第十九話「眠れぬ夜は誰のせい」
冬華のことはもちろん好きだ。だが、それが恋愛感情なのかと問われると、確信がない。
彼女は、俺よりも十歳近くも年下の女の子で、まだ子供で。
大切な大切な担当アイドルで。
そもそも、恋愛感情を抱いていい相手ではない。
――ならば今、俺が抱いている「彼女を両手で抱きしめてあげたい」という衝動は、なんなのだろうか?
とうの昔に冬華に恋をしてしまっているのに、理性がそれを否定しているだけなのか。
あるいは、俺の中の邪な感情が、冬華に許されぬ劣情を抱いているのか。
もし、この衝動に身を任せたのなら、その答えが分かるのだろうか。
そんな益体のないことまで考えてしまう。
それほどに俺は、動揺していた。
抗いがたい冬華の温もりに、柔らかさに、
だが――。
「春太さん、冬華は……貴方を……」
いつしか、冬華の声は震えていた。
否、声だけではない。彼女の小さく細い身体が、小刻みに震え始めている。
(ああ、俺はなんて馬鹿なんだ)
ようやく金縛りが解ける。
俺は、自分の浅はかさに呆れかえりながら、頭に回されていた冬華の腕を優しく掴み、解き放った。顔を包んでいた柔らかく温かなものが、少しだけ遠ざかる。
そのまま冬華の手をぎゅっと握り、彼女の顔を見上げた。
冬華の大きな瞳は濡れていた。涙に濡れていた。
その手は今も小刻みに震えていて、俺の手を痛いくらいに握り返している。
冬華が俺を誘惑するようなことをしたのは、そういう関係になりたかったからじゃない。
怖いのだ。彼女の心は未だに、俺がどこかへ行ってしまうのではないか? という恐怖に捕らわれている。
だから、俺が思わず冬華の身体に魅入ってしまった事さえも利用して、繋ぎとめようとしたのだ。
震える体を必死に抑えながら。
冬華が俺のことを好きだという気持ちは、嘘ではないだろう。
だが、彼女はまだ子供で、同時に良識のある少女でもある。
男に身体を許すことの意味を知ってはいるが、それを受け止めるにはまだ幼すぎる。
俺と冬華の立場で一線を越えてしまえば、後にどんなことが待っているのかも理解している。
大変なことになってしまうと、分かっているのだ。
それでも、俺を繋ぎとめられるのならと、身を委ねるような行動を取った。
恐怖を押し隠しながら。
俺達にとって幸いだったのは、冬華がその恐怖を隠しきれなかったことだろう。
「すまない、冬華にこんなことをさせてしまって……本当に、すまない」
「謝らないでください! 冬華が、勝手に……やったことです……」
「いや、悪いのは俺だよ。さっき、一瞬とは言え、その……冬華の身体に、見とれてしまった。大人失格だよ、あんなの」
「そんな……ことは……」
冬華が言葉に詰まり、項垂れる。
俺は手を繋いだまま、彼女をソファへと誘導し座らせ、その足元にひざまずいた。
まるで女王に首を垂れる騎士のように。
「ごめんな、冬華。俺の煮え切らない態度が、君を不安にさせてしまった。でも、これだけは信じて欲しい。俺は、君を置いてどこかへ行ったりなんかしない」
「……それは、冬華のプロデューサーとして、ですか?」
「もちろん、それもある。でも……それだけじゃないよ」
ギュっと冬華の手を握りながら、彼女を見上げる。
俺達の視線が再びぶつかり、そのまま見つめ合う。
「冬華は、俺にもう一度夢を見させてくれた恩人なんだ」
「夢……?」
「ああ、夢だ。俺が一度失ってしまった夢を、冬華は見せてくれた。失ったものよりも、もっともっと大きな夢を――少し、俺の昔話を聞いてくれるかい?」
コクンと、冬華が静かに頷く。
その小動物みたいな可愛らしさを心に刻みながら、俺は自分の過去を話し始めた。
幻のバンド「ハイ・クラス」の誕生から消滅まで。みのりとの出会いと別れ。その後の鬱屈した人生。
それら全てを。
「『ハイ・クラス』、それが春太さんのいたバンドのお名前なんですね」
「ああ。前に『キーボードを弾いていた』と話したことがあったね。あれは、主に『ハイ・クラス』時代のことなんだ。不祥事ですぐに解散してしまったけど、ドームで演奏したことも一度だけあってね」
「ドーム……」
「ドーム」という言葉に何か思う所があるのか、冬華がオウム返しのように呟いた。
「まだ社長だったマイケル会長にも、アイドル・プロデュースのイロハを仕込んでもらってね。俺はバンドメンバーではあったけど、どちらかと言えば裏方志望だったんだ。会長も、それを理解した上で育てようとしてくれたんだと思う」
実際、冬華のプロデュースをするようになってから俺を助けてくれたのは、マイケル会長に教えてもらった様々な心得だった。
あの頃に教わった知識やノウハウがなければ、とてもではないが冬華のプロデューサーは務まらなかっただろう。
「うふふ。じゃあ冬華も会長さんには、感謝しないといけませんね」
「え?」
「きっと冬華のワガママだけでは、春太さんにプロデューサーになってもらうことは出来なかったと思うんです。会長さんは、教え子の春太さんになら任せられると思ったんじゃないでしょうか?」
