Cerberus

5-1

 ドアの開くかすかな音がして目が覚めた。

 夢の中でまで仕事をしていて、途中から、カウンセリングの最中にクライエントの名前をまちがって呼び、どうしても正しい名前が思い出せない――おまけに、なんとかヒントをさぐろうと、あるはずのファイルを探すがなぜかみつからないうえに中身が取り違えられていて自分の整理整頓能力に冷や汗をかくという悪夢におちいっていたので、夢だとわかってほっとした。まだベッドの上だったし、薄暗かったから……朝の五時か六時だろう。

 それにしてもどうして目覚ましが鳴らなかったんだ、電池切れか? それとも昨夜きのうあんなことがあってなかなか寝つけなかったから、無意識に止めて寝過ごしたのか……。

 部屋に誰かが入ってきた。

「……ディーン? 今起きるから――」

生憎あいにくと俺はあんたのディーンじゃない」

 ディーンによく似た――だが若干低めの、嘲るような調子トーンを含んだ――声がした。

 体を起こそうとしてうしろに引っ張られ、両手を頭上でいましめられているのに気づく。

 自分の格好を見下ろして思わず顔が熱くなるのをおぼえた。夢じゃない、からパジャマではないのはともかくとして、スータンが脱がされて、その下のシャツ一枚で……スラックスはどうしたんだ?!

 かろうじて下着はそのままだが、足は裸足だし靴も見当たらない。そのうえ……。

 急いでまわりを見回すと、そこはどこかの廃屋――廃工場の一室のようだった。殺風景な灰色のコンクリートの壁とリノリウムの床は一部が剥がれ、窓のブラインドも傾いて外れかけている。スプリングの壊れたマットレスとパイプベッド、残されたスチール製ロッカーからすると、守衛の仮眠室かなにかだったのだろうか。

「目が覚めたかい、神父さん?」

 そうしていると『聖セバスティアヌスセバスチャンの殉教』みたいだな、美術の教科書で見た、と言いながら――

「……君は?」声が喉にからみつく。

「誰だか当ててみな」

 どこかで見たような覚えのある青年が立っていた。黒褐色の長めの前髪が眉のあたりにかげをつくっているが、口許には微笑みがうかんでいる。

 次第に頭がはっきりしてきて、それとともに、手首以外にも体のあちこちが痛み出した。

 どうしてこんなことになったのか……外で声をかけられて、どこかで見知った顔だなと思ったところまでは覚えているが……そのあとの記憶が霧に包まれているようではっきりしない。

「もしかして……ディーンのきょうだいのひとり?」

「ご明察」

 彼はにっこりした。笑うと、弟に似た人なつこい面影がさらに濃くなる。

以前まえに会ったことはないはずだけど」

「あんたが会ったのは二番目だよ。俺は四番目」

 四番目の……。ディーンが前に話していたことを思い出そうと、痛む頭を探る。

「……ディーンに、高校学校に行くように勧めたっていう?」

「そんなふうに覚えていてくれたとは光栄だね」

 彼はベッドの足元に腰をおろした。錆びついたフレームが耳ざわりな音を立てる。

「……どうして今になって私を?」

 すぐに殺されなかったということは、私の身の安全とひきかえにディーンにクランに戻るよう強いるつもりではないかと思って尋ねる。

「こんなことをしなくても、彼はあなたがたのもとに――」

「あんた、ずいぶんとあいつを可愛がってたみたいだな」彼がだしぬけに言った。「寝言で名前を呼んでたぜ」

「……」

 ……まさか。そんな覚えはないのだが。

「冗談だよ。――飲むかい?」

 手に持ったバドワイザーの瓶を差し上げる。

 私は首を横にふった。一見すると、粗暴なふるまいに及ぶわりには気さくな印象を与える青年なのだが……その、髪と同じ色の瞳には剣呑な光が見え隠れしているように思えてならない。

「飲んでおいたほうがいいぜ。あんたがここに連れてこられてから四時間は経過ってるから。ま、脱水症状で死にたいんなら止めないけど」

 アルコールは脱水を促進するのだが、ここは下手に刺激すべきではないのかもしれない。

「……これをはずしてくれないと飲めない」

 手錠と、その上からベッドのパイプにつながれたベルトを動かす。

「ああ、あとではずしてやるよ。瓶なんだからこのままでも飲めるだろ」

 お手本だとでもいうように、自分でもひと口飲んでみせる。

 そのまま差し出された茶色のガラス瓶に口をつけようとした瞬間、顎を強くつかまれた。首が痛くなるほど顔を上向かされるのと同時に口を塞がれた。

 相手の口腔から半分冷たく半分生ぬるい酒が流れ込んできて――せた。足首に巻かれた鎖が騒がしく鳴る。

 相手はげらげら笑っている。

「あーあ、もったいない」

 炭酸の液体が気管に入ったせいで涙が出た。咳込んでいるさなかに頭上で音がして、ベルトがはずされたのがわかった。

 ふたたびぐいと顎をつかまれる。筋の目立つ細めの指なのに、まるで万力のような手だ。

「“これが千艘の船団を出帆させ、天をトロイアイリアムの塔を全焼させた顔か? ”」

 ……なんだって?!

 おぞましさに全身が総毛立って胸がむかついた。

 薄闇の中に、こちらを見据える琥珀色の眸が煌々と輝いている。

「――触るな!」

 手錠ごと相手の手をふり払う。少しでも遠ざかろうとヘッドボードににじり寄る。足の鎖さえなければ、できることならベッドから飛び降りて逃げたい。

「……お前は悪魔のようなやつだ」

「よくご存知で。俺の配役キャステングはメフィストフェレスさ――高校時代演劇部だったんだよ。シルヴェストルの野郎から聞いてない? なかなかいいセンいってたと思うな。けど、今回哀れなファウストはあいつのほうさ。恋焦がれてるグレートヒェンを失うんだからな」

 ――主よ、あとで懺悔しますから――

 冷たい汗が脇腹を伝うのを感じる。

「お、神父のクセにろうっていうのかい?」

 狼のような目が細められ、相手が喉の奥で笑っているのがわかる。

 たとえかなわないとしても、だ。俺だって男なんだから、尻尾を巻いて逃げ出すのはカッコ悪い、よな――ディーン?

「俺はべつに構わないけど――」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに鞭のような一撃が飛んできて(なにが起こったのか一瞬すぎてわからなかった)、うつぶせにマットレスの上に叩きつけられていた。殴られた左のこめかみと耳がズキズキする。

「――放せ!」

 両腿の上に居座られ、動かせるのは膝から下だけ、それでもなんとかはねのけようともがくが、岩でも載っているみたいだ!

「あいつに俺のこと少しは聞いてんだろ?」

 片手で首根っこを押さえつけながら楽しげに言う。

「俺は女にはやさしいけど、男には抵抗されたほうが燃えるんだよ」

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