あなたと世界を巡るために
登美川ステファニイ
第1話 目覚め
私たちの国であるナ国と、隣国のイ国との戦争の始まりがいつなのか定かではない。私が生まれた時にはもう泥沼の状態で、国境付近で延々と一進一退を繰り返し、時折国内で散発的なテロが互いに起こり、死が日常のものとなっていた。歴史書を紐解けば始まりを知ることはできたのだろうが、私が知りたいのは戦争が終わる時だった。だがそれはまだ、どのページにも書かれてはいない。書かれる予定もなかった。
私たちは怯えながら暮らし、それでも束の間、笑いながら生きていた。家の中で。公園で。森で。美術館で。病院で。完全に安全な場所はどこにもなかったが、私達ナ国の国民は恐怖や苦痛に順応し、笑顔を作ることでこの戦争に耐え続けていた。そしてそれは、きっとイ国でも同じことだったのだろう。だがあの日、全てが変わり、終わってしまった。
「――お母さん! お父さん! いや――」
自分の叫び声で目覚めた。炎。瓦礫。血。いくつもの腕。青白い照明。防護服を着た大人たち。恐怖。ない交ぜになったイメージが脳裏に浮かんでいたが、それは意識の覚醒と共に霞のように朧気になっていく。
目の前には白い天井があった。ついさっきまで……確か……そう、防衛研究所にいたのだ。ミサイル攻撃で建物が崩れ……母さんと父さんは死んだ――死体は見ていない。でもあの瓦礫の下で生き残っていたとは思えなかった。
私は荒い息をつきながらゆっくりと体を起こす。鼻にはチューブが入れられ、左腕には点滴が刺さっているようだった。そして……両手足は革ベルトで拘束されている。それでも上体を起こせる程度には余裕があり、私は今さっき見ていた悪夢……違う。現実に起きた惨劇をぼんやりと反芻しながら部屋を見回した。
ここは病院のベッドだろうか。室内には医療器具のようなものがある。手術用の台らしきものもあるし、その周りには金属のバットが置かれ、鉗子やガーゼなどが置かれてあった。
メスがあればこのベルトを切れるだろうかとも思ったが、残念ながらメスもハサミも、刃物らしいものは見つからなかった。
壁際には洗面台があり、レントゲン写真を見るための白い照明台もある。棚のガラス戸の内部には色々な薬品が並んでいる。患者用の病室と言うよりは手術室か何かのように思える。だが問題は、なぜ自分がこの部屋にいるのか、何故ベッドに拘束されているのかという事だった。
誰かに捕まったのか……そう、戦争をしていたのだ。撃ち込まれたミサイルは当然イ国のもので、それで母さんと父さん、その他にも大勢の人が死んだはずだ。国全体で言えば何万人……もっとだろう。分からない。それで私は……逃げた。そうだ。少しずつ思い出してきた。溶けた氷の中で固まっていた血の欠片が、滴る水滴と共に赤い尾を引くように、ぽっかりと空いた頭の中に記憶が溶け出していく。
両親と私は避難するために防衛研究所に来ていた。しかし両親は死に、私だけが冷凍睡眠カプセルに入れられた。弟のイドゥリは……どうなったんだろう。同じようにカプセルに入れてもらえていれば生きているはずだった。小学校から避難しているはずだったが、私が防衛研究所に着いた時点では行方知れずだった。
左を向くと私の心拍数などを測っている機械が見えた。鼻にチューブが入っているから酸素も送り込まれているのだろう。心拍数らしき数字は一一五。少し高い……悪夢のせいだろう。いや、悪夢ではないのだ。現実……死んでしまった。母も父も、恐らくイドゥリも……。
ノックが聞こえた。三回。突然の音に私はビクリと体を震わせた。機械に表示された心拍数が上昇しているのが見えた。
私が何も反応できずにいると、もう一度ノックが聞こえた。
「失礼するよ」
男性の声が聞こえ、ドアが内側に開いた。暗い廊下から現れたのは男の人……四十歳くらいだろうか。黒い髪に白髪が混じっている。不精髭があり表情も少しやつれているが、その目だけは何だか爛々としていて不気味に思えた。
白衣を着てはいる。医者……だろうか? 何も分からなかった。分かるのは、この男が私をベッドに拘束したのだろうという事だけだった。
男は無表情のまま私に近づき、一メートルほどの所で足を止めた。私は思わず後ろに下がろうとしたが、左足の革ベルトがそれ以上の後退を許してはくれなかった。
「私はギマリ。防衛研究所の技師だ。君を拘束したのは、記憶の混濁が生じた場合暴れる可能性があったからだ。冷凍睡眠からの解凍後はそういう症状が出やすいからね……リテア・キザラさん、自分がなぜここにいるか覚えているかい?」
技師……医者ではない? 医療系の技師という事だろうか。暴れる可能性があるから拘束した……分からないではない理由だった。私はどうやら、冷凍睡眠から目覚めた直後らしい。全然時間の感覚が分からないが……それより問題は、この男が拘束を解いてくれるかどうかだった。私は男の質問に答えることにした。
「……ミサイル攻撃が始まって避難してた……それで、私の両親は死んで……私だけがカプセルに入れられた」
「そうだ。何故カプセルに入る必要があったか覚えているかい?」
男、ギマリさんは眼鏡のブリッジを指で押し上げ、まるでテストするかのように私に聞いた。
「それは……」
何故だっただろうか。記憶を探る……すぐに思い出した。
「粘菌……毒性のある粘菌がミサイルでばら撒かれて、それで私たちは……逃げようとした。カプセルに……」
「そうだ。好人類型特異粘菌、サリフォア。こいつのせいで我々の国は滅んだ……」
ギマリさんはどこか寂しそうに言った。国が滅んだ……? つまり、戦争に負けたのか? 私が寝ている間に?