「そう……かな。そうかも、しれないな」
そもそも、いくら冬華が望んだからといって、俺のような底辺作曲家が有望新人アイドルのプロデューサーに等、なれる訳がないのだ。
そこには、マイケル会長の何らかの意図があったと見て間違いないだろう。本当に、あのオッサンには頭が上がらない。
「そうだね。色んなことが重なって、俺は冬華のプロデューサーになることが出来た。君という、綺羅星のように光り輝くアイドルのプロデューサーに。俺はね、冬華。君の中に、新しい夢を見たんだ」
「新しい夢、ですか?」
「うん。かつての俺の夢は、バンドの連中と共にトップアイドルの仲間入りをすることだった。でも、冬華。君ならばきっと、その更に先に行ける。トップの中のトップ、頂点に」
「……冬華に、それが出来るでしょうか?」
不安げに冬華が呟く。
以前の彼女ならば、「冬華と春太さんなら絶対に出来ます」なんて、心強い返しをしてくれたはずだ。
だが、彼女は、みのりを通じてもう知ってしまった。アイドル界のトップがどんな高みなのかを。
「俺は出来ると信じている。でも、それは冬華と俺、事務所の皆の力だけじゃ無理だ。もっと、多くの人達の協力が必要なんだ」
「多くの人達?」
「ああ、それが誰なのか、冬華にはもう分かっているはずだよ。俺はかつて、彼ら彼女らを裏切ってしまった。けど、冬華にはまだ大勢の彼ら彼女らがついてくれている」
「あっ……それって、ファンの皆さんのことですか?」
冬華の答えに、ただ笑顔だけを返す。
そうだ。アイドルというものは、本人やスタッフの力だけで輝くものじゃない。沢山のファンの心を掴んで、彼らの声援を受けて輝くものだ。
あの「スフィア」のように。
「冬華。沢山の人が、君の中に夢を見ている。俺もその一人なんだ。だから、どうか傍で見届けさせてほしい。夢が叶う、その瞬間を。……それとも、他人から託される夢は、重たいかな?」
「そんな……そんなことは、ありません! 冬華は、アイドルですから。春太さんが、ファンの皆さんが冬華に夢を託しているというのなら……冬華は、逃げません。きっと叶えてみせます♪」
冬華の瞳には、いつしか強い光が宿っていた。
初めてのステージで見せたような、強い光が。
「それでこそ、冬華だ」
「春太さん……ご迷惑おかけしました。冬華、ようやく気付きました。ここ最近の冬華は、ファンの人達の声をきちんと聞いていなかったって。明日からは、もう間違えません」
良かった。どうやら冬華は、無事に山場を越えてくれたようだ。
明日のステージに、もう不安はなかった。
――と。
「でも、春太さん。もしかしたら、冬華、また弱気になってしまうことがあるかもしれません。だから、その……お守りを、くれませんか?」
「お守り? ええと、何かお守りになるような物、持ってたかな」
「いいえ、物ではなくて……キスを、していただけませんか? それをお守り代わりにします♪」
「ああ、なるほど。キスね。……はぁっ!?」
驚く俺をよそに、冬華はもう目を閉じてスタンバイオッケーだった。
冬華の花びらのような唇は、室内の間接照明を受けて鈍く光り、俺の口付けを今か今かと待ち構えている。
(ど、どうする? キスくらいなら、セーフ……な訳あるか! アウトだよ! 完全アウト!)
背中にじっとりとした熱い汗が染み出してくる。
今度は先程までとは違う。冬華は、無理をしている訳ではない。本気でキスをねだっていた。
どうやら冬華の中では、キスなら一線を越えたことにはならないらしい。この場のテンションもあるのだろうが。
――俺も覚悟を決めるしかなさそうだ。
「冬華……」
立ち上がり、冬華の細い両肩を抱く。
そのまま、桃色に頬を染めた冬華の顔に唇を寄せ、口付けた。
――ただし、冬華の可愛らしいオデコに。
「……春太さん?」
「すまん。今の俺には、これが精いっぱいだ。その、コンプラ的に……」
「むぅ……。分かりました。でも、今回だけですよ? 次はちゃんと、お、お口に……」
言いかけた冬華の頬が、桃色を通り越して深紅に染まる。
どうやら、自分がいかに恥ずかしい要求をしていたのか、今更に気付いたらしい。
そもそも、口にキスなんてしたら俺だってどうなるか分かったもんじゃない……。
結局この夜は、お互いに恥じらってしまいギクシャクしたままになってしまった。
お陰で打ち合わせもろくに出来なかった。
だが、翌日のステージで、冬華は最高のパフォーマンスを見せてくれた。冬華、完全復活だ。
そうして、残りの日程も消化した俺達に、次なる仕事の詳細が伝えられた。
出演予定だった、都内のドームで行われる大型合同アイドルイベントの出演者が確定したのだ。
そのイベントの出演者の中には、みのりの名前もあった――。
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