第7話 燦珠、落ちる
闇に身を投げた
(綺麗な人は、どんな表情でも綺麗……)
「────……っ」
全身を襲う衝撃に歯を食いしばりながら、燦珠はどうにか霜烈の腕の中に収まった。彼女の身体は中層の舞台に叩きつけられることなく、怪我もない──と、思う。
(良かった、上手く行った……!)
安堵して手足の力を抜いた燦珠の耳元を、霜烈の深い溜息がくすぐった。次いで、どこか非難がましい囁きが。
「そなたは……少しは、
心の準備ができなかった、と言いたいらしいが、燦珠にも言い分がある。暗い中、しかもしっかりと抱え込まれてはろくに顔が見えないのは承知で、唇を尖らせてしまう。
「だって……あの流れで躊躇うの、変でしょ……?」
「……大丈夫?」
芝居、と言えば。霜烈も重要な
最上層の舞台の床は、昼間のうちに取り払っておいた。芝居中に舞台を替えることもあるから、人ひとりでも操作できる軽くて簡易な仕掛けになっているのだ。その上で、本来は縄を下げるために天井に設置された
闇の中で幕の影に潜んでいたから、燦珠は──
……つまりは、霜烈はたったひとりで一階分の高さから落ちた燦珠を受け止めたことになる。口を利けたから大丈夫、と考えて良いのかどうか。燦珠を抱え込んで
(私……重くなかったかしら? 落ちた側でも結構痛かったのに……
もう一度声を掛けるべきか、迷っていると──ばさり、という音と共に上からかさばるものが落ちる気配がした。様子を見に行く、という名目で万寿閣に登った
「……なぜ、予定にない台詞を言った?」
やっと霜烈の声が聞けた、と思った瞬間、燦珠の視界はいっそう深い闇に包まれた。霜烈が、落ちて来た幕を彼女に頭から被せたのだ。白鶴を舞うために、燦珠は
相手の表情が窺えない心細さに瞬きながら、燦珠はそっと口を開いた。
「え、っと……ごめんなさい。勝手なことをして。驪珠は、あんなことを言わないかしら……?」
隼瓊と霜烈の予想では、皇太后はすぐに認めてくれるはず──内心では不審も募っているだろうし、驪珠への後ろめたさもあるだろう、ということだった。それが、思いがけずあの御方は強情で、しかもひどいことも言われたから、頭に血が上ってしまったのだ。地上では隼瓊が狼狽える気配もしたような。まして、実の子である霜烈にしてみれば、母を汚された気分になったかもしれない。
裁きを待つ罪人の思いで霜烈の反応を待っていると──ちょうど燦珠の手のあたりに、布の塊がぽんと置かれた。彼女が着てきた衣服と、
持たされた荷物を燦珠が抱え込んだのを確認してか、霜烈は無言のまま彼女を抱き上げた。しっかりとした足取りに、やはり怪我はしていないようだという点では安心できた。けれど、彼の内心についてはそうはいかない。
(なんで何も言わないの……?)
怒っているのだろうか、と思うと、怖い。けれど、霜烈が階段を降り始める気配を感じると、もう口を開くことはできなかった。
霜烈が再び言葉を紡いだのは、平らな場所を歩き始めてから、だった。万寿閣を抜け出て、搬出入用の隠し通路に入ったのだろうか。
「──あれで
抱きかかえられていると、魂を直に撫でられるような美声が、とても近い。しかも身体に響く。身体と心臓が同時に跳ねるのを感じながら、燦珠は慌てて問い直した。
「……どの辺り?」
「すべてだ。見る者がいてこその役者だということ。我が子のために演じていたということ。《
「よく覚えてるわね……」
一度聞いただけの台詞をすらすらと並べられて、燦珠は感嘆の溜息を吐いた。やはり、霜烈には役者の才があるとしか思えない。
(どうにかまた唄ったり舞ったりしてもらえないかしら……?)
おねだりの口実を真剣に検討しはじめていた燦珠は、けれど霜烈が続けた言葉を聞いて凍り付いた。
「
暗さと、彼女を包む幕のお陰で、霜烈の表情を見ることができなかったのは、良かったのかどうか。彼が過去を語る時、声はいつも平坦だ。けれど、今は微かに震えてはいないだろうか。深い悲しみや寂しさや、覚える必要がないはずの自責の念や罪悪感が聞こえるのは、気のせいだろうか。
「私はずっと、驪珠の時間を奪ったのだと考えていた。ただでさえ短い命だったのに、子を産むために──いや、だからこそ命を縮めたのではないか、と」
「……驪珠や隼瓊
そんなはずはない、と思いながら尋ねると、霜烈が首を振る気配が身体に伝わった。
「子供に言う方々ではない。こちらから聞けることでもない」
では、彼はずっと密かに恐ろしく悲しい疑いを心の中に抱えていたのだ。たったひとりで。
(皇太后様は本当にひどいことをなさったわ……)
「
「……皇太后様の仰りようがあんまりだったから、言い返したくなっちゃったんだけど。でも……私だけの台詞じゃないと、思う」
即興で紡いだ台詞は、決して間違ってはいないと思う。驪珠が本当に現れたとしても同じことを言ったはず。けれど、二十数年に渡って凝り固まった疑いを解くことが、小娘にできるだろうか。子を持ったこともない身で、上手く説明できるだろうか。
恐れながら、迷いながら──それでも燦珠は、必死に考えを纏め、言葉を選んだ。
「
「そうだろうか」
案の定というか、霜烈は疑わしげに相槌を打った。懸命に訴えたのがまったく伝わっていないのを知って、燦珠はもどかしく手足をばたつかせた。たぶん、外から見たら黒い大きな芋虫が暴れているように見えたはずだ。
「そうよ! だって、芝居は客がいなければ成り立たないじゃない。
霜烈は、どうやら燦珠の父、
「私も、
称賛を浴びて嬉しいのは、芸が認められたからだけではないだろう。自分のためだけではなくて。客の笑顔に、感動の溜息に、心を動かすことができたと分かるからだ。
「自分が演じた何もかもが、その子の『初めて』になるの。月を見ても花を見ても、自分のことを思い出してもらえたら──きっと、誇らしく思う。そうなるように頑張ろうと思う……と、思うわ……?」
霜烈がずいぶん長く黙っているから、燦珠はふと不安になった。遮られなかった代わり、相槌さえ聞こえてこない。彼は気を悪くしていないか、いったいどんな顔をしているのか。彼女たちは、いったいどの辺りにいるのだろう。万寿閣から十分に離れたなら、下ろしてもらったほうが良いのではないだろうか。
(そのほうが楽、よね……?)
運ばれている身で何を呑気に長々と喋っているのか、と思われている可能性に気付いて、燦珠は慌てて声を上げた。
「楊奉御! 私、もう歩け──」
「そなたは大役を果たしたのだから、休んでいると良い」
今宵の霜烈は、訳が分からなかった。ずっと何も言わなかったのに、口を開いたと思ったら言い切らせてもくれないなんて。彼女の言葉をどう受け止めたのか、納得したのか、それさえ教えてくれないなんて。
(何なのよ、もう……!)
少しだけ、面白くなくはあるけれど──でも、燦珠を抱える彼の腕に力がこもったのが答えだ、と思うことにした。否応なく彼の胸に頭を寄せる格好になれば、鼓動が速いのにも気付く。舞台が終わった以上は緊張や不安を感じる必要はないはずだから、喜んでいてくれるなら、良い。
(皇太后様は今ごろどうなさっているかしら……)
ごめんなさい、と。
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