神樹の森

イカリ

前編

 雨が降っている。


 森の中を少年と少女が、手を繋いで歩いてくる。

 二人は大木の下に腰を下ろし、空を見上げた。


 ***


 森の色が雨に溶けて緑の光が落ちてくる。


 ルナはまぶしさに目を細めながらもその光景に見入った。ぽっかりと口を開けているルナの隣では、ハルキもすっかり呆けている。


「天気雨だ……」


 ぽつりと呟いたハルキに、ルナは「うん」とだけ返した。ハルキもまた「うん」とうなずく。


 美しい、雨だった。


 二人の頭上は大木の枝葉に覆われていて、雨が遮られていた。その屋根の境目の辺りまで行って、二人は呆然と空を見上げた。


 枝葉の合間を抜けて、雨がまばらに降ってくる。枝葉に遮られた雨粒は、ぱたぱたと軽い音を立てていた。雨を受けた地面や草木からは生命の匂いが立ち上り、森はいつも以上に精気に満ちている。雨粒は落ちてくる間にその濃厚な精気をその身に溶かし、太陽の光を受けて鮮やかに輝く。


 雨が、森が、生命が、輝いていた。


 ちちっ、とどこかで鳥が鳴いた。二人の足元をトカゲが這い、やがて落葉に紛れた。風が木々をざわつかせた。揺れた枝葉からばらばらと激しく雨が落ちた。二人にもいくつか降りかかった。


 そこでルナははっとして、ゆっくりとハルキの方を見た。目が合い、笑う。そうして二人は走り出した。密な枝葉が作る屋根から出ると、二人をたくさんの雨粒が叩いた。しかし痛くはない。それは二人を遊びに連れ出そうとするように、二人の肩を、つむじを、手の甲を、鼻の頭を、軽やかに跳ねた。


 ルナが少し先を行き、ハルキがそれを追いかける。二人は笑いながら走り回った。

 ルナは水溜まりを見つけると、すぐさま勢いよく飛び込んだ。後に続くハルキが同じようにして飛沫を上げる。弾けた雫が宝石のようにきらめく。


 そのうちに走り疲れた二人は仰向けに倒れ、きゃらきゃらと笑い声を上げた。


「きれいだね、ハルキ」

「うん、本当にきれい」

 そう言ったっきり、二人は黙りこんで木々の間からのぞく青空を見つめた。


 雨が目に入りそうになって、ルナは目を閉じた。雨が全身に落ちてくる。少しずつ雨は弱まっているように感じた。


「ルナ、ハルキ、ちょっとおいで。いいものが見られるから」


 突然響いた声に、ルナはぱっと目を開けて、上体を起こした。その隣でハルキは跳ねるように立ち上がって、顔を輝かせている。


「神樹さま!」

 そう叫ぶやいなや、ハルキは駆け出した。ルナも慌てて後を追う。


 二人は元の大木の下に戻ってきた。また枝葉が二人の頭上を覆い、雨が遮られる。


「神樹さま!何が見えるの?」


 ハルキが大木の――神樹の幹に勢いよく抱きついた。が、その太い幹には手が回らず、実際は両手を広げて張り付くような形だった。追い付いたルナも、ハルキの隣でべたりと神樹に張り付く。


「ねえ、神樹さま。何が見えるの?」

「登っておいで」


 神樹は二人が登りやすいように一番下に付いている枝を少し下げた。先にハルキがその枝をつかみ、神樹が伸ばしてくれる枝を頼りに登っていく。すぐ後にルナも続いた。


 密集する枝葉を抜け、一足先にてっぺんに着いたハルキが歓声を上げた。


「うわあ!」


「何?何が見えるの?」

 ルナのいる位置からでは枝に視界を遮られて何も見えない。

「ハルキ、もうちょっと寄って」

 ルナはハルキの身体を押し避けて、なんとか首だけ葉の合間から出した。


「わあ……!すごい」

 ルナの目が鮮やかな色彩を映して輝いた。


 他の木々の五倍ほども高さのある神樹のてっぺんからは、森全体が見下ろせた。風に吹かれて波打つ緑は、雨上がりの気配をささやいている。


 その森の上に半円形の橋が架かっていた。


「虹だ……」

 ルナはそう小さく呟くと、はっと口をつぐんだ。


 その虹があんまりにも薄い色彩で、存在が儚く見えたからだ。風が少しでも吹いたら、跡形もなく消えてしまうように思えた。

 ルナは、虹が吹き飛んでしまわないように息を潜めてその淡い彩りの橋を見つめた。隣のハルキも黙っていた。


 雨は次第に弱くなり、やがて完全に止んだ。虹は空気に溶けるように、いつの間にか消えていた。少しも目を離さなかったルナにもいつ虹が消えたのかわからなかった。


「消えちゃったね」

 ハルキが名残惜しそうに言った。

「……うん」


 虹への執着を捨て去るように首を振り、ふと視線を下げたルナはあることに気づいた。


「小さくなってる……?」


「え?何が?」

 ハルキが無邪気に尋ねてくるから、ルナは気のせいかもしれないと思い、改めて違和感の元を見つめた。しかし、やはり気のせいではない。疑惑が確信に変わる。


「森が、小さくなってる」


「え?」

 ハルキは目を丸くして、ルナが見つめる方を見やった。森の途切れている部分が以前とは違う。ずいぶん近い。

「……本当だ。なんで?」


「ルナ、ハルキ」

 神樹が動揺する二人に声をかけた。

「話があるんだ」


 地上に降りた二人は、神樹の根本に腰を下ろした。二人とも何も言わなかった。なんだか悪い予感がしていた。


「ルナとハルキの言うとおり、森は小さくなっているんだ」

 神樹がそっと切り出した。


「なんで?」

 ハルキの問いに神樹はすぐには答えなかった。神樹がこんな風に黙ってしまうのは、ルナの知る限り初めてだった。


 やがて神樹は話し出した。


「この森はね、伐採されているんだ。人間が森の木たちを伐っているんだよ。だから少しずつ小さくなっている。このままだと、この森はなくなってしまうだろうね」


 森がなくなる。その言葉にルナは大きな衝撃を受けた。ルナが生まれ育ったこの森がなくなるなんて、考えられないことだった。


「なんで人間は木を伐るの?森を壊したいの?」

 ハルキが声を震わせて言った。その目には涙を溜めている。


「人間はね、木を必要としているんだよ。家を作ったり、いろんな道具を作ったりするのに使っているんだ。森を壊そうとしているわけじゃない」

「でも……」


 ハルキは何か言おうとして、しかし何も言えずに口を閉じた。言葉の代わりに目から涙がぽろりとこぼれ落ちた。


「なんで、神樹さまはそんなに平気そうなの?」

 ルナは責めるような目で、神樹を鋭く見上げた。


「人間に腹がたたないの?人間が嫌いじゃないの?」

「……わたしは人間が好きだよ」

「なんで?人間が森を壊してる!人間のせいで森がなくなっちゃうんでしょ?」


 涙がこみ上げ、声が震えた。しかし、ルナはハルキのように悲しくて泣くのではない。悔しさと怒りが溢れているのだ。


「ルナは人間が嫌い?」

「嫌い」

「ハルキは?」

「……ぼくも」

「そう……」

 神樹の声はなんだか悲しそうに聞こえた。


「でも、わたしは人間が好きだよ。二人に見せてあげるよ、私の記憶を」

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