第24話 氷の騎士、フロレンシアに戻る
しばらくその場で頭を巡らせていた。
考えろ。考えろ。今の状況から答えを導き出せ。
こんなにも冷静になれない自分に驚いた。地下に閉じ込められ、水攻めにあった時でさえ、もっと頭が動いていた。
誘惑する魔法に抗ったのはいつだ。抗い切れていなかったなら、どれだけ騙されていた? フィアだと信じて、自分を騙した女と何をした?
最後まではいっていない。それは自分でもわかっていた。抱きしめた時の匂いがあまりに違った。かすかでも染みついた毒の花の匂い、香の匂いはごまかせない。ずっと本物を探し求めていた。フィアを求めて、ずっとさまよっていた気がする。
ついさっきまで腕の中にいた本物のフィアを思い出しただけで、抜けたと思った毒が欲望を押し上げ、熱くなる体。頭がおかしくなりそうだ。
今フィアを追いかければ、そのまま押し倒してしまいそうだった。目の前で別の男の胸で泣いているなら、その目の前で男を殺して連れ去り、そのまま思いを遂げたくなる。悲鳴を上げても、その悲鳴まで食い尽くしてしまいたいほどの獰猛な思いがこみ上げてくる。
フィアを思い出しただけで、弱まっているはずの呪いが湧き戻る。薬が完全に抜けるまでフィアに近寄ってはいけない。本物だからこそ。本当に探していた、フィアだからこそ。
青い花の光が少しづつ消えていき、林の中に闇が戻ってきた頃、ようやくいつもの自分に近い状態になったような気がした。
そこから更に時間を費やし、うっすらと木々が闇の中から姿を浮かべるようになった頃、自分に与えられていた家に戻り、荷物を持って捜索隊のテントを訪ねた。
フィアはもういなかった。
怒ってそのままフロレンシアに帰ってしまったと、パウロから聞いた。
パウロは、あんなかわいい子を泣かせるなんて、と怒っていた。パウロはこの捜索隊で初めてフィアを見たはずだが、フィアのことを気に入っているのはすぐにわかった。
今は何も言わない。しかしこの後、フィアを取り戻した後でも手を出すようなら、容赦はしない。励ますためでもフィアに触れやがった…。怒りを抑えるのがやっとだった。
ウーゴとレオンが現れたところで、現状を確認した。
草原の集落の調査に来て戻らなかったのは、自分を含めて五人。うち二人は戻ると決め、一人は草原に残る。もう一人は今日回答に来る予定。そしてアイセル自身は、戻ると決めている。
自分の身に起こったことを、覚えている範囲で答えた。
一番にここから離れたダニロでさえ、虜になったことは覚えていても、その間にしたことは覚えていないようだった。
ウーゴが疲れに効くから、とお茶を渡してきた。
一口飲んで、煎れたのはウーゴでも、そのお茶を用意したのがフィアだとわかった。家でも出してもらったことのあるあのお茶だ。
全て飲み切り、霧が晴れるかのようにクリアになる頭に、あの毒花や香の毒消しの作用があることを実感した。
「初めにダニロについて行って魔女と交渉した時、変な感じがしたんだ。頭がモヤモヤとして、集中力がなくなっていった。でも何とかここまで戻ってきて、フィアに入れてもらったお茶を飲んだ途端正気になり、何か仕掛けられていたってはっきりわかった。それで、ここに残った連中に事情を聞く時にはフィアに頼んでお茶を入れてもらったんだ。案の定、みんな正気になっていったよ」
アイセルは話を聞きながらも、不機嫌そうにウーゴを睨み付けていた。自分だけに許されていた「フィア」の呼び名を捜索隊の誰もが使っている。ウーゴがその名を口にするたびにぴくりを眉を動かすのをウーゴは気づいていたが、
「フィア自身が、ここではフィアと呼んでほしいと言ったんだ。他の女とよろしくやってた奴に怒られる筋合いはない」
とぴしゃりと言われても、睨むことをやめられなかった。
ウーゴとアイセルは長い付き合いだった。氷の騎士とうたわれ、何を考えているのかわからず、常に無表情だったアイセルが、花の魔女を知ってからその名に目を輝かせるようになった。フィオーレを連れて帰ってからはフィオーレのことになると笑顔を見せ、冷静でなくなり、独占欲を見せる。アイセルにとってフィアがどれだけ特別な存在なのかは言うまでもない。やれやれと溜息をつきながら、ウーゴは呼び名の真意を伝えることにした。
