おまけの話 氷の騎士、添削する (※44話)
前りゃく
私フィオーレわアイセル君の不実おフフクとし、こん約おハキします。
ばいしょおとして、馬一頭もらっていきます。
さよおなら。
以上
フィオーレ
ノストリアから戻り、フロレンシアの領主の執務室に残されていた「婚約破棄」のメモを改めて見て、アイセルはぷっと吹き出した。
ノストリアで発行された結婚の証明書を魔法鍵のついた棚に片付けていたフィオーレは、アイセルが何に笑っているかに気がつき、
「あっ」
と叫んで取り上げようとしたが、アイセルはそれをさらりとよけ、
「うーん、どこから突っ込んでいいのか」
そう言いながら、手にしていたペンの軸先を口に当てた。
「まず、この書類が何なのか書かなくちゃ。婚約破棄のための書類なら『婚約破棄申入書』とか、『婚約破棄通知』とか。でないとこれが何だかわからないよね」
メモをした紙の上の空間に、タイトル、と書かれた。
「こうした文章には日付は大事だよ。一番新しいものが有効になるからね」
紙の左上に線が引かれ、日付、と書き込まれる。年、月、日。日付は空欄のまま。
「添削してるのか?」
執務室に入ってきたライノが、そのメモを覗き込んだ。
「おまえ、王家の嫁になる予定だったんだろ? これくらいの文書の書き方くらい、習ってないのか?」
呆れたように言うライノに、フィオーレは
「習ったのは、『一切サインはするな』ってことだけ。どんな紙を見せられても、私が署名してはいけないって」
と答えると、
「王もわかってるな…」
ライノもアイセルも、深く納得していた。
「助詞は少し特殊なんだ。『わ』、じゃなくて、『は』」
横から伸びてきた手が修正を入れる。
「婚約お の 『お』 は 『を』 だ。婚約という名詞に係るこれだな」
間違いは横線で消され、正しい文字が書き加えられた。
「書けないのは、簡単に書いてもいいんだよ。だけどそれも間違えてるのは…」
ばいしょお の お も線で消され う と書き足された。
さらには 賠償 と正しい表記が。
「『前りゃく』はないよな」
「うーん、手紙じゃないから、前置きはいらないしね」
線が引かれ、 不要 と書きながらも、 『前略』と正しい表記に直され、丸がつけられて、手紙を書くならOK、 と説明まで書き込まれている。
「こういうときに、『アイセル君』、はないな。相手のフルネームで書かなければ、この世のアイセルと名のつく者がみんな対象になってしまう」
「君をつけるのは、アイセル君だけだもん」
フィオーレが反論すると、
「確かにそうだね」
そう言って、アイセルは笑って「君」を丸で取り囲んだ。
「僕の名前、書ける?」
「…書けるよ。…」
フィオーレは手を伸ばし、アイセルから渡されたペンを手に取ると、豪快な字で名前を書いた。
アイセル アイスバグ
惜しいスペルミス。
「…フィア。君は、フィオーレ・アイスバーグになったんだよ。ちゃんと書けるようにならなくちゃ」
アイセルは、フィオーレが書いた名前の下に、もう一度自分の名を書き、更にその下に
フィオーレ アイスバーグ
と書き添えた。
二つの名前が並ぶのを見て、フィオーレはちょっと恥ずかしそうに
「…書けるように、ならなくちゃ」
とつぶやき、別の紙をもらって何度も、何度も、自分の名前、そしてアイセルの名前を綴っていった。
アイセル アイスバ…ーグ
フィオーレ
アイスバーグ
アイセル アイセル アイス アイスバーグ アイス バーグ
フィオーレ アイスバーグ
フィオーレが自分と同じ家名を書けるよう練習しているのを横目で見ながら、アイセルは自分の人生で最大のピンチだったこのメモさえも笑えるようになったことを奇蹟のように感じた。
さよおなら
「お」、だけでなく、「さよおなら」全体を線で消し、苦いながらもいい思い出になるだろう、とそのメモを書類棚にしまった。
「馬を連れていかなかったこと」が婚約破棄が成立しなかった一番の要因であることは、この先もフィオーレに語られることはなかった。
花の魔女と氷の騎士 河辺 螢 @hotaru_at_riverside
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