8-3

 ラッセル氏が入っていったのはリビング横の小部屋だった。かつてはちょっとした手仕事のためや、書斎代わりとして使われていたのだろうか、パソコンデスクとキャビネットのわきに、ふたりがけのソファセットとスチール製のテーブルが置かれていた。

「突っ立っていないで座れ」

 と彼が言ったので、ディーンは私をうながして、教師に叱られたときにすら見せたことのない硬い表情と動きで、長兄の向かいに腰かけた。

「えっと……じかに顔合わせたことはないはずだよね……兄貴、こっちが俺がその……今厄介になってる――」

「神父だろう、ほかに誰がいるんだ」

 取りつく島もない相手の喉に飛びかかるような声だった。

「ミスター・ラッセル、あなたとはいつかきちんとお話をしなければと思っていました」

 余計なことをと思われるかもしれないが、ディーンの表情があまりにも痛々しくて口を挟む。「その……このような形になってしまったのはたいへん心苦しいのですが……」

「お前たちとのやりとりは俺ではなく四番目のきょうだいがやっていたことだ」

「ですがあなたの名前で書類に署名サインが……」

「あいつのことだから署名偽造くらいはお手のものだろう」

 勝手に名前を使われたかもしれないというのに、怒るそぶりも見せない。

「兄貴それじゃ……兄貴はなんにも知……だってキースは……俺がいなくなったから、し……心配して、兄貴がギルの兄貴にキレたって……」

「あいつは瞬間湯沸かし器で時々見境がなくなる。だから頭を冷やしてやる必要があった。それだけのことだ」ラッセル氏は変わらない冷たさで言い、

「だがギルバートがキースの不在に苛立っているのは本当だ。お前から連絡があったきりだからな。――お前とあいつのあいだになにがあった。なにもなくてあいつが勝手に仕事を放り出すわけがない」

 ディーンの喉が変な音を発した。彼は膝の上で両手を握りしめ、その指先はジーンズの生地にぎゅっと食い込んでいた。

「……わかった、全部話すよ。そのために戻ったんだし……。でもその前に、あいつがなにしたのか言わせてくれよ。そのあとなら俺をどうしようと構わないからさ」

 青ざめた横顔に声をかけようとして思いとどまる。ここは彼の家だ。私は闖入者にすぎない。自分の身に起こった醜聞を露見ばらされようと甘んじて受けるべきだ。

「キースはなにもしてないクリスを引っさらって、一か月も監禁して、おまけに無抵抗なクリスを意識不明になるまで痛めつけて放り出したんだ。肺に穴があいて、ヘタすりゃ肺炎で死んでたかもしれなかったのに。俺がどんなにか心配して……飯も食えなくなるくらいだったのをあいつはぜんぶ知ってたはずなんだ。それなのに……それなのにそのことをずっと俺に黙ってた」

「それが一体なんだというんだ」人狼のおもては恐ろしいくらい平静だった。

「……クリスは俺の恩人なんだ」ディーンは血でも吐くみたいに苦しそうに、それでもはっきりと言った。「俺がヘマをしてサツにとっつかまったときに身元保証人になってくれて、そのあと初対面の俺にメシを食わせてくれた。それから……それから俺がギルの兄貴になぶり殺しにされそうになるのを助けてくれたし、ちゃんと学校にも行かせてくれた。……そりゃ兄貴にはどうでもいいことかもしれないけど……でも恩は恩だよ。俺が口答えしても一度も俺をたなかったし、馬鹿にもしなかった。俺が嫌だっていうことを無理にやらせたこともない。クリスは俺をちゃんとした群れのメンバーみたいに扱ってくれたんだ。だから……だから俺はクリスを傷つけたキースがどうしても許せなかったんだ」

 ディーンは深呼吸した。

「キースはもう……永遠に帰ってこないよ。あいつ自身の罪の報いだ」

 兄弟はなにも言わずに見つめ合っていた。獣の雄が縄張り争いをする際に、どちらが優勢か、距離を保ちつつ相手の力量をはかろうとするときのように。そうするとき、たいていは、経験の少ない若い雄のほうが、威勢よくみせていても、どこか遠慮がちになるのも変わらなかったが。

 先に口をひらいたのは兄のほうだった。

「だからといってお前はたかが人間ひとりのために、群れのメンバーを殺したのか?」

「――ッ」

 ディーンは喉奥でしゃっくりのような声を漏らし、私のほうをちらっと見て、自分の膝の上に視線を落とした。

「……正直、クリスひとりのことだったら……俺だって……そんなことしたくなかったよ。けどキースは親父を殺してたんだ。少なくともやつは自分でそう言ったよ。それで、それでしかも親父の」

