第4話 燦珠、耳をそばだてる
でも、さすがに今は
寝台の上で膝を抱えて、燦珠は
『申し訳ありません! 私のせいで、
『あの子は秘華園を守るためなら何でもする。そなたでなくても同じことをしただろうから、落ち着きなさい。私たちも、分かっている』
隼瓊は、燦珠を宥めようとしてくれたのだろう。誰よりも長く、かつ身近で彼を見守ってきた人の言うことだから、説得力も十分にあった。でも、燦珠は落ち着くことなんてまったくできなかった。
『秘華園全体の話に、なりますか……!? 《
後宮の倣いや政治の機微に通じている隼瓊の目から見て、どれだけ厳しい状況なのか、気になって仕方なかった。
(皆、練習して来たのに……!)
これで公演は中止となれば、
『そなたと沈貴妃様の潔白は、信じている。陛下も証明してくださるだろうとも。……あとは、そなたの
年経りてなお美しい
(科挙の不正に関わった者が、合格者を祝福するなんて、いけないわよね……)
膝を抱えたままの格好で、ころりと転がりながら。燦珠は考え続けている。彼女自身の潔白が証明されても、秘華園自体が無罪放免となるかはまだ分からないのだ。溜息混じりの呟きが、頼りなく
「
隼瓊の前から辞した後、様子を窺っていたらしい
(
科挙の競争相手を出し抜くべく、主従揃って不正に手を染めた、と思われていてもおかしくない。
(……見ていても、それはそれで気まずい、わよねえ)
仙娥の嘘を認めるということは、香雪を陥れようとしたと認めるということでもある。では、例の問題流出に使われたということになっている
(
公主役に抜擢されて、やる気を燃やしていた姸玉を思い出して、燦珠はころころとのたうち回った。
姸玉本人はもちろん、銀花殿の
(私は、まだ尋問もされてない……
被疑者同士が接触できないのは当然として、霜烈の容態も聞こえてこない。
燦珠が、枕に向かって溜息を吐いた時、扉を叩く音と共に、とても甘い声が響いた。
「燦珠、今、良いかな?」
「──
扉越しにも良い香りが漂いそうな声の主は、顔を見るまでもなく、分かる。慌てて髪と服の乱れを整えてから燦珠が戸を開けると、
「息が詰まるだろう。私と一緒に、散歩に出よう」
「でも、私──」
芳絶の声と笑顔の前では、たいていの者は花に惹かれる虫と同じだ。一も二もなく頷いてしまうだろう。でも、今の燦珠はさすがにそこまで軽々しくなれない。
「
優しく言い聞かされてなお、燦珠は首を振るつもりだった。でも、芳絶は彼女の耳に唇を寄せて、抗えない呪文を囁いた。
「──楊太監のことだよ」
* * *
(やだな、掌に汗が……)
芳絶に気付かれませんように、と思いながら、燦珠はおずおずと口を開いた。ちょうど、ここまでくれば人の目も耳も気にして良いだろう、という奥まったところに辿り着いていた。
「あの、楊太監に会えたんですか? お見舞いに行っても誰も会えなかったって──」
「ああ、私は特別だから」
勇気を出した直接な問いに、思った以上に直接な答えが返って来て、燦珠は声を詰まらせた。
「それは……あの、どういう……!?」
「恋人同士、とは思わないのかな? うちの貴妃様も大方の
悪戯っぽく微笑む流し目には、どこか探るような試すような含みもある、気がした。そう、確かに。とても似合いの綺麗な
「芳絶さんは──」
さっき以上の勇気を振り絞って開こうとした燦珠の唇は、けれど芳絶の指先によって縫い留められた。
「ごめん、ちょうど時間みたいだ」
何の時間かは、尋ねることができなくても明らかだった。
秘華園をほかの区画と分ける壁を越えて、天から妙なる調べが降ってくる。虹や
燦珠の脳裏に、不意に後宮の地図が浮かび上がった。芳絶が連れてきたこの場所が、いったいどこにあるのか、ようやく分かった。
(そうだ……ここ、楊太監の住まいに近いんだ……!)
霜烈が、唄っているのだ。今、この時に。後宮の殿舎の建物や壁を隔てても、すぐそばで。詞は、切れ切れにしか聞こえてこない。でも、ほんの何文字かでも聞き取れれば、全体を思い起こすことはできる。
水月為鏡 映影美人 水面に映る月は貴方を映す鏡
噪蛙驚鳥 落葉破月 蛙の声に驚いた鳥が葉を落とし月影を乱す
至風上天 飛花列辰 天高く吹く風が花を星にまで舞い上げる
翔向月亮 許落在爾 花に倣って月に跳べば 貴方のもとに下りられるだろうか
《
「彼がね、今日のこの時間に唄うから君をここに連れて来いって。何を言っているのかと、思ったものだけど。──燦珠?」
芳絶の指が触れて初めて、燦珠は頬が濡れているのに気付いた。恥ずかしくて拭っても、後から後から涙が溢れてどうにもならない。だって、霜烈は無事だったのだ。少なくとも、唄える状態ではあるのだと確かめられた。
「すみません。……あの、私っ、安心したから……ありがとう、ございます……っ」
嗚咽で詰まった濁った声でとぎれとぎれに訴えると、芳絶は優しく燦珠の頭を撫でてくれた。そして、いまだ聞こえる霜烈の
「彼からは伝言も預かっている。いくらでも唄ってやるから大人しくしているように、と」
霜烈の声の最後の一音とその余韻、さらには芳絶経由の伝言を、燦珠は噛み締めた。燦珠は、できることなら毎日でも霜烈の
「大人しく……?」
「董貴妃様に食って掛かったりしないように、じゃないかな」
芳絶に言われて、燦珠は大きく目を見開いた。
(そうだ、その手があったわ!)
燦珠が浮かべた笑みに、握った拳に。何か不穏を感じたのだろう、芳絶が長身を軽く屈めて彼女の目を覗き込む。
「燦珠、聞いてた?」
「はい! ちょうど、ぜんぶ董貴妃様がやったことなら良いなって思ってたんです!」
「燦珠」
聞いていなかったのか、と暗に圧をかけられても、燦珠の勢いは止まらなかった。
「董貴妃様に食って掛かっても、認めてはくださらないですよね。分かってます、ちゃんと。でも──」
霜烈が釘を刺してきたのは、燦珠の性格と実績を知っているからだ。《
(調べられるのを待っているだけじゃ、駄目なのよ。
あの時よりも、今のほうが秘華園は厳しい立場に置かれているのだ。自ら疑いを晴らすくらいでなくては、胸を張って祝宴に参加することなどできはしない。被疑者である燦珠だけでは難しくても、芳絶の協力が得られるなら、もしかしたら。
「
「へえ……?」
燦珠の熱意と必死さを汲んでくれたのだろうか。芳絶の目が、興味深げな色を湛えて煌めいた。
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