第2話 サリフォアの国
「ひやっっふぅぅぅぅーーーー! 楽しぃぃーーーー」
風が体を叩く。薄紫色の風景が後方に溶けるように流れていく。調整したばかりの反重力ボードの試運転だったが、私は調子に乗って加速し続けていた。
スキー場の下り坂を文字通り滑るように滑降する。今は夏で雪はないが、斜面は多少の雑草はあるものの十分に平坦で、試運転するには絶好の地形だった。速度計が無いから推測だが、時速で言えば二〇〇キロ近く出ているんじゃないだろうか。
ヘルメットがなければ目も開けていられないような風の抵抗。体は常に壁にぶつかっているような衝撃を受け、それを重力とボードの加速度でぶち抜いていく。冷凍睡眠から目覚めてから一年の間では、間違いなく一番のスリルだった。
「っとと! ブレーーーーキィ!」
あと約百メートルで千二百メートルの下り坂が終わる。どこまで加速できるかもう少し試したい気持ちはあったが、この辺でブレーキをかけなければ。
私はボードを進行方向に対し横にして前方に向けて傾け、反重力エネルギーの照射圧を最大にする。そして両腕を大きく広げて、十字架のような姿勢で抵抗を大きくする。体の前方で空気が爆発しているかのような衝撃。少しずつ速度が低下していく。だが――。
「あれ? ちょっとやばい、かも?!」
下り坂の終端にはかつてのスキー場の売店があるが、それがどんどん近づいてくる。速度はまだ下がり切ってない。これは……計算違いだった。
反重力ボードの照射圧はとっくに最大でそれ以上強くはならない。風の抵抗を増やそうにも腕は二本しかない。ジャケットを広げればムササビのように風を受けられるかもしれないが、今の速度でそれをやれば竜巻に舞い上げられた木の葉のようにすっ飛んでいくだろう。
「わーーーーっ! とまっ、止まってぇーーーー!」
叫んでも止まらない。無慈悲にも売店が近づいてくる。いや、近づいているのは私か。念のために売店のガラスの前に積んでおいたマットレスが目の前に迫る。
身を丸め、砲弾のように私はマットレスの山に突っ込んだ。ぶつかり、砕ける音。天地が分からなくなる。
――叩きつけられ、二回転ほどしたような。柔らかいものの上に落ち、その後転がって私は床に放り出された。
「あ……あぁ……生きてる……っぽい?」
よろよろと立ち上がると、念のために身につけていたホバーバイク用の耐衝撃スーツが起動していた。クッション材が膨らみ、手足や頸椎や腰などを保護している。これが無ければどこか折れるかしていたかもしれない。私は膨らんだスーツの耐衝撃モードを解除して元に戻し、売店の中の惨状を確認した。
壁一面のガラスは見事に粉砕され、クッション材として置いたマットレスと一緒に売店の中に散乱している。壁や置いてあるソファはサリフォアで汚れているが、荒らされた形跡はなかった。
心地よい風が通り抜けた……また一つ施設を破壊してしまった。
「とんだテヘペロ案件ね……スピードの出し過ぎには注意、っと」
私は背中をさすりながら反重力ボードを探す。金具でブーツに固定されていたが、衝撃ですっぽ抜けたらしい。うろうろと探していると、ボードは壁に刺さっていた。それを力を入れて引っこ抜く。
「壊れては……なさそうね。さすが軍で開発しただけはある」
ボードに着いた埃を手で払う。ふと視線に気づき売店の奥に目をやると、そこには死体があった。二体。表面に乾燥したサリフォア痕がある。
ミサイルの後でここに逃げ込んだのか。あるいはスキー場の冬季営業に向けて準備をしていた人たちだろうか。寄り添うではなく一人分の間隔を空けて座っている。親しい人同士ではなかったようだ。しかし争った形跡はない。
死体を見るのにはすっかり慣れてしまった。大抵はサリフォアに汚染され冬虫夏草のような状態になっているから、生々しい死体というのではなく、しおれたり乾燥したような、半分ミイラのような死体が多い。自分でも意外だったが、気持ち悪いとか怖いとか感じることはなかった。ただ、何だかさみしいような気持ちになり、時折自分だけ生き残ってしまったことの意味を考えてしまうことがあった。
これまでにも何度か、見つけた死体を埋葬することも考えた。しかし国全体で言えば約四千万人分の死体がある。家で仲良く死んだ家族。避難所で死んだ何百人もの人達。道路上で孤独なまま行き倒れた人もいる。私一人で埋葬するには数が多すぎた。
それに、ミイラになっているから顔で識別することも出来ない。せめて友達だけでも埋葬しようかとも思ったが、どれが誰なのか分からなくなりそうで怖くてやめた。思い出の中の友達の笑顔がミイラになってしまいそうで、それが恐ろしくて埋葬するという考えは捨てた。
「……さて、と。試運転ついでに動物探し、してこようかな。ランディは……あ、来てる! おーい、ランディ!」