「草原の民に自分を知ってる者がいて、帰れなくなると困るから、フィオーレの名を使うのを避けたいって、あの子自身が言ったんだよ。ちょっととぼけたところもあるけど、しっかりしたいい子だ。…それを泣かせたのはおまえなんだぞ。わかってんだろうな」
普段見せない、恨むような拗ねるような顔をしているアイセルを見ながら、ウーゴは草原の花の魔女もずいぶんと罪なことをしてくれたもんだ、と思わずにいられなかった。
最後の一人が戻る決意を伝えに来ると、アイセルはウーゴと共に草原の花の魔女の元へ行った。
香の効果がないよう外に呼び出し、一人を除きここを去ることを伝え、残る者をいたわって欲しいと言うと、草原の花の魔女は、
「承知しました。お気をつけてお帰りください」
と笑顔を崩さなかった。まるで毒を盛ったことも、誘惑したことも、何もなかったかのように。
その笑顔こそ、恐ろしいと思えた。
これが毒花の魔女なのだ。
帰る準備をしていると、小さな女の子がアイセルの所にやって来た。
「氷の騎士様、帰っちゃうの?」
「ああ」
「フロレンシアのお姉さんも、帰っちゃう?」
「フロレンシアの…」
「うんと、フィオーレ、さん? 別のお兄さんがそう呼んでた」
その名前に、思わず手が止まった。
「フィアを、知ってるのか?」
「お水汲みしてて、友達になったの。お姉さん、泣いてたから元気出たかなって」
「泣いてた? …いつ?」
「昨日の夕方。花の魔女様と氷の騎士様がキスしてるの見て」
昨日の夕方。確かに、誰かの手を取り、その手に口づけをした。その後、見つめられ、フィアだと思って口づけたのは…
それをフィオーレが見ていた。その当日に本物のフィオーレを捕まえ、無理矢理口づけをして、氷の槍を喰らった。そして、あの大泣きだ。
アイセルは自分が何をしでかし、どれほどフィオーレを傷つけたのか、今更ながらに実感した。
「戻ったら、仲直りする。…絶対に」
子供相手ながら強い決意を込めて答えると、その子は笑みを浮かべ、内緒話をするように耳元で声を潜ませた。
「がんばってね。私、花の魔女様より、あのお姉さんの方が氷の騎士様に似合ってると思うよ」
教えてもらった内容は絶望的だったが、似合っていると言われたことに何よりの励ましを受け、アイセルはフロレンシアへ、フィオーレの元へ戻ることを急いだ。
戻る者達の準備に一日かかり、どんなに気持ちははやっても、馬の数は人数分なく、迎えに来てもらった手前、私用で一人先に行くことはできない。
途中、中継地となる街で馬を手に入れるとペースは上がったが、単騎であれば三日で戻れるところ、フロレンシアに戻ったのはフィオーレと別れてから六日後だった。
フロレンシアに戻ると、騎士隊に向かう他の仲間と別れ、すぐに家に向かった。馬を下りると、荷物もそのままに家に入ったが、そこにフィオーレはいなかった。
荷物を玄関に投げ入れると、すぐに領主の館に行き、兄のライノにフィオーレのことを知っているか尋ねた。
ライノから、フィオーレはフロレンシアにはいないが、行き先はわかっているから安心しろ、と言われ、まずは今回の件の事後処理を進めた。
全員の無事と、草原の集落に残った一人の経緯を王都への報告書にまとめ、これから王都まで戻る調査隊に託した。
草原の集落に残った一人は、フロレンシアの騎士だった。ウーゴが家族に連絡を取り、経緯を話すと、元々フロレンシアの東部出身で草原の民とは付き合いがあったようで、家族もさほどうろたえることはなかったらしい。
手紙には落ち着いたら家に挨拶に行く、と書いてあった。騎士の処遇はしばらく保留とし、フロレンシアに里帰りした時にでも退団の意思を確認し、それから手続きを取ることになった。
最後に領主であるライノに今回の調査隊の最終報告をしに行き、その後で見せられたものに呆然となった。
あまりうまくはない文字で書かれた、婚約破棄を綴った紙。
賠償が、馬一頭? それだけ?
