第5話 羊肉のステーキ 前編

 港湾食堂は、今日も大盛況!


 沢山の人々がやってきて大賑わい!


 大きな窓からは港で働く人々の喧騒と活気のある声と共に穏やかな波の音が柔らかな日差しと共に食堂の中に入ってきて、じわりと染み込んでいく。


 昼時になると食券を買い求めた人々が我先にと注文していく。


「オレ、カツカレー!」


「鮪の刺身定食」


「牛丼!」


 今日も食堂の中はてんてこまい!


 女将は、「はーいっ」と元気な返事を返して色々と包丁を動かし、フライパンを振るった。


 しかし、その注文の嵐が突然に止む。


 お客さん達の目線が正面口に集中する。


 ポーさんがそこに立っていた。


 ポーさんは、白と黒の混じった顎髭を摩りながら食券を買い求めるとゆっくりとした足取りでカウンターへと向かう。

 そのポーさんに対し、お客さん達は一様に同じ目を向ける。

 怒りと嫌悪。そして憎しみ。


 それは港湾食堂ではいつもの光景だった。

 

 お客さん達のそんな負の視線を受けても尚ポーさんは、平然と歩き、カウンターに座ると女将に小さく手を上げる。

「こんにちはポーさん」

 女将は、笑顔でポーさんを歓迎する。

「ああっこんにちは女将」

 ポーさんは、購入した食券を置く。

「羊肉のステーキとワインを」

「焼き方は?」

「レアで」

「ワインの色は?」

「赤」

 注文を承ると女将は、大きな冷蔵庫から肉の塊を取り出す。彫刻刀で掘られたような雪のようなサシの入ったお肉だ。

 女将は、牛刀包丁を取り出すとゆっくりと刃を食い込ませ、前に後ろにと最小限の動きで刃を入れていく。

 そして綺麗な断面を見せびらかすように羊肉は切り落とされ、まな板の上に置かれる。

 女将は、肉の筋に沿って包丁で切れ目を入れ、塩と胡椒を振ると羊の母乳から作ったバターを塗ったフライパンの上にそのまま落とした。

 脂の焼ける音とともに炎が噴き上がる。

 女将は、恐ることなくフライパンの上に蓋をする。

 そして肉が焼けるまでの間に床下の貯蔵庫の蓋を開けてワインのボトルを取り出す。器用にコルクを開け、グラスに注ぐとそれをポーさんの前に置く。

「もう少し待っててね」

 女将は、小さく微笑んで厨房へと戻る。

 ポーさんは、何も言わずにワインに口を付ける。

 女将は、肉が焼けるまで間に他の注文の品をテキパキと作り、お客さん達を見る。

 お客さん達は和かに女将から食事を受け取り、ポーさんを睨みつけながら席へと戻っていく。

 ポーさんは、静かにワインを飲んだ。

 焼けたフライパンが石焼きの皿の上に置かれる。

 石焼きの皿からは気持ちよい肉の焼ける音が響く。

「おまちどうさま」

 女将は、ポーさんの前に羊肉のステーキを置く。

 表面だけ見るとウェルダンと勘違いしそうな程に焼けているが側面を見ると生々しさを残した柔らかさが残っていることが分かる。

 ポーさんは、フォークとナイフで丁寧に肉を切り分ける。

 赤みを残した綺麗な断面が雲に隠れた月のように見え隠れする。

 ポーさんは、羊肉をゆっくりと口に運び、咀嚼し、そしてワインを一口飲む。

「・・・美味い」

 ポーさんは、小さな声で呟く。

 女将は、にっこりと微笑んで厨房へと戻る。

 ポーさんは、怒りと憎しみの視線を浴びながらも淡々と羊肉のステーキを食べ、ワインを飲む。グラスが空になる頃に女将がワインを注ぎにくるがそれ以上の会話はしない。


 それもまたいつもの光景だ。


 しかし、今日はいつもとは少し違っていた。


「女将」

 羊肉のステーキを食べ終えたポーさんが女将に声を掛ける。女将に話しかけること自体はそれ程珍しい事ではない。違うのは次に発する言葉だ。

「準備が整った。店仕舞い後に治療したいのだがいかがか?」

 ポーさんの言葉にお客さん達が騒めく。

 女将は、嬉しそうに表情を輝かせる。

「ありがとうございます。お願いします」

「では夜にまた来る」

 ポーさんは、立ち上がると正面口に向かって歩き出す。

「お願いします」

 女将は、丁寧に頭を下げる。

 ポーさんの背中に怒りと憎しみ、嫌悪の視線が怨嗟となって投げつけられる。

 しかし、ポーさんは気にした様子も何もなく正面口から出ていった。

 再び喧騒が食堂の中を走り回った。

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