散乱したガラスやマットレスを踏み越えて、ぶち破った壁ガラスの所から外に出る。スキー場の斜面の上の方、二〇〇メートルほど向こうに白い塊が見えた。粘菌禍を生き抜いた幸運な犬、ランディだ。
サリフォアは特に人間に対して有害だが、哺乳類全般に対しても同様に有害だった。しかし犬だけはいくらか毒性が弱まるようで、数万分の一の確率で生き残る事が出来た。と言っても抗生物質を打った私のように完全にサリフォアを無効化するというのではなく、体内でサリフォアが繁殖しても死ぬことはないという状態だ。それはギマリの状態に似ていて、体内でサリフォアが定着しているということらしい。一種の寄生ということだった。
坂を下ったランディは私に駆け寄ると尻尾を振って鼻を鳴らした。ランディはチワワだがでかい。ゴールデンレトリーバーのような大型犬くらいのサイズだ。それは恐らくサリフォアの定着による副作用なのだが、本人はいたって健康の様なので問題はなかった。
「おーよしよし! じゃ、次はお前の仲間を探しに行くぞ!」
ランディは言われたことを理解しているのか、一際強く鳴いた。
その日の探検を終え防衛研究所に帰ると、ちょうど日が暮れようとしていた。橙色の光に目を細める。この時間だけは、薄紫色になった世界を見ずに済むから、一日の中でも一番好きな時間だ。朝は朝で同じようなものなのかも知れないが、私は夜型人間なので朝日を拝めた試しはなかった。
防衛研究所に帰ると、いつも積み重なった瓦礫に向かって手を合わせる。
「ただいま。お母さん、お父さん」
しゃがんで瓦礫に向かい手を合わせ瞑目する。この時ばかりはランディも空気を読むのか、ふんふんと鼻を鳴らすのをやめ、少し下がったところで伏せるなどして待っている。
「……さ、行くよ、ランディ」
待ってましたと言わんばかりにランディは体を起こし、私の左手に頭をこすりつけてくる。私はやや乱暴にランディの頭を撫でまわし、着替えるために自分の部屋に向かった。
汗を流し服を着替えてさっぱりとしたところで、私は夕食をとりに食堂に向かった。食堂とはいっても実際には会議室で、備蓄食料の倉庫に近い部屋で食事をとっているだけに過ぎない。
今日の献立は何だったか。カレーか、チンジャオロースーか、筑前煮か。全部で四〇種類あるが、一年以上たつとどれも食べ飽きてしまった。それでも食べられるだけありがたいので、文句を言わずに我慢している。それに、生きているのは私とギマリだけなので文句を言ったところでどうにもならない。
「げっ……いるのかな」
食堂のドアの隙間から僅かに光が漏れていた。時計を見ると午後七時半で、ギマリは普段この時間には食事はしない。それでもいるという事は、私に何か言いたいことがあるという事だ。そして大抵の場合、その内容は私への小言だ。
ドアを開けて食堂に入ると、案の定ギマリがいた。電気の消し忘れで無人かも知れないと思ったが、あの几帳面なギマリが電気を消し忘れる訳もない。部屋に漂うのはインスタントコーヒーの香りで、本を読みながら私を待っていたようだ。
「遅かったな、リテア」
言いながらギマリは本にしおりを挟みテーブルに置いた。
「えっ? うん……まあちょっと遠くまで行っていたから……さ、今日のご飯はなーにかなー?」
目を合わせないように隣を通り過ぎようとするが、ギマリは構うことなく言葉を続ける。
「日中に遠出をするなと言っただろう? スキー場の近くまで行ったな? まさか、本当にやったのか、あれを?」
「えっ、あれって?」
私はすっとぼけながら冷凍庫から箱を適当に一つ選んで取り出す。チャーハンとシュウマイのセット。まあまあの当たりだった。
「反重力ボードだ。持ち出したのは分かっている……あれはまだ制御システムに未完成の部分がある。危険だから使うなと言ったのに……それに大体、軍の管理区画には入るなと言っただろう。適切な管理を受けていない兵器はいつ誤作動を起こすか分からない。サリフォアに汚染されていなくても十分危険なんだ」
「え~? まあ何とかなったからいいじゃん。レンジでチン、と」
箱に書かれた時間をセットして待つ。だが、ギマリは待ってくれないだろう。私は開き直ることにした。
椅子に座り頬杖をついてギマリに答える。
「だってさ~眠らせておくなんてもったいないじゃん? 使えるものは使わないと。ギマリだってそう言ってたじゃん」
ギマリは私を見ながら、溜息と一緒に言葉を吐き出した。
「生きる為に必要な物はそうだ。発電機、浄水器、自動工作機械、調薬装置……反重力ホバーボードは違う。遊びに使うな。骨折でもしたらどうする。医療AIがあっても、私自身には医療の知識はないんだぞ……」
