第29話 ワケアリ


 今すぐにでもグミさんの家に行って、何が起きているのかを確認したい。でも、風邪をひいていることが、足止めをした。正直、熱っぽいのもザワザワするのも、シンプルに体調不良によるものの気がする。

 具合は悪いけれども、こんな気持ちを抱えたまま眠れる気がしないな。と思いながら、ベッドに戻る。


「ただいまぁーっ」

 朝になって帰宅したドラゴンさんの声で目が覚めた。結局あの後ぐっすり寝てしまったらしい。

「朝帰りですね」

 玄関で出迎えたが、心に余裕がないので、妙な物言いになってしまう。主人の浮気を疑う若妻かよ。と自分でツッコむ。

「そんなトキメキイベントじゃないわよ」

 苦笑いのドラゴンさんに続いて、いつも通りのアンニュイなグミさんがドアから入ってきた。

「え? い、いらっしゃい……ませ?」

「お邪魔しまーす。あー、杏くんだ。風邪どう? ごめんね」

 俺がいることを確認して、ふにゃりと笑うグミさん。相変わらず、可愛い。

「ほぼほぼ治ってきたんで、大丈夫ですよ。ゼリー美味かったです」

 部屋着や髪型が汚れていないか気になって、髪をいじりながらそわそわと答える。グミさんはそんな俺の様子など気にも留めず、いつも通りに受け答えをしてくれた。

「はは。やっぱゼリーだよね」

「ところでこんな朝から、どうしたんですか?」

 状況が飲み込めない。そんな俺の気持ちを察してか、ドラゴンさんはソファにぐったりと座ったまま、ため息と一緒に吐き出すようにつぶやいた。

「グミさんをね、当分……というか、ずっとのほうがいいかな。うちの店、出入り禁止にしたのよ」

 グミさんは曖昧に微笑んでドラゴンさんの隣に腰を下ろした。

「は? なんで?」

  思わず大きな声が出た。俺の様子に少しだけ驚いた様子でドラゴンさんが続ける。

「私も気がつかなかったんだけど、グミさんね……きっと、アル中ね」

 想定外の言葉だった。

 言われてみると、グミさんはいつもほろ酔い状態で、泥酔で訪れたこともあった。でも、彼の無害さが、自分がイメージするアルコール依存症の患者とは乖離していて、まるで現実感がなかった。

 なんだか悪い夢を見ているようだ。そう考えて、ぼんやりしている俺をそよに、ドラゴンさんも誰に話すでもない、頭の中を整理するように独り言をぼやく。

「なんかねーおかしいなっていうか、ちょっと心配な雰囲気だったんだけどね……改まって聞いてみてよかったわよ。ほんと、私は医者じゃないから診断なんかできないけど……だからね、今から医者に行くのよ」

 しかし、最後の連絡事項は俺の方を向いて告げた。

 グミさんは相変わらず、少し困ったような笑顔で黙っている。俺は予想外すぎて言葉が見つからなかった。そんな俺を前に、ドラゴンさんは続ける。

「家に奥さんとお子さんがいるから、いつも外にふらっと出て飲んでたんだって。お子さんもまだ小さいし、奥さんもものすごく疲れちゃってて……私も、あー疲れたぁ……シャワー行ってくるわね」


 ワケがアリすぎだ。ドラゴンさんに置いてけぼりにされた俺とグミさんの間に、気まずい空気が流れた。

「結婚してたんスね」

「まぁ……うん」

 確かに行きつけの店の店員に、既婚だとか、しかも子供がいるとかを教える義理はない。だから、俺が知らなかったことは誰も悪くない。ただ、勝手に裏切られた気分になっている自分が身勝手すぎて苛立った。

「お子さん、いくつなんですか?」

「8ヶ月」

「へぇ……」

 思ったより小さい。それくらいしか感想が浮かばなかった。

「なんでまた?」

 俺の質問に、グミさんは薄く笑って応えてくれた。

「うん、あのね。奥さんが里帰り出産してる間にさ、ちょっと寂しくて、外で飯食うようになって……僕さ家が仕事場だったから、奥さんと赤ちゃんが帰ってきたら、それはそれで仕事も進まなくなって……余計外に出るようになってさ」

 グミさんは話すうちに、うっすらとした笑顔も消えていき、無表情でぽつぽつとこぼしていた。彼は既婚者で、父親で、なのに家に帰らないで、しかも常に酔っている。碌な奴じゃない。でも……。

「僕は杏くんが欲情してくれるようなナイスガイじゃないんだ」

「欲情て……ええとナイスガイってなんすか?」

「なんだろね? いい男?」

「グミさんは、いい男ですよ」

「ありがと。だけど、ごめんね」

 でも、困っているグミさんに、俺だって何か役に立つことはあるはずだ。

「俺は何ができますか?」

 俺の言葉に、グミさんは顔をあげて、しっかりと目を合わせもう一度「ごめんね」と、念を押すように言った。

 この前の告白から、今さっき申し出たこと、諸々合わせて「ごめんね」された事に、ようやく気がついた。

「……はい。あ、俺ちょっと、まだ風邪治ってないっぽいんで寝ますね。じゃあ」

「うん。具合悪いのにごめんね。お大事に」

 返事もしたくなかった。そのまま黙って自分の部屋に篭り、彼らが出かけるまで息を殺してじっとしていた。

 グミさんは、俺に何も悪いことをしていない。俺が勝手に好きになって、盛り上がって、今だって楽しかったことしか思い出せない。そんな自分が心底惨めだった。

 

グミさんとドラゴンさんが出かける音を確認した後、のそのそと部屋から出て、飲み物を探して冷蔵庫を開ける。

「おにーちゃん、具合どう?」

「おわ?!」

 油断していた背後から声をかけられて驚く。

「え? 私の方がびっくりするんだけど。油断しすぎ」

 飾らない笑顔の、らいちが立っていた。それを確認した瞬間、涙が止まらなくなった。

「え? 何? どしたの」

「……わかんない……んぐぅ」

 もう涙が止まらなくてどうしようもないので、この際声を出して泣いた。嗚咽するなんて、小学生以来だ。そんな俺を、らいちはソファまで連れていき、そのまま黙って隣に座っていてくれた。


 らいちは暫く、泣き続ける俺の背中や頭をさすったりしていたが、流石に飽きてきたのか、両手を俺の頬に添えて、顔を覗き込み「涙を止めてあげよう」そういって、左目の涙袋のあたりを舐めた。

「ちょ? 何……」

 言い終わらないうちに、右の頬をつづけて舐められる。

「塩味」

「いらない感想」

「涙の味って感情で変わるらしいよ」そう言いながら、らいちの柔らかい舌先が、頬や目頭を伝う。やばい。これは、流されてしまうやつだ。ぎゅうと、思い切り目を瞑る。

「そんなに怯えなくとも何もしないよ。ほら、泣き止んだ」

 目を開くと、らいちは立ち上がっていて、キッチンの方へ向かって歩いていった。

「記憶が飛ぶくらい美味しいコーヒー、淹れてあげるから顔洗ってきなよ。おにーちゃん」

「え……うん。ありがとう」

 らいちが淹れてくれたコーヒーは、蜂蜜とミルクを足した上に、練乳をトッピングしていて、甘すぎて「惨めな自分とは」なんて考える余裕を吹っ飛ばしてくれた。

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