2-7

 自分でもほとんど忘れかけていた件――今では名前も覚えていない男、陣中の宴席で彼に配られた酒を私が誤って飲んでしまい、お前の父親おやじは疥癬病みの女衒野郎だとののしられたのだが、まったく事実と異なるのだからおとなしく謝罪するか無視していればよかったものを、次には私の母親についてとても口には出せないことを恥知らずにも皆の前で声高に叫びたてたので、彼奴きゃつの顔面に一発お見舞いしたのを皮切りに彼方此方あちらこちらで大乱闘に発展し、ようやく全員の酔いがさめたときには、騒動の発端となった張本人は長椅子バンコの角に頭を打ってこの世とはおさらばしていた――を告白しているあいだ中、対面のソファに座った人狼の小僧の顔には、「なんでそんなくだらねえこと言うのにわざわざこんなとこまでくんだよ」という疑念がありありとうかんでいた。

 ……私もそう思う。

 告解の前になんでもいいから聖書の一節を朗読してもらえないかと頼むと、マクファーソン神父は適当に聖書をひらいて、そこを読みあげた。

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、ふたりだけのところで忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。

 ……よく言っておく。あなたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。

 また、よく言っておく、もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのである」

 『マタイ伝』の一節だ。それを聞いたからといって心が軽くなりはしなかったが。

 主よ、その憐れみにより我が罪を赦したまえ、と唱えるのもそぞろだった。

「全能の父、あわれみ深い父は……」マクファーソン神父のおだやかな声が降ってくる。

 どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれを……いやありえないだろう、特にこの場合は。

 神父の手が私のうなだれた頭上に差し伸べられる。

「主が教会の奉仕のつとめを通じて、あなたに赦しと平和を与えてくださいますように」

 赦しと平和を――いつ?

 それには復讐が果たされなければならない。そうするには目的の相手がどこにいるかをつきとめねばならず、それを知るためにはあの呪われた女ラ・マレデッタを通してこの世をべる君主へのとりなしが必須であり、その対価はマクファーソン神父が握っており、彼が手放した瞬間から、この型破りだが実直な美貌の聖職者は再びわれとわが身を危険にさらすことになるのだ。

 結局、自分が殺したのかどうかも定かではない(殴ったのはたしかに私だが)男に対する、とうの昔に時効成立済みの傷害致死の罪を赦されるまで、どうにも態度を決めかねたままだった。

 そのあとまた形式どおりに、聖別されたワインを干し――酒の席で暴れたからといって私は酒乱ではないのだが、小僧のこちらを見る目にはなにかまたひとつ悪徳が加わったようだった――カップを置いた。今回ばかりは私の渇望は血に対するものではないので、葡萄酒で消えたりはしない。

 礼を言って立ち上がる。

 玄関まできたとき、私はふとふりかえり、数歩うしろにいる聴罪師に、ひとりごとめかしてつぶやいた。

「これは仮定の話……まったく仮の話だが……もし私が地獄と取引をする、あるいはしたと言ったらどうするね、神父?」

 マクファーソン神父はまっすぐ私を見つめた。

「それはあなたが落ちかけている地獄のことですか、それともすでに落ちた地獄のことですか」

「まだ落ちてはいない。私の足は“悪の濠マレボルジェ”のふちにひっかかっているところだ」

「それ、どこ? つうか、なんなの?」と人狼の仔が聞いたが、神父の耳には入らなかったようだ。

「そちらへ行かないでください、ノーランさん。あなたは一度は主の光に出逢った人だ、たとえ最初はじまりはそうではなかったとしても」

 彼の聖母被昇天の衣の色をした眼には、苦悩と哀しみがたたえられていた……ように思う。

「……聞いてみただけだよ、神父」


「なあ、ニック」

 人狼の小僧はまた車のところまでついてきた。

「……なんだ」

「あんた、顔色が悪いぜ」

 うっとうしいやつだ。今日はこいつのおしゃべりにつきあう気にはなれない。

「いつものことだ」

 この五百と数十年のあいだ、顔色がよかったためしはない。気分もだが。

「俺には魂ってもんがあるんだか考えたこともないけどさ、もしあんたがまだ自分には魂があると思ってるんなら、そいつはしっかりつかんでおいたほうがいいぜ」

 私は思わずこの目つきの悪い生意気な小僧の顔を穴のあくほど見つめた。

「……なんだよ」やつは少したじろいだ。「俺に催眠術がかかんないのは知ってるだろ」

「……ああ」

 マクファーソン神父がこの人狼の子供をそばにおいている理由が少しわかった。

 こいつは夏の最後の薔薇なのだ。神父がこいつにガラスの覆いをかけてやりたくなるのもわからなくはない。たとえこいつがそんなものはいらないと言ったとしても。

 気持ちは固まらない――まだ足をぶらぶらさせている状態だ――が、気分は少し良くなった。

 と同時に、彼らのことが心底妬ましく思えてきた。

 お前たちは魂をもっている――人狼はの存在だから、そのあたりは少々疑わしいが、例外を除けば、そういうことになっている。それにやつは、自分に魂があろうとなかろうとおそらく気にしないだろう。おまけにそれを預ける相手もいるのだから。

 クリスはあんたの専属じゃない、とやつは以前小生意気にも私に言った。そうだ、だがお前の専属ものでもない。

 どうしてお前だけがガラスの温室の中にいて、あのやさしくも玲瓏な眼差しを注がれているんだ? お前には過ぎた境遇だ。たしかに私は数百人の命を奪った。生きていたあいだも、死んでからも、今日のように、顔も、名前すら忘れてしまった人間の。懺悔もしたとも。まだ知られていない罪もあるし、これから犯す罪もあるだろう。だがすべてが赦されるのだとしたら、新たに罪のひとつやふたつ上積みしたからといってなんの変わることがある? 刈入れの時は過ぎ、夏は終わったというのに。

 だが今日のところは――やつは車のドアに手をかけている私を、不審そうに注視している――お前に一点だ。

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