第4話 燦珠、耳をそばだてる

 渾天こんてん宮に召されてから数日、燦珠さんじゅ秘華園ひかえんの自室に閉じこもっていた。これだけ長い間、華劇ファジュの練習をしていないのは、彼女の人生で初めてかもしれない。風邪を引いても怪我をしても、できることをやろうとしては止められるのが燦珠だったから。


 でも、さすがに今はうたや舞に励む気にはなれない。狭い自室ではできないというだけでなく、彼女は品行正しく謹慎していなければならないのだ。練習が品行かどうかは別として、そのように見せなければ。


 寝台の上で膝を抱えて、燦珠は隼瓊しゅんけいにことの次第を報告した時のことを何度となく反芻している。秘華園に戻ってすぐに、彼女は師であり、霜烈そうれつの親代わりでもある方の前に跪いて詫びていたのだ。


『申し訳ありません! 私のせいで、よう太監たいかんが……あの、だん太監にも謝りたくて──』

『あの子は秘華園を守るためなら何でもする。そなたでなくても同じことをしただろうから、落ち着きなさい。私たちも、分かっている』


 隼瓊は、燦珠を宥めようとしてくれたのだろう。誰よりも長く、かつ身近で彼を見守ってきた人の言うことだから、説得力も十分にあった。でも、燦珠は落ち着くことなんてまったくできなかった。


『秘華園全体の話に、なりますか……!? 《探秘花タンミーファ》が取り止めになったりは──』


 後宮の倣いや政治の機微に通じている隼瓊の目から見て、どれだけ厳しい状況なのか、気になって仕方なかった。戯子やくしゃの不祥事が問題視されるとして、疑いがあった段階でもうなのか、まだ希望はあるのかどうか。


(皆、練習して来たのに……!)


 これで公演は中止となれば、外朝がいちょう興徳王こうとくおうは、秘華園とはやはり不正の巣窟だと考えるのだろう。そんなことにはならないと、隼瓊に言って欲しかったのだけれど。


『そなたと沈貴妃様の潔白は、信じている。陛下も証明してくださるだろうとも。……あとは、そなたの翠牡丹ツイムータンを盗んだのが、せめて戯子やくしゃでなかったことを祈るしかないが』


 年経りてなお美しい戯子やくしゃは、安易な慰めを口にしてはくれず、むしろ燦珠にまた新たな懸念を気付かせてくれたのだった。


(科挙の不正に関わった者が、合格者を祝福するなんて、いけないわよね……)


 膝を抱えたままの格好で、ころりと転がりながら。燦珠は考え続けている。彼女自身の潔白が証明されても、秘華園自体が無罪放免となるかはまだ分からないのだ。溜息混じりの呟きが、頼りなくしとねに零れる。


銀花ぎんか殿の子たちと、話せたら良いんだけど……」


 隼瓊の前から辞した後、様子を窺っていたらしいれい姸玉けんぎょくと鉢合わせたのも、燦珠の胸に刺さっていた。公主役の、声が綺麗な戯子やくしゃは、けれどその声をひと言も聞かせてくれなかった。燦珠と目が合うなり愛らしい頬を強張らせて素早くきびすを返してしまったから。


とう貴妃きひ様はあの子のご主人だものね。どう、思っているんだろう)


 科挙の競争相手を出し抜くべく、主従揃って不正に手を染めた、と思われていてもおかしくない。仙娥せんがの演技とも言えないを見てくれていれば話は変わってくるだろうけど、あいにくあの場にいた戯子やくしゃは燦珠だけだった。それに──


(……見ていても、それはそれで気まずい、わよねえ)


 仙娥の嘘を認めるということは、香雪を陥れようとしたと認めるということでもある。では、例の問題流出に使われた翠牡丹ツイムータンは、いったいどこから出て来たのだろう。


戯子やくしゃ翠牡丹ツイムータンを悪用しないと思うんだけど……)


 公主役に抜擢されて、やる気を燃やしていた姸玉を思い出して、燦珠はころころとのたうち回った。

 姸玉本人はもちろん、銀花殿の戯子やくしゃたちだって、仲間のことは応援したいだろう。だから、危ない橋は渡らないと思いたい。悪いのは仙娥とその取り巻きだけで、戯子やくしゃたちは一切関わっていないということになれば良い。でも、皇帝はいったいどこまで明らかにしてくれるのだろう。


(私は、まだ尋問もされてない……香雪こうせつ様からってこと? どんなお気持ちだろう。それに……楊太監は?)