「証拠はあるのか?」

 はた目にもわかるくらい、ソファの上でディーンの体がふるえた。

「……あ、あるよ、でも……」

「あるなら出してみろ」

 スマートフォンを取り出す彼の手つきは、導火線に火のついた爆弾でも扱っているみたいだった。目をつむって再生ボタンを押す。

 スピーカーから流れてきたのは雑音……いや葉擦れと風音だった。

『……で、……って話……らしいけど……したのか? ……てねえよな、……たら……』

 遠いところで声がする。これはあの男の……声だ。

『……んでそんな……すんだよ!』

 今度は近くからディーンの声。

『……から親父の』

 そのあとわりとはっきりと、

『……親父は……が殺したんだよ』

『なんで変身を解くんだ馬鹿!』

 ノーラン氏の声が明瞭に耳に飛び込んできた。ディーンは両手で頭を抱えている。

 数分間のざらついたやりとりのあと、音声は途絶えた。

 ラッセル氏はひと言も聞き逃すまいとするかのようにまぶたを閉じ、腕組みをしてソファに身を沈めていた。

「こいつは誰だ」

「……きゅ、吸血鬼だよ。ニックっていう」ディーンが消え入りそうな声で答えた。「クリスにつきまとってる、変なやつなんだ……。たまに教会にザンゲしに来てる」

「お前はヴァンパイアと結託してきょうだいを殺したのか?」

 不死者以上に無表情な面持ちと声音からは、問いかけてくる相手がなにを考えているのか読み取れない。

 ディーンは色を失った唇を噛んだ。

「……兄貴の言いたいことはわかってる。俺は半人前どころかな狼でもないし、吸血鬼の手を借りるなんて一族の恥さらしだ……。でも……認めるよ、俺ひとりじゃ絶対親父とクリスのかたきは討てなかった。兄貴の名誉を守るのも。キースも兄貴きょうだいには違いないけど……あいつは俺の大事にしてる人たちを傷つけたんだ。それで……だからそれで、だけどそのことで……」ディーンが唾を呑み込むのが聞こえた気がした。「それでもアルフレッドの兄貴が、俺のやったことは許せないっていうんなら、ひと思いに俺をればいいよ」

「――ディーン!」

 こちらを向いた彼の瞳は、あのときのように奇妙に澄んでいた。

「……ごめん、クリス」彼は今にも泣きそうな顔で微笑わらった。「あんた、あんとき俺のこと……だって認めなかったし……。だからっていうんじゃないけど……やっぱ、俺の群れはなんだよ」

「ミスター・ラッセル、まさかそんな、あなたの弟を、だって彼はまだ」

「だから、こいつにはついてこなくていいって言ったんだ」

 ちょっと苛立ったように私に牙をみせて、兄に向きなおる。

「ギルの兄貴がクリスにキレてんのは知ってる――だけど俺が代わりに殴られるからさ……頼むからこいつにはなにもしないで帰してやってよ。もうじゅうぶんひどいめにあってるんだ。お願いだから……」

 自分にはなにも言う資格がないのはわかっていた。私があのとき彼に声をかけなければ……彼をクランから連れ出したりしなければ……なにも与えなければなにも奪われることもなかった。それでもあの憎悪重荷は背負っていくには重すぎ――隠そうとしてもいずれ内側から喰い尽くされただろう。私はふたりの神――いや悪魔か――に祈って、あるいは魂を売ったのかもしれない。けれども目の前にいるこの子はまるで……。

 ――主よ、私に――なにが――できるでしょうか? 

 いちばん小さい……あなたのために。

ラッセルさんミスター・ラッセル」私は言った。「彼――ディーンがここに戻った一番の理由は、私の復讐で弟さんの命を奪ったことを告白するためでも、お父さんの消息を知らせるためでもありません。ただ、弟さんの子供のことが心配だったからです」

「子供?」

 ラッセル氏はいぶかしげな眼をこちらに向けた。

「そうです。もとはといえば弟さんが私を拉致したのは、私の血の力を得てあなたのもとから抜け出すため――あたらしい“群れ”をつくるためだと」

「――なんでそれ言うんだよ!」ディーンが再び頭を抱える。

「お前の血?」

「あ――兄貴、今はちょっとそれ横においといて!」長兄と私のあいだに割り込むようにして、

「やめてくれよマジで心臓が止まるかと思った……あとで言おうと思ってたんだよ……。キースに子供がいるっていうのはクリスから聞いたんだ。子供がいるってことは、当たり前だけど、その母親おふくろもいるってことだろ。キースはその……子供ガキの母親を親父と取り合ったって……」

「……」

 ラッセル氏はいかにも人間くさいしぐさで眉間を揉んだ。

「その子供と……母親がどこにいるか、やつはお前に話したか?」

「……ううん。クリスもそこまでは知らないって」

 再び沈黙。

 この家の支配者が彫像のように動かないので、私たちふたりは居心地悪いまま座り続けていた。

 もう口頭弁論は済ませてしまったので、あとは裁定を待つだけだ。

 しかし、発せられたのは予想外の質問だった。

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