直筆ながら、文章はたどたどしく、所々スペルミスもある。日付も入っていない。書類としては不備だらけだが、フィオーレの強い意志を感じた。
「あいつ、ここの魔法鍵、簡単に開けてったぞ」
「えっ」
以前、フィオーレと王都の書庫の話をした時、魔法鍵を開けることなど簡単だ、と言った。開けられると思わないから開けても気がつかない、と。まさにそれをされていた。
鍵を開け、中を確認したが、なくなっている書類はなかった。
「婚約の書類を探していたみたいだ。ないって怒ってた。ここにあるのか?」
「ああ…」
「見つかってたら、多分ビリビリに破られてたぞ。相当怒ってたからな」
婚約の書類は、他の書類に見えるよう秘匿の魔法をかけていた。さらに全ての変更を無効にしてあり、破いたところで復元できる。それでも相手は花の魔女だ。本気になれば魔法を解除したという自覚さえなく、粉々に破り捨てていたかもしれない。
秘匿の魔法を解けなかったのだろう。フィオーレに関する書類はまとめてあったのに、似せた別の書類の近くに紛れ込んでいた。
「…フィアは、どこへ?」
「ノストリアだ。じいさんがおまえの様子を聞きに来ていて、フィアを連れて一緒に戻って行った」
「ノストリア…?」
あまりにも意外だった。フィオーレが大人しく祖父に着いて行こうとは。
「やけになっている時に一人になるなって言ってな、落ち着かせていたよ。じいさんがいなかったら、その日のうちにろくに寝もしないまま馬を走らせてフロレンシアを出て行ってたかもしれない。結構とぼけた子だったのに、あんな激しいところもあるんだなあ…」
激しい。フィオーレには似つかわしくない言葉に思えた。フロレンシアを守り、戦っていた時でさえ、すごいと思いはしたが,激しさは見せなかった。歯を食いしばり、ただひたすら必死に耐えていた。
「おまえが思っている以上に,おまえは気に入られてたんだよ。何とも思ってない相手に、あんなに怒ることはないだろ」
アイセルは拳を握りしめ、すぐにでも追いかけたい気持ちを懸命に抑えた。
「ノストリアへは、馬車で?」
「当たり前だ」
「じゃあ、うちの馬は置いて行ったんだな」
「…気付いてないだろうけどな。そこはじいさんも抜かりないさ」
フィオーレは、婚約破棄の賠償となる馬を持って行っていない。
不備だらけの婚約破棄の条件さえ満たしていない。
まだ間に合う。
祖父がくれたチャンスに感謝し、山のように残された仕事を急ぎ七日で片付けた。
仕事と並行してノストリアへの旅支度をしていたが、ノストリアの祖父から手紙が届いた。
祖父もフィオーレも無事にノストリアに着いていることが書かれ、さらにノストリアに来る道中にいくつか使いを頼むとあった。注文した物を取ってくるように、と。
こうもあちこち立ち寄らされると時間を詰めることもできないが、フィオーレを保護してくれている祖父の依頼であり、個々の行き先と用件を見れば行かない訳にはいかない。
野宿は諦め、途中で積む荷物を考えて少し持ち物を減らし、アイセルはフィオーレを追って、一路ノストリアへと馬を走らせた。
休暇の期限は、フィオーレを取り戻すまで。
眉をひそめたライノのことなど、見ない振りをした。
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