5-2

 私を押さえつけるのは、彼にとってはほんのお遊び程度だったらしい。それ以上殴られることはなく、彼はそのあと(少なくとも)二十四時間と少し――というのは時計も取り上げられていたから、時間感覚は窓から漏れてくる光で推測するしかない――のあいだ戻ってくることはなかった。

 緊張のせいで飢餓感は覚えずにいたが、生理的現象はいかんともしがたく……隣に洗面所があるようなのだが、鎖がそこまで届かないのだ。たちの悪い犬には短い鎖、というわけか。

 ……私が男だったからよかったが、女性だったらそれだけで耐えられないだろう。

 次の日?の昼ごろに姿をみせた彼は水の入ったペットボトルと、ブロック状の栄養補助食品の箱を無造作にベッドの上へ放ると、留守のあいだに私のしでかしたことを見てにやにやした。ほかにどうしろというんだと思いながらも、顔が赤くなるのを止められない。

「ちょっとはおとなしくする気になったかい、神父さん?」

「……そちらが手荒なことをしないのなら」

「俺は紳士的にふるまっただろ。先に殴ろうとしたのはあんたじゃないか」

 あれのどこが紳士だというんだ。

 だが、まあ俺だってべつに小便臭いのが好みなわけじゃねえし、と言いながら、彼は馬をつなぎかえるように、足枷の鎖を長いものにとりかえ、手錠もはずされた。

「そんなにびくつくなよ」ベッド上で最大限の距離をとっているのを面白そうに、「なにもしねえよ――今日のところはな。俺だってこれでも忙しいんだよ。あんたとばっかり遊んでるヒマはないんだ」

「だったら私を帰してくれ。こんなことをして……一体なにが目的なんだ。まさか身代金目当てじゃないだろう。仮にそうだったとしても、警察に言うようなことはしない。君はディーンの家族きょうだいなんだから――」

 彼は皮肉めいて唇をゆがめた。

「帰ってどうすんだよ。あいつはあんたのことなんかこれっぽっちも気にしちゃいないぜ。せっかく俺がヒントを出してやったのに、あんたがどこに行ったか知らないか聞いてもこねえんだからな。あいつにとっちゃあんたはその程度の存在だったってことさ」

 じゃあな、また来るぜ、そのへんで粗相すんじゃねえよ、ちゃんとしたなんだからな、と言って彼は出ていった。


 しばらくして隣を覗きに行くと、思ったとおりシャワールームだった。一応水も出る。

 ゴミ箱の中身を、プラスチックの便座が割れている便器にあけて、ほかになにか使えそうなものがないか見回す。

 ペーパーのひと巻きと、ちびた石鹸以外、洗面台の上の棚も空っぽで、カミソリの一本も見当たらなかった。前の所有者が置いていったものか、そうでなければ彼があらかじめ取り去ったのだろう。

 ベッドのある部屋に倒れているロッカーも開けてみたが、こちらにもなにも入っていなかった。

 まあ当然だろうが……せめてスータンがあればロザリオが手に入ったかもしれないのに。

 携帯電話を使った記憶おぼえはないから、また司祭館に忘れてきたんだろう。こんなことになるまで気づかないなんて……。自分の間抜けさ加減に後悔を通りこして乾いた笑いが漏れる。

 窓を開けようとしてみたが、なにか細工がされているのか指数本分しか開かないうえ、鉄格子が嵌められているので満足に手を出すことさえできない。かろうじて見えた感じでは、ここはおそらく二階以上の位置にあるようだ。周囲の音もほとんど聞こえてこないところからすると、現役の工業地区ではないのかもしれない。だから彼が姿をみせないと、外の様子をうかがい知ることができない。

 ……すでにストックホルム症候群シンドロームに陥っているのでなければいいのだが。

 曜日感覚がおぼつかないが、今日は水曜か木曜日のはずだ。私が出勤しなければ、事態を知ったサリヴァン校長が必ず警察に捜索願を出すだろうが……警察犬並みの嗅覚をもっている人狼が、においであとをつけられるようなへまをするだろうか?

 週末にミスター・ノーランが告解に来るならディーンに連絡を入れているころだけれど……。私がいないのに彼が一族の禁忌タブーに応対するとは思えないし、仮に私の不在を知ったところで、ヴァンパイアであるあの人がなにをどうすると期待できるのだろう……?

 あとはディーンが……。

 最後に目にした彼の表情を思い出して胸が痛む。

 彼にあんな顔をさせてしまったのは私の罪だ。昔からいつも……できないことをやろうとして失敗する。それはわかっていたはずなのに。馬鹿な男だ。彼が私を見捨てたとしても当然だ。私にはそれだけの価値はない。

 私がどこへ行ったか聞いてもこないと言っていたっけ……あながちすべてが嘘だとも思えない。一族クランのメンバーを連れ出したを払わせるのが今になった、というだけなのかもしれない。もしかしたら本当に、彼はもう……。だがそれが彼にとってなのだとしたら、私にはなにも言えない。

 ――しかしわたしはあなたがたに言う、悪人に手向かうな……もし誰かがあなたを強いて一マイル行かせようとするなら、その人とともに二マイル行きなさい、求める者には与え、借りようとする者を断るな……。

 あのとき、今度こそ教会の教えを捨てて、彼とともに行くと言えばよかったのだろうか? そうしたらなにかが変わっていたとでもいうのだろうか? 

 たとえそうしたとして、いつまで私が彼の支えになれるのだろう。もし彼以外の人間に同じことを望まれたら? そのたびに私は自分を与えねばらないのですか、それがどんな方法であったとしても? 

 それがあなたの望まれたことなのですか、あなたのようにすべてを与えよと? もし私にそれができるのならば……。

 ああ、……よ、私があなたに救われたようには、私はほかの人のたすけにはなれないのでしょうか……。

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