第8話 燦珠、一期一会

 演技が終わった後も、燦珠さんじゅの心臓はばくばくと激しく高鳴って収まってくれなかった。


 うたと舞で酷使した全身の筋肉が悲鳴を上げているのもあるけれど、それよりも客の反応が気になってしかたない。絨毯を敷いた舞台に平伏して、皇帝からのお声がけを待つ時間が、果てしなく長い。


(やった──やれた? 細かいとこはいっぱい失敗したけど、やり切れた、の……!?)


 即興で考えた振付や歌詞を、本番でそのまま舞い唄うことはできなかった。


 星晶せいしょうと──鳳凰と見つめ合ううちに、口や手が勝手に動いたのだ。美しい鳥に誘われる娘になり切ったら、ここで跳んでここで焦らせて、ここで隙を見せて微笑むのが自然だとか思ったからだ。曲に乗せてみないと、そんなことは分からなかったから。


 きちんと教わった《鳳凰フェンファン比翼ビーイー》の振付を、できる限りなぞったほうが安全だったのに──舞い始めたら、そんな計算は頭から吹き飛んでいた。


(千回の鍛錬も一度の実演には及ばない……爸爸パパの言ってた通りだったわ……!)


 変えた筋書きに沿った演技を、舞い切った、という手ごたえはある。

 ただ、見る側にはどう見えたのか。特に、本来の演技を知っている香雪こうせつ華麟かりんを落胆させてはいないのか──激しく動いたことによる汗と、冷や汗が混ざり合って衣装に染みていくのが分かる。


(どうして誰も何も言わないのよ……!?)


 演技が終わったら、すぐにお声がかかるから、ひと言ふた言答えて退出すれば良いと言われていたのに。呆れて何も言えないほどの醜態ではなかったはずなのに。


 演目を無断で変えたのが、何かしらの罪になったりするのかどうか。じわじわと大きくなる不安に、燦珠が押し潰されそうになった時──衣擦れの音が、響いた。


「──太精彩了すばらしい真佩服かんぷくしたわ……!」


 次いで、柔らかく品のある老婦人の声が。その声の主は、立ち上がって数歩、舞台に歩み寄ったのだろう。次の言葉は、いくらか近いところから聞こえた。


花旦むすめやくの、そなた。名は何というの? 星晶に似合いの子が現れて、華麟も喜んでいるのでしょうねえ」

「あ──」


 思わず顔を上げてから、非礼に気付いて燦珠は慌てて額を床に擦りつけた。


 それでも、その一瞬の間に声の主の姿は目に焼き付いた。

 舞台からは見上げる上席からこちらを見下ろす小柄な影。白い髪を豪奢に結い上げ、重たげな衣装を纏った老貴婦人こそ、皇太后に違いない。彼女は、皇太后から直々にお褒めの言葉を賜ったのだ。


「光栄でございます! しん昭儀しょうぎにお仕えしております、燦珠さんじゅと申します!」

「沈昭儀……?」


 上擦り震える声での口上に応じて、良い香りがふわりと漂った。皇太后が首を傾げて、纏う香を振り撒いたのだろう。


「そこの──青い披帛ひれの者でございます」


 皇太后の疑問に答える男の声は、たぶん皇帝のものだ。皇帝には数多の妃嬪がいるというからだろうか、皇太后はまだ香雪を見知ってはいなかったらしい。


「ああ、新しい人ね? 良い戯子やくしゃを連れてきてくれて嬉しいわ。陛下によくお仕えしてちょうだいね」


 さやさやと、皇太后のそれよりも軽い衣擦れの音は、香雪が跪いたからだろう。控えめで優しい彼女の声は、緊張しきった燦珠の耳には、春の薫風くんぷうのように感じられた。


「もったいない仰せでございます。燦珠は、陛下がわたくしにつけてくださいましたから、わたくしは何も──すべては、陛下のご厚情の賜物でございます」

「まあ、そうなの?」


 香雪の謙虚な態度は、皇太后にも好ましく映ったのだろう。老いた女性の低く柔らかな笑い声もまた、燦珠の胸を和らげてくれた。彼女の心臓がどくんと強く脈打ったのは、もはや不安ではなく喜びのためだ。


(これでひとつ、目標達成ね……!)


 香雪は、面目を施すことができた。抱えの戯子やくしゃが皇太后を満足させたのだから、彼女の後宮での立場は強まったはずだ。


 問題は──燦珠が今日の舞台で目標としたことが多すぎるということだけど。秘華園ひかえんに巣食う不正と腐敗に、皇帝の華劇ファジュ嫌いに。


 そうだ、皇帝は彼女たちの舞を見て何をどう感じたのだろう。


 燦珠が思いを馳せたのを見計らったかのように、皇帝が軽く咳払いをした。


「──燦珠さんじゅしん星晶せいしょう。そなたらの舞もうたも見事であった。今日観た演目の中で、もっともちんの目を捕らえたかもしれぬ。だが──」


 不穏極まりないところで言葉を切られて、燦珠の指はびくりと震えて敷物を掻いた。


(だが!? だがって何!?)


