第23話 氷の騎士、本物に再会する
アイセルは草原の花の魔女の命を受け、草原の集落の東にある草原の国跡地と、その向こう、サウザリアの見回りを終え、五日ぶりに草原の集落に戻ってきた。
特に何事もなく、無事勤めを終えて戻ると子供達が集まってきた。
「氷の騎士様、おかえりなさい」
そう言って、途中珍しいことがなかったかと聞いてくる。特に何もなかったと言っても、ニコニコしながら後をついてきた。
おかえりなさい。
その響きを、心が求めていた。
頭の奥にかすかに響く声。
いってらっしゃい。気をつけてね。
そう言った人の影は浮かぶのに…、思い出せない。
しばらくすると、草原の花の魔女が供を二人引き連れて広場に出てきた。
「ご苦労様」
そう言って微笑みながら手を差し出す。小声で促され、その手の甲に口づけた。
草原の花の魔女は満足げに頷き、顎で軽く合図をした。自分を連れてみんなの前を歩くのだと。
アイセルが腕を差し出すと、魔女は更に満足した様子でこくりと頷いた。
そして、
「皆の前で接吻を。あなたの愛がこの私『フィア』に向けられていることを、集落の者に示すのです」
フィア、と言う響きと、近づいてきた草原の花の魔女の吐息に、世界が大きく揺らめいた。
フィア…。僕のフィア。
アイセルは迷うことなく草原の花の魔女に口づけた。
集落の者が草原の花の魔女とその愛を得た男に歓喜した。
しかし、アイセルは触れた唇から放たれる闇色の吐息に顔をしかめ、思わず氷の魔法で払いのけた。氷の結晶が草原の花の魔女の口に触れると、魔女は明らかに不快な顔をして、眉間にしわを寄せ、
「花に氷を当てるなど…」
と小声でつぶやいた。
違う。
めまいと共に拒絶が沸き起こる。頭の芯から発せられる痛みが、自分の中の何かを呼び起こそうとする。それを供の者が手にする香が邪魔をする。
「アイセル殿」
草原の花の魔女は自分の館の前まで来ると、人の目が切れたことを確認し、話しかけてきた。
「フロレンシアから、ここに残る調査隊の者と話をしたいと依頼がありました。あなたも明日、お国の方々とお話しなさいませ。…あなたはここに残ると、決めてあるでしょう?」
ここに残る。
おかえり、アイセル君。
頭の奥で声がする。笑顔で迎えてくれた誰か。それは、…誰だったか。
「あなたは『フィア』の元に残る者。…そうでしょう?」
ああ、そうだ。フィアの元に。
「もちろん」
口から出た答えに戸惑う自分がいる。何故だろう。
「よかった。…今夜もお越しになって。そして、今夜こそ…」
腕をなぞる指先に、ぞわりとした悪寒が走った。抗えない命令と、甘美な誘惑。それに抵抗する、もう一人の自分。
いつもの、ひどいめまいと頭痛が襲ってきた。
その日の夜、草原の花の魔女の館に行くと、いつもそばにいる供の者がいなかった。
三人でまとわりつかれるのがいつも不快だった。少しほっとした。
しかし、寝台に横たわり手招きをする魔女は、薄い夜着をまとい、なまめかしい視線を送ってきた。布は透け、ほとんど体を隠していないも同然だった。
「アイセル殿、こちらへ」
この部屋で焚かれる香がアイセルは嫌いだった。脳をかき乱す、嫌な匂い。
その場に立ち尽くし、少しも寄ってこないアイセルにしびれを切らせた魔女は、寝台から起き上がると羽織るものを肩からずらし、床に引きずりながらアイセルの元に歩み寄り、首に手を回して口づけた。
なお立ちすくむだけの男の服のボタンをゆっくりと外し、
「さあ、あなたの『フィア』を、あなたの意のままに…。思いとどまる必要はないのです。心のままに」
いつもより濃い香が、魔女の言葉だけをアイセルの耳に染みつかせる。
ゆっくりと動いた手が、素肌になった魔女の両肩を掴み、
「フィア…」
名を呼び一旦は引き寄せながら、手が止まり、しばらく固まった後、強い力で引き離した。
「…、違う…」
顔を目の前の女から背け、頭の痛みにじっと目を閉じると、まとわりつくものを振り切るように氷の魔法を発し、魔女の館を飛び出した。
三つ外されたボタンも留めることなく、あの館の香の香りから逃れ、あの口から放たれる吐息の毒の匂いから逃れようともがいた。薬によって与えられたとろけるような誘惑の妄想と、無理矢理沸き立たされる情欲。盛られた媚薬を完全に消しきれず、心を惑わせていく。自分の中に本物を求める思いがひたすら募ってく。自分が求める正解を。
逃げるように自分の家に戻ろうと通りかかった林の奥で、何かが光っていた。
大きな青い何かが、ほんのりと…
それが人だとわかったとき、あんなに激しい呪いへの抵抗も、頭痛も、めまいも、一瞬で吹き飛び、目を奪われた。
夜の闇に青く光る花、月光草と同じ光を放ち、その光は淡く、儚く、まるで幻のようだった。目の中に映る青い光の人の他は、全て頭から追いやられていた。探し求めていた本物さえも。
どうした訳か、心臓がいつになく激しく音を立てる。一目見ただけなのに心が引き寄せられる。
捕まえたい。この手の中に…
しばらく見惚れていたが、はっと我に返ればそれは侵入者だ。心を奪われている場合じゃない。あの香と魔女の毒のせいで惹かれているだけだ。これ以上惑わされるな。
