後編

 ***


 雨が降っている。


 ルナは首をかしげた。

 雨はさっき止んだのに、また降り出したのだろうか。今度は天気雨ではなさそうだ。森の中が暗い。


 泣き声が聞こえた。それは少しずつ近づいてくる。湿り気を帯びた足音とともに泣き声が大きくなる。


 やがて、森の奥から二つの人影が現れた。少年と少女が手を繋いで歩いている。泣いているのは少女の方らしかった。空いている方の手で顔をぐちゃぐちゃに拭いながら歩いている。


 近づいてきた少年の顔を見て、はっとした。それは紛れもなく――


「ぼく……?」


 ルナの隣でハルキが目を真ん丸にしていた。その顔と少年の顔を見比べてみると、やはり全く同じに見える。


 ということはあの少女は――


「わたしだ……」


 近づいてきた少女の顔を確認して、ルナは呟いた。ひどい泣き顔だが、確かにそれはルナだった。


「どういうこと……?」

 ルナはハルキと顔を見合わせて眉をひそめた。何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。


「ほら、もう泣かないで。あの木の下で雨宿りしよう」


 少年が少女の手を引いてやって来る。ルナとハルキはとっさに神樹の裏側に隠れた。少年と少女は、幹を挟んで反対側に座った。


「ルナ、大丈夫だよ。きっと帰れるから。雨もすぐに止むから。大丈夫」


 少年が少女を慰めるように言った言葉に、ルナとハルキはまた驚いて顔を見合わせた。少女の名前もルナ。偶然とは思えない。


「ハルキ、帰れなかったら、どうしよう」

 少女が泣きじゃくりながら言った。


 少年がハルキと呼ばれたことにはもう驚かなかった。


「大丈夫だよ。絶対帰れる。あ、ほら雨も弱まってきた」


 少年の言うとおり、雨は小降りになっていた。そして少しして雨は上がった。


 迷子らしい少年と少女は、雨が止むと立ち上がった。しかし、帰り道がわからないためか、少し行きかけては戻ってきて、また別の方へ行きかけては戻ってきた。


「みんな、道を教えてあげて」


 二人が途方にくれて足を止めたとき、神樹の声が響いた。


 その途端、森の草木がざわついた。

 木の枝がわずかに動き、大きく出っ張った根は少し引っ込み、絡まりあったつる草はするするとほどけた。そして、人が通りやすいささやかな道ができた。


 しかし落ち込んでうつ向く少年も、泣きべそをかいている少女も道ができたことに気づかない。人間である二人に神樹の声は聞こえていなかった。


 近くの木が気を利かせる。


 どさっ、と何かが落ちる音に、少年と少女は身を震わせて、恐る恐る顔を上げた。音の正体が木から落ちた木の実だとわかると、二人はほっと息をついた。そして道を見つける。


「きっとここから帰れるよ!」

 少年が歓喜の声をあげ、少女はようやく泣き止んだ。


 二人の背が遠ざかっていくのを、ルナとハルキは木の陰からひっそりと見送った。


 ***


「神樹さま。あれは神樹さまの記憶?」


 ルナは神樹に尋ねた。


「そうだよ。ずいぶん昔のことだけどね。それからあの二人は頻繁に森に遊びに来るようになった。でも人間の成長は早いね。すぐに彼らは大人になって、森には来なくなってしまった。

 二人が来なくなってからは森がやけに静かで寂しく感じた。そんなとき二つの種が芽を出し、わたしの子が産まれた。わたしはその子たちに人間の姿を与えた」


「それがわたしとハルキ……」

「そう」


 そこでぷつりと会話が途切れ、沈黙が流れた。少ししてハルキがためらいながら口を開いた。


「……ぼくらはあの子たちの代わりなの?」


 ルナは身を固くして神樹の答えを待つ。そんな緊張を見抜いたように、どこまでも優しい声で神樹は語りかけた。


「そんなはずないよ。あの子たちがいて楽しかったけれど、あなたたちは決してあの子たちの代わりではない。あなたたちは大事な大事なわたしの子、森の子だよ」


 そこでいったん言葉を切った神樹は、ふふっと楽しそうに笑う。


「それにしても姿と名前はあの子たちのものを借りたけれど性格はちっとも似なかったね。あの子たちはハルキの方がしっかりしててルナは泣き虫だったけれど、あなたたちはルナの方がお姉さんみたいでハルキはちょっと甘えん坊さん」