 喜ばせるようなことを言っておいて、怖がらせないで欲しい。心臓に悪い。でも──


「予定と違う舞にしたのは何ゆえだ? 事情があるならば申し述べよ」


 皇帝の、ひたすらに真摯な声の響きは燦珠を落ち着かせてくれた。


(……天子様って、とても良い方みたい)


 燦珠たちの舞の内容を、ちゃんと覚えてくださっていた。香雪の話に、きちんと耳を傾けてくれてもいたのだろう。

 不正があったのを察する辺り頭も回るし、この場で見過ごさないと仄めかしてくれるのもとても公正な態度だ。香雪は素敵な方に見初めていただいたのだろう。


 そんな方だから、燦珠にも希望が持てる。はっきりと、言いたいことを言える。


「事情は──ございません。私と星晶で話して、このほうが良いと考えただけでございます」

「何……?」


 平伏した燦珠の頭に、困惑の呟きが降ってきた。


「本来は鳳凰の番の舞だと聞いていたが? 顔を上げて答えよ。朕や──義母はは上の前で演じるのに、未熟な舞を見せたなどとは申すまいな?」


 皇帝の声に苛立ちが滲むのも当然だ。差し伸べられた手を払いのける、無礼な振る舞いだから。でも、その上で認める訳にはいかない。


 命じられた通りに顔を上げて、御簾みすに遮られることなく初めて見た龍顔の若々しさと凛々しさに一瞬だけ目を瞠って──燦珠はきっぱりと言い切った。


「たった今、お褒めの御言葉を頂戴ちょうだいいたしました。お目汚しの舞だったとは、思っておりません」

「まあ、無礼な……!」


 非難がましく呟いた、薔薇のような美貌の妃は誰だろう。燦珠は知らないけれど、たぶん香雪を嫌う御方なのだろう。

 そして一方で、燦珠の衣装を損ねた者やそれを命じた者とは違うはず。その者は、今は燦珠が何を言い出すかと戦々恐々としているはずだから。


(秘華園には、本当に色々な人がいて、色々な考えが渦巻いている……)


 それも、燦珠がどうにかしたい問題ではある。足の引っ張り合いに汲々とする戯子やくしゃたちも。喜燕を悩ませたどこかの誰かも。でも、それを皇帝に言いつけても良いことはないだろう。この方には、芝居を好きになってもらわなければいけないのだから。


 だから──直答を許されたこの機を利用して、燦珠は今少し独演を続けることにした。用意していたセリフではないけれど、常に思うことだからこそ、言葉は淀みなく唇から流れてくれる。


「舞台とは、華劇ファジュとは常に変わるもの、一期一会のものでございます。そして役者はその時その時でもっとも美しい夢を見せるために全力を尽くすもの──今日のこの場で私どもがお見せできる最高の舞こそが、あい恋う人と鳳凰のものであったと、それまででございます」


 衣装を損ねられたのを暗に認めつつ、けれど燦珠が言いたいのはそれだけではなかった。それくらいの嫌がらせに屈したりはしないということさえ、二の次だ。


(実際、嫌がらせにもなってなかったわ。結果としては、そうでしょう?)


 限られた時間の中で代わりの歌詞と振付を絞り出した必死さは、彼女たちの演技に輝きを添えたはず。


 自分たちでさえ一瞬先が見えない、綱渡りの緊張の中、一秒ごとに最善の振りを選び続けて演技を続けるのは──楽しかった。

 自分自身の手足だけでなく、相手のすべての仕草に眼差しに神経を尖らせて。時に試すように、時に託すように示された道筋を追って、辿って、ふたりで、ひとつの舞を織り上げる。


(怖かったけど……大変だった、けど……!)


 無二のひと時だったことは、自信を持って断言できる。秘華園を長く見守った皇太后と、華劇ファジュ嫌いの皇帝に、同時に称賛されたからこそ、迷いなく微笑むことができる。


「もう一度同じことをやれと命じられても、叶うかどうか分かりません。一度限りの幻をお見せできたことを、心から嬉しく誇らしく、光栄に思っております」


 言い切って再び叩頭すると、皇帝はしばらく何も言わなかった。燦珠を問い詰める言葉を、もしかしたら探していたのかもしれない。でも、皇太后が再びおっとりとした笑い声を響かせるほうが、早かった。


「ああ、やっぱり《鳳凰フェンファン比翼ビーイー》が舞えるのじゃない。今度見せてちょうだいねえ」


 ひたすらに楽しそうで嬉しそうな、幼女のような発言に、燦珠は少し面食らった。帝が何を問題にしようとしていたのか、皇太后は気付いていないのだろうか。


(……この方、本当に華劇ファジュが好きなのね……)


 皇帝の不機嫌をものともせずに、次の機会を楽しみにすることができるなんて。大幅に内容を変えたのに、本来の演目を言い当てるなんて。


 皇太后が知る《鳳凰フェンファン比翼ビーイー》は、驪珠りじゅ隼瓊しゅんけいが舞ったもののはずだから、伝説の花旦むすめやくを思い出してもらえたなら光栄、だけど。


 ともあれ、この老貴婦人こそが今の後宮で最も尊い御方なのだ。皇太后の上機嫌な声を遮る者は、誰もいない。皇帝でさえ一歩退いて、場の主導権を委ねている。


 彼女自身はその立場に気付いているのかどうか──皇太后は、もう一歩舞台に近付いて、燦珠たちを覗き込んだようだった。


「見事な舞にはご褒美をあげなければ。星晶と──燦珠、だったかしら。何をあげれば良いでしょうねえ」

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