いつでも抜けるように剣に手をかけ、ゆっくりと近づく。
何をしたのか、青い光が強まった。闇の中に浮かび上がる姿が自分をかき乱す。
捕まえたい。この腕の中に…
違う。捕らえなければ。相手は不審者だ。
すると、目の前で急に姿が消えた。
何かをかぶって姿を消したようだ。魔法を使えるのか。だがごまかされはしない。
光のあった方へと真っ直ぐ近寄ると、向こうもごまかしきれないと思ったのか、かぶっていたものを投げ捨てて走り出した。
充分追いつける速度だったが、急に魔法を使って幻影を放った。あれで注意を引き寄せて自分は隠れるつもりだろう。騙された振りをして、追いかける影を飛ばした。
案の定、くぼみに隠れて息を整えようとしているところを静かに近寄り、後ろから口を塞いだ。
「…大人しくすれば、何もしない」
捕らえたところにいきなり閃光を放たれ、一瞬手が緩んだが、頼りない肘鉄を食らったところで大したことはない。首に手を回して締め付け、大人しくさせようとしたが、陸に打ち上げられた魚のように暴れ、鼻に頭が当たり、その痛みに思わず手を放した。
しかし相手はよろけ、自分で転倒した。
もみ合いながら、体の上にまたがり、両手を押さえつけた。
そこにいたのは、年若い女のようだったが、認識阻害の魔法をかけているのか、顔がはっきりしない。
「女の子か…。何故こんな所に」
「ね、…眠れな、くて、さ、さん、…さんぽ、し、してたら…」
乱暴に捕らえたせいで怯えているのだろう。聞こえてきた声は想像していた声に近い。耳に優しく溶けていくようだ。なつかしいとさえ感じる。
「君は…」
…捕まえた。ああ、今、僕の手の中にあの青い光が…
心がざわめく。何かを思い出させようとする…
「きみ、は…、誰だ?」
「ふ、フロレンシアから、きた、調査隊を、探して…」
「ああ、フロレンシアの…。何だ、そうか」
明日会わなければいけない調査隊のメンバー。それならフロレンシアのどこかで会ったことがあるのかもしれない。
華奢な体に乗っていることがすまないと思いながらも、妙な興奮を呼び起こす。…駄目だ。
押さえつける手を緩め、体の上から退くと手を引いて立ち上がらせた。恐かったのか少し震えていて、よろめく体を支えた。
髪から、首筋から香る匂いを、知ってる。
そのまま背中に手を回し、引き寄せた。首筋に顔を埋め、その匂いに心が揺らいでいく。体がその首の高さを、肩を、背中を覚えている。軽く唇が触れた首筋も、頬に触れる耳も。心臓が鼓動を激しく打ち鳴らす。
「君は誰だ。この匂い、…知っている匂いだ」
抱きしめる力が増していく。強く引き寄せ、背中を撫でる。
「は、離して」
離さない。
「確かに知ってる。この匂い。…この高さ…、腕におさまるこの…」
懐かしい匂いを嗅ぎながら、首筋に唇を当て、ゆっくりと這わせる。
離さない。
捕まえた。僕のものだ。
心の奥に閉じ込めていたものが、触手を伸ばす。
薬で蓋を緩められた欲望が、今にもあふれそうだ。
「フィア-」
遠くで誰かが呼んだその名前が、解放の合図だった。
「フィア…?」
フィア。僕のフィア。フィアを自分のものに、…本物のフィアを…
これが、ずっと探していた本物だ。僕は、…思いを遂げていい。
ずっと押しつけられていた偽物じゃない。これが、これこそ僕の。
他の男の呼ぶ声に応えるなんて、許せない。
その唇が放とうとする言葉を唇で塞いだ。
花のように甘い唇を自分の唇で塞ぎ、言葉を飲み込ませ、あとは無我夢中で口づけた。甘い…甘い吐息。毒を含んだ苦い吐息じゃない。もっと欲しい。唇だけじゃない。全てが欲しい。
やっと会えた。僕の本物。僕の愛するフィア。僕だけの、
ようやく僕のものに…
より近くへ、いっそ自分ととけて一つになってしまうことを願い、力を込め、
吸い取られた氷の結晶、我に返ったのは発動しようとする魔法の気配を感じたときだった。
反射的に体が後ろに飛び退いていた。
自分がいた場所に刺さる氷の槍。
それは、僕に対する拒絶の…
「ばかっ! アイセル君なんか、嫌い!」
言葉と同時に頬を拳で殴られた。
吹き飛ばすほどの威力もない、それでも本気の一撃。
それ以上に痛みを感じたのは、嫌い、と言う言葉。
僕の名を呼ぶあの子が、怒っている。
…泣いている。
あれは、フィア、
…フィオーレ。フロレンシアで僕の帰りを待っている、僕の…
走って逃げていくその姿を引き止めたいのに、追いかけることができなかった。
ゆっくりと毒花の魔法が消えていく。あれほど振り払っても解けなかった、何度も重ねがけされた呪いがなくなっていく。毒々しい媚薬の香が、黒い毒の花の魔法が抜けていく…。頭痛が緩まり、めまいが軽くなり、少しづつクリアになっている思考。
…僕は、何をした?
遠くであの子の泣く声がした。
声を上げて、大声で。
それを受け止めている男がいた。
殺してやりたいほどの憎悪が湧いてくる。それなのに、動けなかった。
ばかっ
アイセル君なんか、嫌い
フィアが…、僕を、嫌い…?
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