 被疑者同士が接触できないのは当然として、霜烈の容態も聞こえてこない。華麟かりんを筆頭にした妃嬪ひひんが何人か、そして戯子やくしゃからも見舞いを送った者がいるというけれど、誰も本人に会えていないとか。そんなに具合が悪いのか、弱ったところを見せたくないのか、謹慎のつもりなのか。──何も分からないから、不安だけが募っていく。


 燦珠が、枕に向かって溜息を吐いた時、扉を叩く音と共に、とても声が響いた。


「燦珠、今、良いかな?」

「──芳絶ほうぜつさん?」


 扉越しにも良い香りが漂いそうな声の主は、顔を見るまでもなく、分かる。慌てて髪と服の乱れを整えてから燦珠が戸を開けると、らん芳絶の香り立つような美貌が、今日も艶やかに微笑んでいた。


「息が詰まるだろう。私と一緒に、散歩に出よう」

「でも、私──」


 芳絶の声と笑顔の前では、たいていの者は花に惹かれる虫と同じだ。一も二もなく頷いてしまうだろう。でも、今の燦珠はさすがにそこまで軽々しくなれない。


楓葉殿うちの貴妃様としん貴妃様には何の接点もない。よって、私が君を庇う理由もない。誰も責めたりしないさ」


 優しく言い聞かされてなお、燦珠は首を振るつもりだった。でも、芳絶は彼女の耳に唇を寄せて、抗えないを囁いた。


「──楊太監のことだよ」


      * * *


 燦珠さんじゅの手を引いて、芳絶ほうぜつは秘華園のはずれの一角へ足を向けた。長身の芳絶は手指も長く、包み込まれて絡め取られるようで体温が上がる。


(やだな、掌に汗が……)


 芳絶に気付かれませんように、と思いながら、燦珠はおずおずと口を開いた。ちょうど、ここまでくれば人の目も耳も気にして良いだろう、という奥まったところに辿り着いていた。


「あの、楊太監に会えたんですか? お見舞いに行っても誰も会えなかったって──」

「ああ、私は特別だから」


 勇気を出した直接な問いに、思った以上に直接な答えが返って来て、燦珠は声を詰まらせた。


「それは……あの、どういう……!?」

「恋人同士、とは思わないのかな? うちの貴妃様も大方の戯子やくしゃも、そう思っているようだけど」


 悪戯っぽく微笑む流し目には、どこか探るような試すような含みもある、気がした。そう、確かに。とても似合いの綺麗なついだと見蕩れた上で、燦珠はふたりが想い合っているとは思っていなかった。ただ──それは、気付いて良いことだったのだろうか。指摘したら、失礼に当たらないだろうか。でも、気になって仕方ない。


「芳絶さんは──」


 さっき以上の勇気を振り絞って開こうとした燦珠の唇は、けれど芳絶の指先によって縫い留められた。


「ごめん、ちょうど時間みたいだ」


 何の時間かは、尋ねることができなくても明らかだった。


 秘華園をほかの区画と分ける壁を越えて、天から妙なる調べが降ってくる。虹や彩雲さいうんを音にしたらかくや、というような美しく煌めくような声。乾いた大地に染み入る慈雨じうのように聞く者の心を潤わせ、空を仰いで感謝を捧げたいとさえ思わせる、天の恵みのようなうた


 燦珠の脳裏に、不意に後宮の地図が浮かび上がった。芳絶が連れてきたこの場所が、いったいどこにあるのか、ようやく分かった。


(そうだ……ここ、楊太監の住まいに近いんだ……!)


