風を撒く者

8-1

 俺はそのまままっすぐ司祭館に走って帰り、真っ暗な家の中を自分の部屋に直行して、靴を蹴っ飛ばし、泥だらけのジーンズも脱がずにベッドに倒れこんだ。頭が枕についてから三秒もしないうちにバッテリーが切れたみたいに眠りに落ちたし、夢も見なかった。

 目が覚めたのは夕方だった。まあトーゼンだろうなと思ってスマホを見たら、電池残量のほうが瀕死の状態でおまけに明後日あさっての日付になっていた。ってことは、まるまる一日半寝てたってことか。

 ニックの家でテキトーに巻き直した包帯ににじんだ血は茶色く乾いていて、はがすと、血は止まっていて、うっすら盛り上がりかけている肉が見えた。痛いのは相変わらずだが、脳天に響くほどじゃない。右手のほうは……怖くてたしかめるのをやめた。

 回復してる途中なのに、ふしぎと腹は減っていなかった。

 吸血鬼野郎から押しつけられたシャツを脱いでゴミ箱に捨てて、自分のやつと、それから汚れていないカーゴパンツに履き替える。

 汚れもののカゴバスケットに服とシーツを放り込んで居間リビングに行ってみたら、クリスがいた。

 ローテーブルに広げていた新聞から顔をあげて、

「……ようやく起きたんだね。あんまり長いこと寝ているから、死んでるんじゃないかと思って……途中で様子を見に行ったんだよ」

「ああ……うん、ちょっと……疲れてたもんだから」

「なにをしてきたのかは聞かないでおくよ。学校には具合が悪いから休むと連絡しておいたから……。お腹はすいていないのかい?」

 俺は首を横にふった。クリスは、ああ、そう、とだけ言って、また記事に目を落とした。

 それだけだった。ほんとにそれだけだった。

 俺のカッコを見たんなら、ゼッタイなにかじゃないことが起こったのはひと目でわかっただろうが。前なら、なにか危ないことに首をつっこんでいないかしつこく聞いてくるに決まってたし、俺だって、寝て起きたばっかりなんだから、あれが食いたいとかこのあいだのナントカがいいとか言うはずなのに。

 俺のことなんかマジでどうでもいいのかよ。それとも、あんた自身がなにもかもどうでもよくなったってことなのか?

 俺はその場に突っ立っていた。ほんの数歩の距離なのに、クリスがうんと遠くにいるみたいに小さく見える。

 言っちまえよ――俺の中のなにかがささやいた。言っちまうんだ、そのあとどうなろうと、たぶん、今より悪くはならない。


「クリス、俺、あんたに告白しなきゃいけないことがあるんだ」俺は言った。

「なんだい?」クリスはちょっと疲れたみたいに微笑んだ。「私に赦せるようなことならいいんだが」

「俺は兄貴を殺した。四番目の。キースっていうんだけど。クリスを傷つけたのはそいつだよ」

 部屋に沈黙が流れた。ふだんなら気にもならない時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。ピン一本落ちても飛び上がるくらいに。

 クリスは黙って俺を見ていた。お祈りもしなかったし十字も切らなかった。まばたきもしなかったから、まるで時間が止まったみたいだった。

「……私のせいなのか?」かすれた声だった。「私のせいでお前が――」

「違うよ」俺はゆっくりと言った。「クリスのためだけじゃない。やつは親父も殺してたんだ、俺たちの親父を――おまけにやつはその」

「ディーン、ちょっと待ってくれ、一体なにがなんだか……」

 クリスが頭痛でも起こしたみたいにおでこに手を当てたので、とにかくいったん落ちつこう、ということになり、妙な話だが、俺たちはキッチンにコーヒーを淹れに行った。

 コーヒーを淹れるっていうのはいい考えかもしれなかった。お湯が沸くのを待って、ドリッパーをセットして、いた豆からコーヒーポットカラフェにコーヒーが落ちるのを見ながら、俺たちはふたりともひとことも口をきかなかった。

