アサリアに
「いわゆる死後の世界のことを、生きている人間に語るのは許されていないんです。ですから、わたしがここで君に話したことは、君が俗世に残ることを選んだときには、すべて記憶から抹消される」
「〈
「
「それで本題に戻りますが、このまま生命活動を停止することを選択した場合ですけれど、君は天国にも地獄にも行きません。もちろん煉獄にも」
私は(物理的におかしな表現だと思うが)息が詰まった(ように感じた)。実のところ煉獄にはひそかな憧れを抱いていたのだけれども。だとするとこれはやはりなにかの罰なのだろうか?
「それは――……私が善きキリスト者ではなかったからでしょうか。もちろん、誉められるふるまいをしてきたとはとても申し上げられませんから当然ですが、しかし……それでは私はミスター・ノーランのように――その、彼がなんなのかはもちろんご存知でしょうから……最後の審判の日までこの地上を
大天使はかぶりをふった。
「そうじゃありません。ええと、主がこの世界を創造されたのは事実ですが、なににおいて創造したのかという定義づけは聖書には書かれていませんよね。そして主の
「多重的に存在する?」
「まあ、そういってもいいかもしれません」
ちょっと歯切れが悪かった。
「厳密にはちょっと違うのですが――現場レベルの話でいうと、我々の管轄からはずれる存在がたまにいます。たとえば悟りをひらいた仏教徒とか、アザラシとか」
「ええ、ですが私は仏教徒ではありませんし……」
――アザラシ?
「とにかく、君もそういった存在のひとり、というかひとつ、なんです。今はキリスト教徒ですから、便宜上、我々の姿が見えたり声が聞こえたりしていますが」
「……では私はこれからどうなるのですか?」
癒しの天使は苦しそうに、秀麗な眉をひそめてICUの天井を仰いだ――主よ、わたしに偽りを言えというのはハードルが高すぎます。ラクダを針の穴に通すほうがやさしい。
「正直にいうとわかりません。管轄からはずれるというのはそういうことなんです。ただひとつ言えるのは……君は生まれ変わるということです」
「生まれ変わる? なににですか?」
仏教徒ではないと言ったばかりなのに? それとも実はヒンドゥー教徒だったとでも? 理不尽な目に遭うのは前世のカルマの報いだと?
「そこも謎なんですよ。人間なのかそれ以外なのか、今の記憶を残したままなのか、そうでないのかも、次に生まれてくるのがいつになるのかも、我々にはわかりません。なにしろ管轄外ですから」
天使にはその概念がありませんからね、闇の洗礼を受けるのを生まれ変わりとするならべつですが、と大天使は苦笑した。
「……だとすると、私には、たしかめる機会が永遠にないわけですね、私が失った人たち……これから失うことになる人たちとふたたび一緒になれるのか、あるいはなれないのかさえ」
「残念ですがそうなりますね」
大天使は深い哀しみをたたえたまなざしと声でそう言って、つと視線を動かして、ICUのガラス戸の外でうなだれているディーンを見やった。
「彼もまた我々の管轄からははずれていますが――わたしは彼をかわいそうだと思うのを自分に禁じてはいませんよ。なにが罪かを定めるのは人です。主の御ひとり子は、『たとえ私の言うことを聞いてそれを守らない人があっても、私はその人を裁かない』と仰っている。まして人の子は死すべき肉体にとらわれているのだから……」
「どちらに転んでも不確定要素ばかりですね」私は言った。「このまま死ねば、次はよくわからない世界に行くみたいですし、目覚めることを選べば――たぶん困った事態に陥る」
「ええ」
「主よ――私に耐えられるでしょうか?」
「知らない悪魔より知っている悪魔のほうがマシ、ということもありますよ」意外なほどあっけらかんとした口調だった。「とはいえ、わたしの知り合いの悪魔にろくなのはいませんけれども」
この人は――いや、この
私はディーンのほうを見た。お祈りするということをしなかった彼が両手を組んで――祈っているのだろうか? だとしたら、なにに?
もし私がこのまま……その
「私は……」
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