伸ばす手、水に消ゆ

伸ばす手、水に消ゆ


 何度も何度も自らの皮膚を脱ぎ捨て、漸く私は成熟した。

 しかし、その姿はまるで弱弱しい。実際、特別発達した翅ではないし、身体は貧弱そのもの。そして、なんと言っても寿命が短い。

 私は一応妖怪の類なのだが、元が元だから弱い存在に変わりはない。

 自分でも哀れに思うくらいだ。幼い頃から弱く、周りにいる捕食者から身を隠して生きてきた。こうして成熟したとて、それは変わらない。直ぐに来る命の終焉に抗えず、野垂れ死に、その死骸を啄まれるだけだ。


 私は、生まれ育った川辺に沿って真っ直ぐ歩く。

 上流から下流へ下るにつれて、川の流れは緩やかになってゆく。流れは緩やかだが、ここら辺は水が深い。一度入ってしまったら、抜け出すのは困難だ。

 少しばかり歩いただけで、既に身体が悲鳴を上げている。なんて虚弱なんだろう。

 私の寿命はもう長くないということが、悲しくも本能的に理解できてしまう。息を整えながら、変わらず歩き続ける。

 しばらくして、私の前方に何かが姿を見せた。

 その正体は、幼い人間の少女だった。三角座りをして、居然と川を眺めている。

「………………」

 人間の少女を見つけて、私は自然と口角を上げた。

 理由は一つ。

 かねてから私は強者に怯えて暮らしてきた。目の前で強者に蹂躙・捕食されている同じ弱者を何度も見てきた。身体が成熟した今なら、人間の子供くらい容易に殺すことが出来る。人間の少女には申し訳ないが、私の個人的で自己中心的な復讐の相手になってもらう。

 私は気付かれぬように少女の背後に回り、ゆっくりと近付いてゆく――


 ――ザラッ。


 少女の真後ろにまで近づいたところで、地面の石を蹴ってしまった。その音を聞いて、少女は素早く背後を見て立ち上がった。

「………………!」

 私と少女の目が合う。少女からは、表情の変化は見られない。

 もうここまで来たらお構いなしだ。私は少女に向けて手を振り上げる。しかし、少女はひょいっと横に移動して、私の渾身の攻撃は難なく躱されてしまった。そのまま私は地面に倒れ込む。

「ぐっ……」

 地面にある石たちが身体に食い込んで、痛みが走った。

 何とか身体を起こそうとしていると、少女が私の横に立った。


「何してんの?」

 ひどく冷たい声で少女は言った。


「………………」

 私は何も答えず、身体を起こすことに集中した。身体を起こすだけでも、集中しなければならないほど、私の身体は既に弱り切っていた。

 腕の力を振り絞って、何とか上半身を起こすことに成功した私は、少女の顔を見た。先ほどと同じ無表情で、一体どういう感情を抱いているのか推察の余地などなかった。

「……お前を殺そうとした」

 正直に答えると、少女は初めて微笑という表情の変化を見せた。

「ふーん……そんなに弱ってるのに?」

 私を嘲笑しているのか、少女は吐息を混ぜて言った。何も答えることが出来ずに、私は視線を下に下げる。

「…………虫人間?」

 少女はしゃがみ込んで、私の身体を舐めるように見た。

 私は妖怪だから、人間とは違って目や手、足などは虫としての要素が濃く残っている。全身としての形は人間に似ているが、所々は妖としての、虫としての身体付きになっている。

「私は……妖怪だから」

「妖怪? 本当に居るんだ」

 そう言いながら、少女は私の右手に触れてから軽く撫でた。

 初めて妖怪を見たにしては、妖怪に対する警戒心が薄すぎる。その理由の大半は、私が弱く、既に死にかけの状態だからだろう。

「本とかで見る妖怪はキモいけど、実物は意外とかわいいかも」

 奇特なことを呟きながら、少女は私の身体を観察している。私は見られるまま、されるがままでいた。

「……飼っちゃおうかな」

 少女は真顔で、私の理解が追い付かない言葉を放った。

「どういう意味だ」

「そのままの意味だよ。連れ帰って、飼育しようかなって」

 妖怪を飼育とは、この少女はかなり頭の螺子ねじが外れているみたいだ。妖怪を使役する人間ならまだしも、飼育する人間など聞いたこともない。

 素直に飼育されるつもりなんてないが、私にはこの人間に抗うほどの力はない。とは言え――。

「私はもうすぐ死ぬ」

 そう言い放つと、少女は少し驚く素振りを見せた。

「そうなの?」

 少女は私の手をぱっと離した。

 失望した様子の少女を見て、僅かに痛快な気分になった。

「残念だったな。蜉蝣かげろうは寿命が――」


「――じゃあ、私も死のうかな」

 私の言葉を遮って、少女は言った。


 少女の言葉がどういう意図で、どういう意味を持つものなのか、私には理解できなかった。

「お前は何を言っているんだ?」

 生物に限らず、妖怪でも己の命にしがみつく。それなのに、この少女は自ら命を放棄するとでもいうのか?

