第6話 燦珠、朝飯前
後ろ頭で結った
彼女も試験の緊張に呑まれていたのかもしれない。失敗したかもしれないことに、気付いたのだ。
(あっ、演目を宣言しなきゃいけなかったかしら?)
指定の演目を舞うのではなく、候補者が出題に沿ったものを選ぶ形式の試験になった。ならば、無言で演技に入っては審査する側も困るのではないか、と遅まきながら気付いたのだ。
皇帝と
(ま、見れば分かるでしょ……!)
伴奏なしでの演技は、街角でももう何度もやっている。
庶民の喝采を得た舞は後宮でも通用すると、自分と父の教えを信じるのだ。第一、これから舞おうとしている振付に、決まった名前なんてないことだし。
演奏に備える
さりげなくしどけなく、眠っている時のように。──ううん、彼女は実際夢の中にいて、今まさに目覚めようとしているのだ。これは、そういう演技なのだ。
最初に動かすのは、爪先だ。覚醒を表すために、ぴくりと跳ねさせる。次いで、少し持ち上げて、宙で伸びをしてみせる。
もちろん、布団の中でやる怠惰な仕草とは訳が違う。派手な大きな動きがなくとも、舞踏の一環なのだと見る者に伝えるように、美しく、かつ筋肉のしなやかさを伝える緊張を帯びた動きでなくてはならない。
片膝を立てて、片足を伸ばして──そして、両脚の爪先は浮かせたままで。腹筋に力を入れて、上体も起こす。
両手を頭上に掲げて、片手は太陽を求めるように五指を広げて
若い娘の寝起きの姿を演じた所作──そろそろ、気付く者も出ただろうか。
「あ──」
紅色の衣の候補者の列から喘ぎが聞こえて、燦珠は密かにほくそ笑む。
そう、役者として鍛錬した者なら誰でも知っていて当然だ。ちょっと信じられないことではあるけれど、今になってやっと思い当たった者もいるかもしれない。
(でも、私しか手を挙げなかったものね!)
恨みっこなし! と。心の中で宣言しながら、燦珠はす、と立ち上がる。
掲げていた爪先を地につけて、その一点だけを頼りに直立する。一瞬の動きながら、前身の筋肉が鍛えられていなければできないことだ。身体を持ち上げるために負荷を強いた、足や背や腹の筋肉の痛みが心地良い。
燦珠は今、寝台から起き上がったところだ。次は──窓辺に寄って、時間を確かめなければ。
身体の正面に、掌を掲げる。右手、左手と、平らな壁を見る者に感じさせるように。それから、両手のひらを押し出しながら左右に開く──
両の爪先を跳ねさせて跳ぶのは、思いのほかに高く昇った太陽を見ての驚きを示すもの。軽く開いた唇と、くるくると目を回して見せることで、慌てたそぶりを強調する。早く早く、顔を洗って着替えなければ。
ちょこまかと回転するたびに、燦珠は髪を結い上げ、顔を洗い、着替えている。──そのように、舞と
軽やかに、誇らかに。
皇帝は花や鳥の演技を禁じたけれど、若い娘を演じようと思ったら、花のように瑞々しく美しく、鳥のように囚われず、唄わずともあらゆる仕草が
《
若い娘が日々従事する家事は、その最たるものだ。観客の妻や娘もやるような何気ない動きを、芸として舞踏の域に昇華する──客の多くが知らない王侯貴族の生活の華やかさや戦いの華やかな激しさを演じるのとはまた違う、
誰もが知っている動きだからこそ、誰が見ても分かるように本質を捉えなければならない。それでいて、演技として認めさせなければならない。
余計なものは削ぎ落して、どこまでも滑らかにしなやかに、鍛えた身体の能力を誇示するために。そのために、
『燦珠は……花嫁修業をしたほうが良いんじゃないかね』
『行く気はないわ!!』
……
(次は、
指先で宙を摘まんで、
足を跳ねさせるのは、纏わりつく鶏を避けてのこと。合間合間にあたりを見渡して、花の香りを嗅いだり小鳥の囀りに耳を傾けたりもする。
もちろん、実際に花が咲いたり鳥が歌ったりしている訳ではないけれど。目に浮かぶ、耳に聞こえると、見る者に思ってもらうのだ。回転しながら身体を屈めて卵を拾って──朝ご飯の
米と水を火にかけたら──その演技をしたら──待っている間は裁縫だ。
このころになると、女の震える歌声のような
(ありがと!)
即興での舞に、即興での演奏。嬉しい心遣いだ。とはいえ合わせて舞うのは難しいから──では、止まった動きで魅せてみようか。
(椅子がないけど──頑張る!)
燦珠は、片足を軽く曲げて立つと、逆の足を浮かせてその上に絡ませた。
椅子にごく浅く腰掛けて、足を組んだような格好だ。
もちろん座面に体重を預けることはできないから、座っているという体を見せるだけ、軸足と体幹にかかる負担もすさまじい。ともすれば震えてよろけそうになるけれど──耐える。あくまでも笑顔を保つ。
下半身で不安定な体制を保つ間に、上体で演じるのは布を
両手を掲げて刺繍の出来栄えを見て、首を傾げたり微笑んだり。ぴんと手を伸ばして、糸を引っ張る演技を見せて。糸を歯で噛んで断つ仕草の時に、月琴が
もちろんその間も地に着いた片足は小揺るぎもしない。額に汗が滲んで、腹筋に刺すような痛みが走っても宙に座った姿勢を崩さぬ燦珠に、妃嬪の席から控え目ながら拍手が起きた。
(
演技ではない笑みを漏らしながら、燦珠はようやく立ち上がる。
首を巡らせた隙に殿舎のほうを見ようとするけれど、一瞬のこと、それに皇帝と妃嬪が纏く煌びやかな衣装や装飾は眩しい色の輝きとなって溶け合って、誰が誰やら分からなかった。まあ、感想なら後で伺うこともできるだろう。
(後は、最後の
そうこうするうちに、粥も煮えるころだ。もちろん、絨毯を敷いただけの舞台にそんな小道具はなく、燦珠が
彼女の意図を汲んで、楽の調子も早く軽やかに、
くるくると回り、跳ねて──皇帝の真正面に来た瞬間に、ぴたりと止まって
誇らかに張った胸は、即興の舞をやり終えた高揚と、激しい動きの名残で激しく上下している。息は苦しいし、胸がどきどきとして痛いくらいだし、全身の筋肉が悲鳴を上げている。でも──燦珠の胸を占める想いは、ただひとつ。
(ああ、楽しかった……!)
正式に演じることを許された。観客には、この国で最も尊い皇帝もいた。即興とはいえ伴奏さえあった。これが、本当の舞台。役者としての本当の喜び。なんて素晴らしく楽しいものだろう。
滴る汗を拭うこともせず、息を弾ませたまま、燦珠は長く舞台の真ん中に留まり続けた。
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