第6話 鳳と人、相(あい)恋う

 皇帝と皇太后が臨席するとあって、供される料理は贅を凝らしたものばかりだった。


 魚翅フカヒレスープに、甘く仕立てた燕巣ツバメのすの箸休め。

 豚の丸焼きや鹿の頭の煮つけなど豪快な肉料理もあれば、あんかけや蒸しものといった淡白な魚料理もある。


 細切りにした具を小麦の薄皮に巻いて食する春餅チュンビンは、皇太后の好物のようで、手ずからせっせと巻いては違うタレで味付けしている。年の割には健啖家けんたんかなようだ。と、翔雲しょううんは考えていたのだが──


「そなたも食べなさい。育ち盛りなのだから」

「……恐れ入ります」


 どうやら亡き皇子の代わりにされていたのに気付いて、無の感情でよく知らない老女が作った春餅チュンビンを口に運んだ。


 陽春ようしゅん皇子を膝に乗せて云々と先ほど言っていたから、きっと子供に食べさせている感覚なのだろう。彼がかの皇子に似ているのかそうでないのかは、皇太后の気分によって変わるらしい。


「次は、いよいよ星晶せいしょうの番ね? 相手役の花旦むすめやくはいったいどんな娘なのかしら……!」


 成人した男を子供扱いしておいて、一方で舞台を見る皇太后の目はしっかりとを捉えているから訳が分からない。


 これまでの幾つかの演目──舞や、うたを中心にしたもの、長編から有名な場面を切り取ったもの──と戯子やくしゃについて、彼女は恐らく的確な評を下していた。

 翔雲に興味がないだけで、しゃ貴妃きひ華麟かりんあたりが隣にいたならさぞ話が弾んでいたのだろう。


華劇ファジュけの予防になっているのか、進めているのかどちらなのだろうな?)


 歌舞音曲かぶおんぎょくの夢物語に浸るのは、彼にはやはり不健全に思えてならないのだが。


 ともあれ、次の演目だけは翔雲も心待ちにしていたものだ。彼から合格をもぎ取った、燦珠さんじゅとかいう娘も舞うのだから。皇太后はもちろんのこと、翔雲の目をもみはらせてくれるのかどうか。


 楽しみというか──また試してやる、という思いだった。


 先の演目が終わって空いていた舞台に、京胡きょうこの調べが流れ始めた。高く震える、情感のこもった京胡きょうこの音は、娘たちの軽くしなやかな舞に合う、と──それくらいは、翔雲にも分かり始めたところだった。


「やっぱり星晶は素敵ねえ」


 皇太后がうっとりと呟いたのも道理、華麟の贔屓ひいきだという女生おとこやくの娘は、長身といい凛とした顔立ちといい、極めて姿の良い少年にしか見えなかった。

 極彩色の羽根飾りを翻して舞台の上を回り、跳ねる姿は確かに鳳凰ほうおうの雄大さと優美さを表している。だが、その相手役は──


つがいの鳳凰の舞ではなかったのか……?)


 明らかに装飾の少ない紅の衣を纏った娘が登場したのを見て、翔雲は無言で眉を寄せた。


 相手役の華やかさに比べれば、燦珠という娘の衣装は羽根をむしられた鶏も同然だった。水鳥が水面を進むような、滑らかな足さばきはそれはそれで芸ではあるのだろうが。──星晶に釣り合うつがいには、見えない。


「まあ、貧相な鳳凰ね」

鴛鴦おしどりなら、雌のほうが地味だけど──ねえ?」


 妃嬪ひひんの席から嘲るような呟きが漏れたのを拾って、翔雲は香雪こうせつのほうへ視線を向けた。

 演目の詳細を知るはずの彼女は──目が合った翔雲に、白い顔で小さく首を振った。


 では、これはのだ。予定にないことが起きている。


(香雪への嫌がらせか……!?)


 ならば、舞台を中断させて、ことの次第をたださねば。


 立ち上がろうとした翔雲は、しかしほうの袖を強く引かれて椅子に戻された。過去に意識を囚われたままの皇太后には、皇帝さえも行儀の悪い子供にしか見えていないのだ。


「駄目でしょう、座って観ないと。──まあ、可愛い花旦むすめやくだこと」

「そのようなことを言っている場合では──」


 状況を分かっていない呆けた老女の、呑気な呟きに声を荒げかけて──翔雲は、気付く。


 皇太后の言う通りだった。


 燦珠は、少しの怯えも躊躇いも見せずに、嫣然と微笑んで舞台に立っている。試験で演じた闊達かったつな働き者の娘とはまた違う、しっとりとした佳人の佇まいで。まるで、練習を重ねに重ねた自信の演目に臨むかのように堂々と──それでいて可憐に、たおやかに。


(……何をする気だ?)