「一体……あれからどうなったの? 何日経ったの? 戦争は……続いてるの?」
「見てもらうのが一番早いだろう……」
ギマリさんはそう言うと、窓側に移動してブラインドの紐を引いた。ブラインドは上に上がり、外の景色が見えるようになる。
街が……薄紫に覆われていた。まだらに、所々コンクリートの地肌が見えているが、どの建物も、道路も、街路樹も、薄紫色のものに覆われていた。青い空の下に、何か突拍子もないような光景が広がっていた。
「サリフォアが……こんなに……?」
薄紫色のものは全てサリフォアだ。粘菌がありとあらゆる所で増殖し……街を覆っていた。サリフォアは特に人間に対し有害だが、その他の動植物にとっても有害だ。そして水分や栄養が微量でも存在すれば、ビルの外壁のような場所でも苔のように増殖する。それはニュースでも聞いたし実際にそうなっている街の映像も見たが……それでもここまで広範囲ではなかった。街だけではなく遠くの山も同じように薄紫に見える。正常な土地などどこにもないように見えた。
「君は二か月間眠っていた。その間に我が国は滅んだ。国民も、自然も、家畜も、ペットや川の魚も。一部の昆虫は影響を受けないそうだが、残っているのはそのくらいだろう。人間で生き残ったのは私と君だけだ」
「えっ……? 他の人は……? カプセルには何万人も、他にもいたはずでしょ?!」
狼狽する私を尻目に、ギマリさんは窓の外を見つめながら答えた。
「サリフォアは本来無菌であるはずのカプセルルームにも侵入してしまったんだ。ミサイルで建物が損傷してしまってね。そしてカプセルの内側にまで侵食し……睡眠中の人は粘菌に汚染され命を落とした」
「そんな……他の人は全員死んで……!?」
その中にイドゥリはいたのだろうか。私以外全員死んだなんて……とても信じられなかった。急遽作られた施設だとは聞いていたが、そんなにも脆弱だったなんて。
「戦争は……終わったの?」
「休戦中の扱いだ。イ国も粘菌のせいで我が国に侵攻することはできなくなったが……我が国の宰相との直接的な折衝が不可能だから、正式に終戦とすることもできないそうだ。実際にはとっくに死んでいるわけだが……敗北には違いない。徹底的な敗北だよ。国民も、国土も失った」
「国が……全部粘菌に? 全部こんな風になっちゃったの?」
私は窓の外の光景をもう一度よく見る。全てが……薄紫色に包まれている。おぞましい色。ブクブクとあぶくが湧いたような丸い膨らみがそこらじゅうで増殖している。自分の体の中からも、あの薄紫色の粘菌が湧いてくるような気がしてくる。
「一つだけいい知らせがある。君は抗生物質によりサリフォアの影響を受けない」
「抗生物質?」
「そうだ。この二か月の間に残っていた医療設備を使ってなんとか開発することが出来た。本来ならカプセルに入っていた人全員に投与する予定だったが……結局君だけだ」
「……そう、ですか」
サリフォアは粘菌。抗生物質は菌の代謝を阻害するものだから、同じようなものなのだろうか。私は死なない……それはもちろんいい事だったが、国が滅び国民も全員死んだという知らせの後では、何を聞いても心には響かなかった。
「……あなたはこの二か月、ずっと起きていたの? 抗生物質を作るために?」
ギマリさんは感情のこもらない表情で答えた。言い知れない疲労感がギマリさんの内側にあるように見えた。
「そうだ。幸い、二か月前の時点で試作品はできていたからね。私はそれを投与することで生き残る事が出来た。一応……だが。他にも十人ほど仲間がいたが、彼らは残念なことにうまく効かずに死んでしまった」
「一応って……何か問題があるんですか?」
ギマリさんは私の方を向いて答えた。
「粘菌の毒性を押さえることには成功したが、殺すことはできなかった。彼らは私の体の内部に定着してしまったんだ」
そう言うと、ギマリさんは左目の下瞼を指で押し下げた。見えたのは内側の肉……赤に交じり薄紫色の斑紋が見える。
「定着って……体の中に入りこんでいるんですか……?!」
背筋が総毛立つのを感じた。まるで……宇宙人にでも寄生されているみたいだった。