「分かってるよ。だからちゃんと保護スーツも着たし、ゴール地点には緩衝材も置いた。大変だったんだよ? マットレス十枚も運ぶの」
「努力の方向性が間違っている。それに、動物探しはやめろと言っただろう。危険な動物がいたらどうする? チワワであのサイズなんだから、大型犬なんてライオンのサイズになっているかもしれない。襲われればひとたまりもない」
「だから、分かってるって! ちゃんと熊用の催涙スプレーは持っていったし、囮用のジャーキーとかも用意していった。ま、結局何も見つからなかったけど」
「まったく……」
ギマリを息をついてコーヒーを飲んだ。しかし、まったく、なのはこっちの台詞だった。いちいち心配性なんだから、まったく。
「どうせ、生きてるものなんていないよ。ランディは生きてたけど……奇跡みたいなもんなんでしょ? あたしみたいに。人はいない。動物もいない。サリフォアばっかりのクソみたいな場所……」
「……それでも、イ国はまだ諦めてはいないようだ。偵察ドローンが月に一度は飛んでいる。恐らく衛星でも監視しているだろう。日中の行動は避けろ、いいな?」
「はーい」
私は返事をしながらレンジの方へ振り向く。表示されている残り時間は三分。私は一秒ごとに減っていく残り時間を見つめた。
粘菌禍……ミサイルによる攻撃から一年が経っていたが、ナ国の事はすっかり世界から忘れ去られているようだった。ラジオを傍受して聞いていたが、最初の一か月くらいは色々報道もあったが、やがてその頻度も減り、この半年はナ国のナの字も出てこない。世界は冷淡だった。
元凶のイ国はと言えば、ナ国が敗北を確信し自殺的な暴挙に出たと喧伝していた。いくら何でも無理があるだろう。ミサイルの航跡を確認すればイ国から発射されたことは一目瞭然だ。しかしイ国の中ではそれでまかり通り、ナ国は自爆して終わったという事だった。
そのナ国の国民を救助しなければならないとかなんとか言っていたが、サリフォアによる侵食度合いはイ国の想定を超えていたようで、入ってきた車両などもサリフォアに汚染され機械トラブルを起こし撤退を余儀なくされていた。現在でも国境付近はまだサリフォアの繁殖が活発のようで、それは防壁のように機能している。
それでも時折、ギマリが言うように偵察ドローンが空からやってきてぐるぐると飛び回っていることがある。
サリフォアの活性状態を確認しているのか。それとも生存者を探しているのか。今でも夜になると街のごく一部では電気がついているが、それは住宅の太陽発電によるものらしい。最初は私もそこに生存者がいると思ったのだが、単にタイマー機能で灯っているだけで中の人は死んでいたり、あるいは無人だったりと、生存者を見つけることはできなかった。
灯火管制ではないが、食堂は明かりをつけても外から見えないようにガラスに段ボールを貼っている。私の部屋やその他使用する場所は全部そうしてある。だから夜にドローンが防衛研究所を観測しても、光は見えないだろう。しかし熱反応は消せないからあまり意味はないのかも知れない。
イ国は何を探しているのだろうか。私とギマリが生き残っているという事を知っているのだろうか。知っていたとしても、今更私達にはどうすることも出来ない。
いくつかの兵器は現在も動かせるし、ミサイルも撃てる状態にある。だが仮に、それでイ国を滅ぼしたとして何の意味があるのだろうか。ナ国の人達は死んでしまった。復讐しても生き返ることはない。ただ単に更に死人が増えるだけだ。それはとても空しい行為に思える。
レンジが電子音を発し停止した。開けるとチャーハンの匂いが漂うが、あまり食欲はわかない。もっとさっぱりしたものの方がよかったか。
日中の行動は避けろ? ギマリの言葉が胸に引っかかる。それはいつまで気を付ければいいの? 残り時間はどこにも表示されていない。
振り向いてテーブルに箱を置くと、ギマリはもういなかった。私がぼうっとしている間に出ていったらしい。
私は開きかけた口を閉じた。小言を言うだけ言って、ギマリは帰ってしまった。私が何か言いたいときは、どうすればいいのだろうか。だが自分でも何を伝えたいのかよく分からない。ずっともやもやした感情が渦巻いている。
自分が何故生きているのか。何故食事をし、風呂に入り、毎日を生きているのか。このサリフォアまみれの狭い世界で、私は一体いつまで生きればいいのか。
チャーハンを付属のスプーンで食べる。美味しいが、食べ飽きた味。
前に食べたのはいつだったろうか? ひょっとすると、前に食べた時からの時間と言うのは全部夢で、私はずっとここに座っていただけなのかも知れない。そんな事を夢想した。胃がもたれそうだった。
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