 疑問によって躊躇ううちに、星晶──雄の鳳凰に扮した戯子やくしゃが唄い始めた。謝貴妃が愛するだけのことはある、良く響く伸びやかな声だった。



 一天四海我已经飛過了    四方の海を旅した果てに

 我终于遇到了我的命运   やっと僕のつがいに巡り合えた

 我的舞踏我的翼是只你的  君のためにこの翼を捧げよう



 唄いながら、鳳凰は燦珠の──人の娘の目の前で舞う。煌びやかな羽根を見せつけるその舞は、鳥がつがいの気を惹いて愛を乞う時のものだ。


 美しい鳥の恋するさえずりを聞いて、人の娘は顔を上げる。

 目の前を過ぎる眩さに目を細め、唇を綻ばせる──無邪気な讃嘆の溜息が、耳元に感じられるかのようだった。舞台と客席を隔てる距離を感じさせぬほど、燦珠の眼差しも指先も、軽く傾げた首の角度も、彼女の全身がその想いを伝えていた。


 翻る鳳凰の翼に見蕩れて、娘は驚きと喜びをうたに乗せる。翔雲が初めて聞く燦珠の声は、彼が今日聞いたほかのどの戯子やくしゃよりも楽しげ軽やかで、音だけで舞っているかのようだった。



 多么眼花繚乱的鳥啊!  なんて綺麗な鳥かしら

 你飛来自哪里?     いったいどこから来たの?

 请为我唱        どうか歌って

 我不知道的地方之歌   私が知らない国のことを



 客席の空気が、ふ、と緩んだのが翔雲にも感じられた。これはそういう物語なのだ、と。観る者が了解したがゆえの安堵のような空気が漂った。


 鳳凰が人の娘に恋をする。

 人の娘は、霊鳥であることを知らずに、ただ美しい羽根を愛でる。

 焦れた鳳凰は躍起になって愛の歌を唄い恋の舞を踊る。見蕩れた娘は、絢爛な翼が描く異国の物語に惹き込まれ、やがて空に誘われる──これはこれで、分かりやすく華やかな筋書きでは、ある。だが──


(いつ、どうやって筋を変えた? うたの詞は、振付は? なぜこうも見事に演じているのだ!?)


 何も知らぬ客は、無心に楽しむことができるのだろう。だが、異変があったと知る翔雲はそうはいかない。香雪も華麟も──そして、恐らくは娘の衣装を損ねた者も、固唾を呑んでうたと舞が紡ぐ物語の先を見守っている。


 満場の観客の視線を浴びて──舞台の上では、翼を翻して舞う鳳凰に誘われて、娘もゆるゆると舞い始めている。


 差し伸べた指先を掠めるだけで飛び去る羽根を追って、駆けて、跳び、くるくると回る。鳳凰と娘は、舞うと同時にうたでも想いを交わして見つめ合う。



 請等、請安息在我掌中  待って この手に留まってちょうだい

 让我更近看看你的閃耀  その羽根をもっと近くで見せて


 跟我来吧、我的宝貝   君がこちらに来れば良い

 一起飛到你希望的楽土  どこまでも連れて行ってあげる

 万里遥遠翼翻一動    千里の彼方も、この翼なら



 軽やかに、楽しそうに舞い唄っているようで、危うい綱渡りを見せられているのだと──即興に近い演技だと、翔雲は知ってしまっている。

 だからこそ、ふたりの戯子やくしゃの演技にいっそう惹きつけられた。不安と緊張が、高揚と混ざり合い彼の鼓動を速め体温を上げる。


「《鳳凰フェンファン比翼ビーイー》の振付ね。花旦むすめやくの子も、もっと踊れそうなのに……」


 皇太后の論評が今度ばかりはありがたかった。それによって、少しだけ事態を推察することができたから。


(衣装が無事な鳳凰は本来の振付なのか。花旦むすめやくのほうは、即興だから動きを減らして──だが、それでも見劣りしないような演技にしている……!)


 舞台を縦横に駆けて舞う鳳凰──星晶は、確かに優れた舞手なのだろうと、翔雲にも分かる。だが、その舞を引き立てるのは花旦むすめやくの、燦珠の演技だ。


 人の娘を演じているがゆえに、跳躍も回転も控えめに抑えているのだろうが、だからこそ鳳凰の雄大さや力強さが映えるのだ。かといって影に徹するのでもない。

 常に相手役を追う眼差しも、優美な指先や足先の所作も、鳳凰が恋するのに相応しい可憐さだった。これがただ棒立ちするだけの戯子やくしゃなら、鳳凰の格も落ちていたことだろう。


(これが、戯子やくしゃの力というものか)


 衣装と化粧を落とせば、ふたりともただの若い娘なのだろうに。だが、このふたりでなければこの一幕はあり得ないのだ。同じ技術を持っているだけでは恐らく足りない。見目の良さも決め手ではない。


 容姿にも才にも恵まれた者が鍛錬を積んで、熱意と気力と体力のすべてを傾注して初めて実現する、束の間の夢。それが、華劇ファジュなのだろう。この興奮、この陶酔──これは確かに、入れ込む者が出るのもおかしくはない、だろうか。


 舞台の上では、鳳凰がついに娘を抱き締めた。星晶が扮する鳳凰が得意げに笑む一方で、娘も──燦珠もまた満ち足りた微笑を浮かべて鳳凰の胸に頭を預けている


 。鳳凰が恋人を得たのか、娘が鳳凰を捕らえたのか──どちらにも見えるし、どちらでも良い。歌詞も筋書きも、もはや些細なことだろう。ただ、夢のように美しい一幕だったというだけで十分、それ以上の説明は必要ない。


 京胡きょうこの調べが途絶えた後も、客席からは、溜息ひとつ衣擦れの音ひとつ聞こえなかった。誰もが夢の余韻を壊すことを恐れたのだろう。何も言わず、身動きもしなければ、夢の世界に浸っていられるのではないか、などと──それぞれ異なる思惑を抱えた者たちが、図らずも心をひとつにしたかのように。


 燦珠と星晶は息を弾ませたまま、寄り添って美しい笑みを浮かべ続けていた。

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