 ルナとハルキはお互いの顔を見てちょっと笑った。神樹にもたれかかると、心の底からほっと息をつく。


「ルナ、ハルキ。ひとつお願いがあるんだ」

「なあに?」

 すっかり安心した様子のハルキが甘えた声を出し、小首をかしげる。


「二人にね、この森を出てほしいんだ」


 神樹の声がさっきまでと同じで優しくて、二人とも何を言われているのかわからなかった。


「さっきも言ったように、きっとこの森はもうすぐ終わるから。だから二人にはここを離れて別の土地で生きてほしい」


「いや!」

 悲鳴をあげたのはほとんど反射だった。


 神樹の言っていることを理解した途端、真っ暗な穴に突き落とされたように感じて、圧倒的な恐怖が迫った。


「やっぱり、人間なんて大っ嫌い!森が……なくなるなんて、だめだよ。ここは神樹さまの森なのに。……なんでわたしたちがここを出ていかないといけないの?」


 森がなくなる、と言いたくなくて、声が小さくしぼんだ。


 ルナの隣ではハルキが泣いている。ルナはきつく唇を噛んだが、どうしてもこらえきれずに、とうとう涙がまぶたを乗り越えた。


「ルナ、人間を責めてはいけないよ」


 神樹はやはり穏やかに言った。それがさらにルナの心を揺さぶる。


「なんで?人間たちは木を伐り倒して森を壊しているのに」


「じゃあルナはこの森に住む動物たちを責められる?サルは木の実を取って食べるし、ヤマネコは木の幹で爪を研いで樹皮を傷つけるよ。この森に住む生き物はみんな、木に頼って生きている」


「でも……、でもそれは違うでしょう?」


「違わないよ。人間も動物たちもおんなじ。確かに人間は少しやり過ぎかもしれないけれど、わたしたちはそれを責められない。

 わたしたちは生きている。でもわたしたちだけで生きているんじゃない。他の生命とともに生きているんだ」


 ルナはもう何も言えなかった。ぐいぐいと手で涙を拭い、唇をかんで地面を見つめた。その隣で、ずっとうつ向いてルナと神樹のやり取りを聞いていたハルキが、涙に濡れた顔を上げた。


「でも、ぼくらはここで最後までいてもいいでしょう?よそへ行くなんていやだよ。神樹さまから離れるなんていやだよ」

「……ごめんね」


 神樹の謝罪はとても痛そうで、辛そうで、でも二人が森に留まることを許してはくれなかった。


「これは、わたしのわがままなんだよ。ううん、これだけじゃない。二人にはわたしのわがままばかり押し付けてきてしまった。寂しいからと人間の姿を与えて、今度は出ていけなんて、勝手な話なのはわかってる。

 でもね、このわがままをどうか叶えてくれないかな。このまま森が消えるのはわたしだって辛い。悲しい。だから、二人にどこか別の地に根を下ろして、大きな森を育ててほしい。新しい地でわたしの、わたしたちの生命を繋げていってほしいんだ」


 ハルキはいやいやをするように首を左右に振っていた。

 ルナは涙を拭い、泣き続けるハルキの手を取って立ち上がる。ハルキの顔を両手で挟み込んで、頬を伝う涙を指で押し止めるようにして優しく払った。


「神樹さま、わたしたち行くよ」

 そう宣言したルナの声に迷いはない。


 ルナはまだ首を振るハルキの手を強く握り直して向き合う。


「ねえ、ハルキ。神樹さまのお願いを叶えてあげようよ。こんな風に森が終わってしまうなんて悲しいでしょう?このままだと神樹さまの森は本当にここで終わってしまうけれど、わたしたちが新しく森を育てられれば森はまだ終わらないんだよ。この森がなくなったって、ずっと続いていけるんだよ」


 行こう、とハルキを優しく見つめるルナの手が、ぎゅっと握り返された。ハルキは空いている方の手で涙を拭う。ルナを見つめたその目には強い光が宿っていた。


 神樹は、ありがとう、と二人の頭上で優しく枝を揺らした。

 ざわざわという音は次第に森中に広がっていく。


 森が歌っているのだ。二人の旅立ちを祝福して。輝く未来を願って。


 木々の揺れに合わせて、二人に光が降り注ぐ。


「ルナ!ハルキ!きっと二人は素敵な森をつくれるよ!二人はわたしの愛する自慢の子だから!わたしの生命を、森の生命を、どうか未来に繋げて!どうか、生きて!」


***


 雨が降っている。


 雨が降ると、森が歌う。二本の木を中心に広がる森が枝葉を揺らして歌う。


 あの日の、祝福の歌を。

 優しい雨に濡れ、まぶしい光に溢れた、あの歌を。


 ――雨が、降っている。

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神樹の森 イカリ @half_rice

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