5-8

「さて」

 ウェーブがかかった蜂蜜色の長髪をうなじで結び、スクエアタイプの細いフレームの眼鏡をかけた、白衣の青年が尋ねた。一見したところでは脳外科か精神科医に多いタイプだ。

「今の気分はどうですか?」

「悪くはないです」私は答えた。

 彼は胸の前で両手の指先を合わせてにっこりした。

 慈愛に満ちた、実に柔和な微笑み。讃えられているとおりたしかに美しいのだけれど、神々しいまでに近づきがたいというより、やさしくて人好きのする感じを漂わせている。ひと目見ただけでひとを安心させる笑顔だ。こちらまでつられてにっこりしたくなるくらいの。

「悪くはない、ですか。まるでイギリス人のような表現ですね。君の肉体はあんな状態だというのに」

 彼が下を指さすと、いつぞやの夢のように、病院のベッドに横たわっている自分の姿が見えた。心電図モニターやら各種点滴や採尿バッグにつながれている様子が。

「逆です。肉体から解放されたせいかもしれません。あるいはあなたのおかげかも――ラファエル様。それともこれはただの夢なのでしょうか?」

 大天使はそれには答えずに、

「まだ完全に解放されてはいませんよ。肉体の意識が回復しないのは、君自身がそう望んでいるからです。肉体は生きようとしていますが、精神はそうではない」

 ……やはり天使だ、見透かされている。

「それではあなたは私に、もう一度肉体に戻るようにと、もしくは御前みまえで審判を受けるようにという命令をたずさえてこられたのですか?」

「わたしは死の天使アズラエルとして来たわけではありません」おだやかな口調は崩れなかった。

「ただ今回はちょっと、“上のほう”でいろいろありまして――君の意志を確認しておくのが公平フェアだろう、という話になったものですから。君がこのまま現世にとどまるにせよ、そうしないにせよ」

 私がお礼を言うと、大天使は唇の前に人差し指を立て、

「中身を見ずにお礼を言うのは早いですよ。贈り物を持ってきた天の使いには警戒すべきだ」

「アサリアに言伝ことづてを頼んだときにあの子が言ったと思いますが――」大天使は部下を指すのに、“he”でも“彼女she”でもなく、三人称複数主格人称代名詞を使った。ということは、あの姿は彼/彼女の任意のイメージで、やはり天使に性別はないのだろう。

「いわゆる死後の世界のことを、生きている人間に語るのは許されていないんです。ですから、わたしがここで君に話したことは、君が俗世に残ることを選んだときには、すべて記憶から抹消される」

「〈M:Iミッション•インポッシブル〉シリーズみたいですね」

伝道ミッション不可能インポッシブルなことなどありませんよ」大天使は茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。

「それで本題に戻りますが、このまま生命活動を停止することを選択した場合ですけれど、君は天国にも地獄にも行きません。もちろん煉獄にも」

 私は(物理的におかしな表現だと思うが)息が詰まった(ように感じた)。実のところ煉獄にはひそかな憧れを抱いていたのだけれども。だとするとこれはやはりなにかの罰なのだろうか?

「それは――……私が善きキリスト者ではなかったからでしょうか。もちろん、誉められるふるまいをしてきたとはとても申し上げられませんから当然ですが、しかし……それでは私はミスター・ノーランのように――その、彼がなんなのかはもちろんご存知でしょうから……最後の審判の日までこの地上を彷徨さまようよう定められるということですか……?」

 大天使はかぶりをふった。

「そうじゃありません。ええと、主がこの世界を創造されたのは事実ですが、創造したのかという定義づけは聖書には書かれていませんよね。そして主のおんひとり子は、たとえ話がたいそうお好きですよね、もし……だったら、という。あれは話をわかりやすくするためでもありますけど、ちょっと視点を変えてみたら、という問いかけでもあるんです。なにが言いたいかというとですね、つまり、世界は我々が思っている以上に……」

「多重的に存在する?」

「まあ、そういってもいいかもしれません」

 ちょっと歯切れが悪かった。

「厳密にはちょっと違うのですが――現場レベルの話でいうと、我々の管轄からはずれる存在がたまにいます。たとえば悟りをひらいた仏教徒とか、アザラシとか」

「ええ、ですが私は仏教徒ではありませんし……」

 ――アザラシ?

「とにかく、君もそういった存在のひとり、というかひとつ、なんです。今はキリスト教徒ですから、便宜上、我々の姿が見えたり声が聞こえたりしていますが」

「……では私はこれからどうなるのですか?」

 癒しの天使は苦しそうに、秀麗な眉をひそめてICUの天井を仰いだ――主よ、わたしに偽りを言えというのはハードルが高すぎます。ラクダを針の穴に通すほうがやさしい。

「正直にいうとわかりません。管轄からはずれるというのはそういうことなんです。ただひとつ言えるのは……君は生まれ変わるということです」

「生まれ変わる? なににですか?」

 仏教徒ではないと言ったばかりなのに? それとも実はヒンドゥー教徒だったとでも? 理不尽な目に遭うのは前世のカルマの報いだと?

「そこも謎なんですよ。人間なのかそれ以外なのか、今の記憶を残したままなのか、そうでないのかも、次に生まれてくるのがいつになるのかも、我々にはわかりません。なにしろ管轄外ですから」

 天使にはその概念がありませんからね、闇の洗礼を受けるのを生まれ変わりとするならべつですが、と大天使は苦笑した。

「……だとすると、私には、たしかめる機会が永遠にないわけですね、私が失った人たち……これから失うことになる人たちとふたたび一緒になれるのか、あるいはなれないのかさえ」

「残念ですがそうなりますね」

 大天使は深い哀しみをたたえたまなざしと声でそう言って、つと視線を動かして、ICUのガラス戸の外でうなだれているディーンを見やった。

「彼もまた我々の管轄からははずれていますが――わたしは彼をかわいそうだと思うのを自分に禁じてはいませんよ。なにが罪かを定めるのは人です。主の御ひとり子は、『たとえ私の言うことを聞いてそれを守らない人があっても、私はその人を裁かない』と仰っている。まして人の子は死すべき肉体にとらわれているのだから……」

「どちらに転んでも不確定要素ばかりですね」私は言った。「このまま死ねば、次はよくわからない世界に行くみたいですし、目覚めることを選べば――たぶん困った事態に陥る」

「ええ」

「主よ――私に耐えられるでしょうか?」

「知らない悪魔より知っている悪魔のほうがマシ、ということもありますよ」意外なほどあっけらかんとした口調だった。「とはいえ、わたしの知り合いの悪魔にろくなのはいませんけれども」

 この人は――いや、この御使みつかいは、というべきだけれど――まったくなんという御方だろう!

 私はディーンのほうを見た。お祈りするということをしなかった彼が両手を組んで――祈っているのだろうか? だとしたら、なにに? 

 もし私がこのまま……その機会チャンスが与えられているかもしれないのに、なにも言わずに、目を覚まさないという選択をしたとしたら……彼はどうするだろう?

「私は……」

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