第6話 羊肉のステーキ 中編
青い月明かりが大きな窓から差し込み、港湾食堂の中を冷たく照らす。
昼の喧騒などどこに去ってしまったのか、静寂だけが食堂を外套のように包み込む。
女将は、食堂の椅子に腰を下ろしていた。
その前に立つのは・・・ポーさんだ。
ポーさんは、月の明かりと同じ青い手術着を纏い、手袋とマスクをしている。
「少し沁みるぞ」
ポーさんは、優しく女将の顔を触ると目に触れる。下瞼をゆっくりと下ろし、目薬を差す。
「もう片方もだ」
そう言ってもう片方の下瞼を下ろして目薬を差す。
焼けるような痛みが走るが耐えられないようなものではない。
「目が開けられるか?」
「はい」
女将は、ゆっくり瞼を開ける。
ぽっかりと小さな暗い空間が2つ、そこにあった。
「何も見えないです」
女将は、不安そうに言う。
「薬が効いてるだけだ。心配ない」
ポーさんは、左手を上げる。
その手には透明で小さな2つの玉が握られていた。
そして右手には銀色の注射器が。
ポーさんは、注射器の針を玉の1つに近づけてゆっくりと差し込む。透明な玉の中に針が入っていくのが見える。
先端を中程で止めるとゆっくりとシリンダーを押し込む。
とろりっとした銀色の液体が針の先端から流れ落ち、玉の中を満たしていく。
液体が玉の中に隙間なく収まるのを確認するとそっと針を抜く。
銀色に染まった玉の表面に赤い筋が現れ、脈打ち始める。
それを確認するともう1つの透明な玉にも針をゆっくり差し込み、銀色の液体を流しこむ。
もう1つの玉にも銀色の液体が満ち、赤い筋が浮かんで脈打つのを確認すると銀色の注射器をテーブルの上に置く。
「目を開いたまま動かないで」
ポーさんは、そっと女将の頬に触れる。
女将の震えが手に伝わる。
「大丈夫。怖くないよ」
ポーさんは、銀色の玉を女将のぽっかりと空いた黒い穴の中に押し込む。
銀色の玉を押し込まれた目の周りから赤い液体が溢れ出る。
「痛くないかい?」
「・・・大丈夫です」
「もう終わるからね」
ポーさんは、優しく囁やくように言ってもう1つの穴に銀色の玉を押し込む。
目の周りから赤い液体が溢れる。
ポーさんは、流れる赤い液体を拭い、清潔な包帯で優しく女将の目を覆う。
「今日1日はこのままで。明日には見えるようになる」
「ありがとうポーさん」
女将は、口元に笑みを浮かべて立ち上がろうとする。
ポーさんは、女将の腰に手を回して支える。
「ベッドまで送ろう。今日はもう寝てしまうといい」
「そんな・・・悪いです」
「問題ない」
ポーさんは、そう言って女将を寝室のベッドまで連れて行って寝かせる。
「それではお休み」
そう言って寝室から出ようとすると女将が呼び止める。
「いつもありがとね。ポーさん」
「礼を言われることはない。医師として当然のことをしてるだけだ」
「でも・・・ポーさんだけだもん。主人を待ってる私を何も言わずに見守ってくれるの・・・」
「・・・・」
「みんなが私のこと心配してくれてるのは分かってるの。みんながとっても優しいことも分かってるの。
でも、私は待ちたいの。きっと帰ってきてくれるって信じてるの・・だから!」
包帯を巻かれた女将の目から赤い涙が溢れ出る。
「私から待つことを取り上げないで!」
女将は、嗚咽する。
幼い少女のように大声で泣き続ける。
ポーさんは、女将の元に戻るとそっと頭を撫でる。
「大丈夫。誰も君から待つことを取り上げたりしない。これ以上、何も君から奪うことはしない。だから安心して眠りなさい」
ポーさんは、優しく優しく女将の髪を撫でた。
女将は、泣いた。
泣いて泣いて泣き続けて、そしていつの間にか眠ってしまった。
「お休み・・・女将」
ポーさんは、涙で赤く染まった頬を拭い、立ち上がると寝室から出る。
食堂の中は、青い月の光に包まれていた。
冷たく、どこか嘘っぽい青い月の光に。
そしてポーさんは、正面口から食堂を出た。
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