8-2

 当日の朝のディーンの様子といったら、見ているこちらが心配になるほどだった。朝食はほとんど手をつけようとしなかったし、部屋の中を落ち着かなげにうろうろしながら、ほぼ五分おきにため息をついている。もし変身していたとしたら、耳は完全に伏せられていただろう。

「もし俺が逃げろって言ったら、頼むから、四の五の言わずに逃げてくれよな。あとでいくらでもケーサツとか呼んでくれて構わねえから。そんときにはSWATにでも銀の弾の入ったライフルを持ってきてもらうよう頼んでもらいたいけど。ちゃんとケータイ持ったよな? それからスータンは絶対着てくんな」

 行きのバスの中でも、彼はずっと口をつぐんだままでいた。

 土曜日の昼下がりだというのに空には灰色の雲が低く垂れこめ、吹きつける風がさらに体感温度を低下させ、コートなしではいられないほどになっていたが、ディーンがふるえているのは寒さのためではなかっただろう。

 ラッセル家は以前訪れたときと変わったようには見えなかった。あまり手入れのされていない庭、ガレージのシャッターはぴったりと閉じているが、大きなカーポートには種類の異なる数台の車――彼らのを知ってしまった今となっては、あらゆるものがなにかの暗喩に見えてくる。

 敷地に足を踏み入れる前に、ディーンは青ざめた顔で深呼吸した。

「ディーン」

 彼はこちらに顔だけ向けた。

「手を出して」

「――手ェ出せだ?」

 怪訝な顔で差し出された右手を取り、小声ですばやく――彼が嫌がるので――祈りを唱える。

「大丈夫だよ、主は獅子ライオンの穴からもダニエルをお守りくださった」

「……そりゃそうかもしれねえけど」

 なんで今ダニーのことなんか思い出させんだよ、あの家マジで縁起悪ィじゃねえか、とつぶやきながら、彼はポーチの階段を死刑囚のような足取りで上り、自分の家であるにもかかわらず、インターコムを押した。

 足音もせずに突然ドアが開いたので、私は驚いて半歩あとずさった。

 玄関に立っていたのは――幸いなことに?――初対面の青年だった。戸口をほとんどふさぐように立っているので、そのおおきな体躯ともあいまって、非常な威圧感を感じる。

「ロジャー……その、久しぶり……。アルの兄貴に話したいことがあって……。兄貴は……いるよね?」

 ディーンが上目遣いで遠慮がちに尋ねると、青年は無感動な面持ちで弟と私を交互に眺めおろし、無言で顎をしゃくって、わずかなすきまをあけた。

 家の中はなじみのにおいがした。なんというか……男子寮のにおいだ。前に入ったときは気持ちがくあまり気づかなかったのだろう。

 背後でカギの閉まる音がした――それからチェーンも。

 ディーンのななめうしろについて、半ばブラインドの降ろされた居間リビングに入ると、正面の暖炉の前にふたりの青年がいるのが目に入った。どちらも細身で赤褐色の髪、ほかの兄弟にというより、互いにとてもよく似ている。飾り棚マントルピースの上に片肘をついて、

「ようディーン、久しぶり」

「お前一体なにしてくれたの?」

「キースが帰ってこないって、ギルの兄貴がカンカンで」

「しょうがねえから俺が仕事するなんて言い出しちゃってさあ」

「あいつに字が読めるわきゃねえのにさ」

「ムリするから知恵熱出したの、そんなの小学校以来じゃねえ?」

「うるせえぞ、黙れクソガキども! 聞こえてんだよ!」

 ふたりが声を揃えて笑ったのにひっかぶせるように、家の奥から雷のような声がした。ディーンが全身をこわばらせて声のしたほうに体を向け、いつかのように私をうしろにする。

 奥のガラス戸がぶち破られたかと思うほどの勢いで開き、できれば会いたくなかった人物が姿を現した。

 予想どおりというべきか、記憶の中とまったくと言っていいほど変わっていなかった。

「だってホントのことじゃん」

 双子の弟たち(どちらがどちらか区別がつかない)をぎろりとにらみ、次いで、

「テメエは救いようのねえアホか、腐れ神父? よくも俺の前にその馬鹿弟と一緒にマヌケヅラさらしに来れたもんだ――おいロジャー、そいつ押さえとけ」

「――兄貴!」

 ディーンが悲痛な叫びをあげて、一拍遅れでふりむいたのと、うしろから首を絞められたのは同時だった。いつのまに背後に立っていたんだ――かろうじて息はできるが――なんて腕だ! まるで丸太のようで、指先を食い込ませるすきますらない。プラスチックのカラーが喉仏を圧迫する。相手のほうが背が高いせいで、苦しさのあまり爪先立ちになる。

「ロジャー、頼むからやめてよ!」

 脳への血流が阻害されたせいだろうか、ディーンの犬歯がいつもより尖って、全身の輪郭がちかちかまたたいているように見える――駄目だ、こんなところで変身したら、家族メンバー全員を敵に回すようなものじゃないか……。

 ディーンが年長のきょうだいに必死に食ってかかるのを見て、下のふたりは面白そうにくすくす笑っているだけだ。

 頸動脈が締め上げられて、こめかみで心臓が脈を打つ。視界に砂嵐が混じり、ディーンとその兄が言い争っているのも聞こえなく――……

「放せ」

 かろうじてその声が耳に届いた瞬間、拘束が解かれた。膝から床に落下し、急に肺に流れ込んできた空気にせる。生理的な涙ににじんだ視界に、もうひとりの人物が映った。

 床に這いつくばっているせいで視線が低くなっている私を除いて、部屋にいる全員が彼に注目していた。

 騒ぎなどどこ吹く風だった双子も、野次を止めて、ただのにやにや笑いに切りかえた。ディーンでさえ、私を助け起こそうとするのを途中でやめ、調教師の鞭が足元に飛んできた猛獣のように、ぎくしゃくと向きを変える。

「アルフレッド、なんで止めるんだよ! ディーンこいつがおかしくなったのだってみんなこのクソ坊主のせいだろ!」

「たしかにお前の言うとおり、そいつは救いがたい阿呆か底抜けのお人好しか、そうでなければよほど肝が据わっている鋼鉄の精神の持ち主なんだろう。狼の巣に飛び込んでくるんだからな。どちらかわかってから始末を決めても遅くない」

「兄き――」

「いいや、俺は今すぐコイツをブッ殺したい、俺の左腕と、それからキースの野郎が放っぽり出しやがった紙切れの礼に」

 変身していなくてもほとんど牙のような犬歯をむきだして迫られても、相手は微動だにしなかった。二番目のきょうだい――たしかギルバートといった――のような巨躯ではなく、均整のとれた体つきは弟と並ぶと小柄にも見える。だが、

 先ほどと同じ、ナイフのような声だった。

 わめきたてていた巨漢が、なにか強大な力にでも顎を押さえつけられたかのように黙る。

 兄弟に向けたおもては整った顔立ちといってよかったが、全身から発散されている雰囲気が常人のものではなかった……吸血鬼が本質的に持ち合わせている、過剰なまでの愛想のよさとは正反対の、人間ひとの都合などお構いなしの、野生の冷たさだ。

「ディーン、その男を連れてこっちへ来い」

 ディーンがものも言わず、私のジャケットの襟首を引っ張り上げるようにして立たせ、そのまま、奥へ消えたきょうだいのあとを追う。

「てめえなんざアルフレッドに食われちまえ」

 呪いの声と、憎しみを含んだ視線が追ってきた。

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