「もう、生きてる意味なんて無いから」

 胡座になった少女は、またしても川を見据えた。その表情からは、悲しみや苦しみに近いものが感じ取れる。私とは全く以て違う種類の悲しみと苦しみだ。

 生きる意味など考えたことがない。毎日生き延びるのに必死だったから。もしかしたら、『生き延びる』ということが私の生きる意味なのかもしれない。まあ、もう死にかけなのだが。

「到底理解は出来ないが……」

「だろうね」

 被せるようにして言った少女のその言葉には俄かに怒りのようなものを感じた。

「何か事情があるのだろう」

「意外と理解があるんだね」

 私を見て妖しく笑った少女。

 瞬刻、バクンッと心臓が持ち上がったかのような感覚に苛まれた。

「ぐっ…………」

 この感覚が一体どういうものなのか、私はすぐさま理解した。更に、脳がぐわんと揺れる感覚も加わり、視界は歪んだ。倒れないようにするのが精いっぱいだ。

 やはり、私はもう…………。


「膝枕……じゃなくて、胡座枕してあげようか?」


 私の顔を覗くようにして、少女は言った。身体が健康そのものだったら断るのだが、意識を保つのですら厳しい現状、断ることなどできなった。

 瞬きで返事をして、少女の胡座……右の太腿の上に頭を乗せて寝転がった。

「本当に死にそうなんだね」

 少女はそう囁いて、私の右肩に手を乗せた。そしてそのまま、私の身体を優しく撫でた。少女の手の温もりが心地よく感じる。


「貴女が死ぬまで側にいるよ。だから、貴女も私が死ぬのを見届けて」

 少女は私の肩をとん、とん、と軽く叩いた。


「…………っ……」

『ふざけるな』と言葉を出そうと喉を絞る。だが、空しくも声は出ない。

 私は、この少女に生きてほしいと思った。自ら命を投げ捨てるのに腹が立ったというのが初めの理由だが、何よりも、少女には心の底から笑ってほしいと思ったからだ。

 少女に何があったのかは分からないし、少女について何も知らない。僅かに会話を交わして、身体を預けただけの間柄。それでも、少女には生きてほしいし、笑ってほしい。

 この感情は、恐らく理屈では説明できない。この少女の何に惹かれたのか、考えれば考えるほど分からない。

 突飛な発言に惹かれたのか、時折見せる優しさに惹かれたのか、死にかけで気が狂った私が盲目的に惹かれてしまっているのか。もしかしたら、今列挙したもの全てが当てはまっているかもしれない。

 少女は私の頬を親指で優しく撫でる。

 死にかけで苦しいはずなのに、死ぬのが怖いはずなのに、得も言われぬ安心感を覚えたが、それは無意味だと言わんばかりに、視界が徐々にぼやけてゆく。視界から色彩が消えてゆく。


「ねえ」


 少女の呼びかけが聞こえる。

 答えたい。返事をしたい。

 それなのに、声が出ない。目が開かない。


「名前、訊くの忘れちゃった」


 小さい声で少女は呟いた。そして、ゆっくりと私の頭を地面に下ろした。若干の柔らかさを感じた太腿から、硬い地面へと感触が変わる。

 その直後だった。


 ――ジャバ。ジャバ。


 何かが水に入る音が聞こえた。

 私は消えそうな意識を何とか保ち、全ての力を瞼に集中させ、ゆっくりと目を開いた。


 眼前に広がった光景があまりにも衝撃的だった。

 少女が川に入水してゆく。既に膝の上まで水に浸かっていた。

 何とかして声を出そうとするが、私にはそんな力などは残っていない。

『やめろ』と何度も心の中で無意味に叫ぶ。

 私の感情など露知らず、少女は刻刻と川の深みへと進んでゆく。

 腰まで川の水が浸かったところで、少女は一旦立ち止まった。そして、振り向いて私を見た。


「…………ごめんね、ありがとう」

 そう言った少女は仄かに笑みを浮かべていた。悲しみを含みつつも、屈託のない笑み。

 確かに、私は少女の笑顔が見たいと思った。

 だが、私が本当に見たい笑顔は、じゃない。

 私は震えた貧弱な右手を、再び歩き出した少女に向けて伸ばした。

 決して届かないと分かりつつ――。

 視界に映る現実を理解はしているが、許容することはできない。




 少女の背中が見えなくなった頃、私はゆっくりと瞼を下ろした。

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