 霜烈が、唄っているのだ。今、この時に。後宮の殿舎の建物や壁を隔てても、すぐそばで。詞は、切れ切れにしか聞こえてこない。でも、ほんの何文字かでも聞き取れれば、全体を思い起こすことはできる。



 水月為鏡 映影美人  水面に映る月は貴方を映す鏡

 噪蛙驚鳥 落葉破月  蛙の声に驚いた鳥が葉を落とし月影を乱す

 至風上天 飛花列辰  天高く吹く風が花を星にまで舞い上げる

 翔向月亮 許落在爾  花に倣って月に跳べば 貴方のもとに下りられるだろうか



 《月翔花ユエシャンフア》──水面に映る月に恋人の面影を見て、空の月を見上げては、遠い恋人のもとに繋がっているのではないかと思う。美しくも悲しいうただ。燦珠が空を見上げて聞くことを想定して選んだに違いない。会えないけれど、会いたいと思ってくれているのだと、彼はうたを通じて伝えてくれている。


「彼がね、今日のこの時間に唄うから君をここに連れて来いって。何を言っているのかと、思ったものだけど。──燦珠?」


 芳絶の指が触れて初めて、燦珠は頬が濡れているのに気付いた。恥ずかしくて拭っても、後から後から涙が溢れてどうにもならない。だって、霜烈は無事だったのだ。少なくとも、唄える状態ではあるのだと確かめられた。


「すみません。……あの、私っ、安心したから……ありがとう、ございます……っ」


 嗚咽で詰まった濁った声でとぎれとぎれに訴えると、芳絶は優しく燦珠の頭を撫でてくれた。そして、いまだ聞こえる霜烈のうたを妨げないようにだろう、ほとんど唇を動かすだけの囁きで、燦珠に伝える。


「彼からは伝言も預かっている。いくらでも唄ってやるから大人しくしているように、と」


 霜烈の声の最後の一音とその余韻、さらには芳絶経由の伝言を、燦珠は噛み締めた。燦珠は、できることなら毎日でも霜烈のうたを聞きたいと思っているし、彼もそれを知っていて恐れている。その彼がいくらでも、というのはよほどのことだ。


「大人しく……?」

「董貴妃様に食って掛かったりしないように、じゃないかな」


 芳絶に言われて、燦珠は大きく目を見開いた。


(そうだ、その手があったわ!)


 燦珠が浮かべた笑みに、握った拳に。何か不穏を感じたのだろう、芳絶が長身を軽く屈めて彼女の目を覗き込む。


「燦珠、聞いてた?」

「はい! ちょうど、ぜんぶ董貴妃様がやったことなら良いなって思ってたんです!」

「燦珠」


 聞いていなかったのか、と暗に圧をかけられても、燦珠の勢いは止まらなかった。


「董貴妃様に食って掛かっても、認めてはくださらないですよね。分かってます、ちゃんと。でも──」


 霜烈が釘を刺してきたのは、燦珠の性格とを知っているからだ。《偽春ぎしゅんの変》では偽皇子の身辺を探り、皇太后の前で亡き驪珠りじゅを演じて誤りを悟らせた。──そう、あの時の燦珠は、事態を座視するだけではなかったのだ。


(調べられるのを待っているだけじゃ、駄目なのよ。戯子やくしゃのほうで、正しい行動を示さないと!)


 あの時よりも、今のほうが秘華園は厳しい立場に置かれているのだ。自ら疑いを晴らすくらいでなくては、胸を張って祝宴に参加することなどできはしない。被疑者である燦珠だけでは難しくても、芳絶の協力が得られるなら、もしかしたら。


翠牡丹ツイムータンについて、気になってたことがあるんです。もしかしたら、そこから董貴妃様をかも……!」

「へえ……?」


 燦珠の熱意と必死さを汲んでくれたのだろうか。芳絶の目が、興味深げな色を湛えて煌めいた。

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