 でもコーヒーのいい匂いがキッチンにあふれて、これから話すことがただの日常会話にでもなるみたいな感じがした。

 俺たちはいつもみたいにカップを持ってダイニングテーブルに座り、最初から始めた。

 キースが犯人だってわかったこと、ニックが助けてくれたこと、そのおかげでキースが親父を殺したとしゃべったこと――

 クリスのせいじゃないよ。

 話の最後にもう一度俺は言った。

 たとえやったやつが誰だったとしても、俺は同じことをしただろう。

 俺がそうしたかったから。

 録音データを使う必要はなかった。全部を聞き終わると、それまでずっと黙っていたクリスは目をつぶって、おでこに組んだ手を当ててちょっと苦しそうに、

「ああ――聖書には……私たちは互いに愛しあうべきであり、カインのようになってはいけないとあるのに……」

「目には目を、歯には歯を、ともいうだろ」

「それを踏まえたうえでのことだよ。兄弟殺しだなんて……。私は主がお前を赦してくださるよう祈るよ」

「神様が許してくれなくてもいいよ、クリスが許してくれるなら」

 俺は――ほんとに――祈るような気持ちで言った。もしクリスのことがなかったとしても、キースは許されなかっただろう。だけどそのことでクリスがさらに苦しむのは嫌だった。

 クリスはきれいなブルーの瞳で俺をじっと見た。泣きそうな――でも微笑わらってもいるみたいな顔で。

「私がお前を許さないわけがないだろう――主よ、罪深い私を……」

 それから五分くらいお祈りを始めたので、そのぐらいならまあいいかと思って俺はおとなしく待っていた。

 お祈りが終わったあとのクリスは、冷たいくらい真剣な表情で、

「だがそれが本当なら、彼は私に、自分の群れをつくると言っていた――子供がいるんだと」

「子供?」そんな話は聞いてなかった。

「俺の甥っ子か姪っ子ってこと?」

「そうだろうね。どこにいるかは聞いていないが」

 俺は椅子に座っているのにめまいがした。親父が死んだって聞かされたときよりひどい。壁と天井がぐるぐる回る。

「そんな……それなら俺は……俺はそいつらの父親おやじを殺したことになるの……? まだ小さいんだろ、たぶん、ひょっとしたらこれから生まれてくるかもしれないのに、それなのに……それなのに父親がいないなんてそんな……」

「ディーン、お前のせいじゃない」

 クリスが俺の手を握ってくれなかったら、椅子ごとうしろにひっくりかえっていたかもしれない。

「お前は知らなかったんだから。お前や……ミスター・ノーランが復讐したがっていると知っていながら、彼に漏らしたのは私なんだから、私も同罪だ」

「でも、クリス……」

「お前が苦しむのを見るのは嫌だったんだよ。だから言わないでおこうと思ったのに……できなかった。私は弱い人間なんだ」

 復讐と赦しの甘い酔いみたいなものはふっとんでいた。

 だからってキースの兄貴のしたことを今さら許せるかっていわれたら、それはべつの話だ。代わりに俺が甥っ子だか姪っ子だかに殺されてやるとしたら……たぶんアルフレッドの兄貴は気にもしないだろう。クリスは泣いてくれると思うけど……クリスが泣くと思うと、死ぬのはやっぱもう少し先送りしたい。

「俺……アルフレッドの兄貴に自首するよ」

「どのお兄さんだい?」

「一番上。親父がこの世にいないってわかった今、ほんとのαアルファだ……。キースの親父殺しの件があるから、いくら兄貴がマジギレしたとしても、俺がその場でブッ殺されるようなことにはならない……と思う、けど……」

 だけど俺の罪状はこれで三つだ。ひとつはキリスト教の坊主となれあったこと、ふたつ目は一族クランの上位メンバーを殺したこと、三つ目は……キースをるのに、よりにもよって吸血鬼の手を借りたことだ。それって、父親殺しとどっちが罪が重いんだろう?

「私も一緒に行くよ」

「なっ――ダメだよ!」俺は叫んだ。

 責任感が強いのにもほどがある。初めてギルの兄貴と鉢合わせしたとき、兄貴があんたをどんな目で見たのか忘れたのかよ。特に、ギルバートのやつは自分のへまで俺が教会になびいたってアルの兄貴に思われてるだろうから、今度こそクリスをろうと思ってるに違いない。

「だけどこれは私のせいでもあるんだよ。私がもっとしっかりしていればこんなことには……」

「だからクリスは悪くないって言ってるだろ。どうしてもっていうんなら……ついてきてもいいけどさ、身の安全は保障できないよ。俺たちにはお祈りも聖水も十字架も効かないし、銀の弾もニックのやつが全部使っちゃったからね」

「私たちは殺し合いに行くんじゃないだろう?」

「場合によっちゃそうなる可能性もあるってことだよ。俺は腹を見せるけど、あんたがそうしたらたぶん速攻で食われるだろうから――十字架の先をいでおいたほうがいいかもな」

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