「寄生されているようなものだ。おかげで私は、逆にサリフォアのいない清浄な空間では生きられなくなった。しかし幸い、それ以外の大きな健康上の問題は今の所起きていない」
ギマリさんが力無く微笑んだ。それは私を安心させるためだったのかも知れないが、マッドサイエンティストがほくそ笑んでいるようにも見えて、私は余計ドキドキしてしまった。サリフォアのいないところでは生きられない? それではまるで、粘菌そのものではないのか。
ひょっとして私の体内にもサリフォアが? 無意識に鏡を探す。洗面台にある。駆け寄って自分の瞼の下を確認したい気持ちになるが、手足を拘束する革ベルトはまだそのままだった。
「安心したまえ」
ギマリさんはそう言いながら、私の右足の革ベルトを緩め取り外した。続けて右手の革ベルトも。
「君はサリフォアには侵されてはいない。完全な抗生物質を投与したからね。君のカプセルは奇跡的に汚染されていなかったし、君は清浄なままだ」
「そう、ですか……」
また、どこか気のない返事で私は答えた。
自由になった右手で私は顔をさする。清浄だと言われても実際に自分で見てみるまでは安心できなかった。
「……これからどうするんですか?」
「どう、とは?」
ギマリさんは私の革ベルトを全て外し、次は鼻のチューブを外した。私は促されるままに体を預けた。
「国がなくなって……でも休戦って、戦争は終わってないんですよね? またそのうち攻めてくるんですか?」
「可能性はあるね。しかし……粘菌は奴らの予想を超えてこの国に広まってしまった。例え人間に抗生物質を投与したとしても、こんな状態ではまともな生活はできない。奴らが欲しかったのは領土だが、結局自分たちで台無しにしてしまったんだよ、イ国の馬鹿どもは。だから、粘菌が死滅するまでは侵攻してこないだろう」
「死滅って……どの位かかるんですか?」
点滴の針を抜きながら、ギマリさんが答えた。針を抜いた所からは赤い血がうっすらと滲んでいた。その色が薄紫色でなかったことに、私は安堵した。
「死滅までの時間は不明だ。実験室で色々試してみたが……粘菌は一般的には直射日光や乾燥に弱いらしいが、サリフォアは光を浴びても活動が弱まらない。表面の粘膜で乾燥にもかなり強いようだ。これから秋で日差しは弱くなる……サリフォアがどういう反応をするのかは分からない」
「戦うんですか、私達……?」
「戦う? イ国の軍隊とかね?」
「はい。戦争……残っているのは私達だけなんですよね?」
「国外には避難していた国民もいるようだが……今国内にいるのは私と君だけだ。どこかのシェルターで生き残っている人もいるかも知れないが……望み薄だな。たった二人で戦争はできない。その時が来れば逃げるしかないだろうな」
「逃げる……」
窓の外を見たが、いったいどこへ逃げればいいのか見当もつかなかった。私はサリフォアの毒性を無効化できるらしいが、逃げたとしても、そこで生活はできないだろう。
ギマリさんのいう事が正しいなら、国中が汚染されている。綺麗な飲み水さえ手に入れられるかどうかわからない。
どこかのスーパーに行けば保存のきく缶詰だとかは手に入るかもしれないが、畑を耕して作物を作ったりするのは無理だろう。何せサリフォアは植物に対しても毒性がある。適した土壌があればその内部にも広がっていくし、それを清浄化しなければ作物は手に入らない。土中に網状に広がっていく粘菌……そんなものをどうやってきれいに除去すればいいのだろうか。全部焼く以外の方法が思い浮かばなかった。
「当面は自分の体調だけ考えたまえ。絶望的な状況に思えるかもしれないが……生きているなら希望はあるだろう」
「はい……」
主観的には、数十分前に両親が死んでいる。二か月の時間には全く実感がわかない。弟も恐らく死んだのだろうが、悲しみは湧いてこなかった。何もかもが唐突だった。
いつの間にか私の世界は薄紫色の斑紋に覆われ一変していた。でも、それが私の生きなければならない世界だった。
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