4. ボトルシップ

 無人島とはいえ、水も果物も豊富で、植木鉢ごと持ってきたミニトマトは元気だった。

 助手の菊地くんは釣りやダイビングが趣味で、魚を取るのがうまかったし、私もやり方を教えてもらった。研究調査に毎年使っているという小屋はしっかりしていて、新しく夏トンボ博士が持ってきたすだれを取りつければ日中でも涼しかった。自家発電機もあった。

 携帯電話は当然圏外。菊地くんは恋人がいるそうで、怒っているだろうなぁとよくぼやいていた。

 私は友達もあまりいなかったし、親と連絡がつかなくても博士さえいればそれでよかった。その頃には私と博士はすっかり仲良しになっていた。

 太陽が高くなる前に日陰で眠り、日没とともに起きる。深夜になると再び眠り、夜明けとともにまた起きる。博士は夜にしかいない昆虫や日の出前にしか現れない虫達がいるのだと言って私を連れて行きたがった。昼の島も魅力的だったのだろうが、幼い私は熱意はあれど眠気に勝てなかった。

 博士は、可能な限り私のために時間を作ってくれていた。とはいっても、もちろん仕事で来ていたわけなので、専門の採集は私が寝ている時にしていたようだ。

 昼間の採集では、どうしたって蝶ばかりに目が向いてしまう。夜に動きまわったことで、私は改めて蛾の美しさを知り驚いた。実家の裏庭で見かける限られた種類と違い、様々に違うそれらの区別はつきにくかった。博士は鱗翅類にも詳しく、採集した蛾の名前を当てっこするたびに、きまって博士の方が正解なのだった。

「こんなに似ている意味が分かんない」

 私は連続で予想が外れて、少し機嫌を悪くした。 博士が何か言いかける菊地くんを遮り、なだめるように屈んで笑う。

「そうだね、意味なんてないかもしれない。でも、彼らは生きるためにわざと『似せた』のかもしれないよ。意味があるかもしれないと、考えるのも楽しいさ」

 博士からは、そんな宿題が毎日出たので、雨の日でさえ退屈しなかった。

 毎日毎日、次に起きた時のことを想像して眠りに落ちるのが幸せだった。だからこそ帰る日々が近づいているのが寂しく、目を閉じる瞬間すらも惜しかった。

 島の南側には崖があって、眠りのしじまに波の砕ける音が遠く届いていた。


 迎えがくるのは三週間後のはずだった。

 それが来なかった。


 おかしいなぁと頭を掻く博士の隣で手をつなぎ、水平線をいくら見つめても船は一隻も通らなかった。

 海の様子はいつもと変わらなかったのに、僅かに不吉な予感がした。

 「マジかよ。美和に怒られるなぁ」

 菊地くんがガックリと肩を落とすわきで、博士は嬉しそうだった。

 「これであと一日、愛する虫達と一緒にいられるぞ」

 そう私にウインクしてみせたくらいだ。私は黙って頷いた。家に帰りたくないとさえ思っていたのに、いざ迎えが来ないとなると不安で堪らなかった。


 迎えは次の日も来なかった。

 その次の日も。


 ――やがて関係者の一人がようやく奇特な研究者達を思い出したらしい。

 入道雲がもくもくと伸びる真っ青なお盆の空。

 近くの島の漁船が、凍るような報せを運んできた。


 パンデミック。


 私たちがこの島へやってきてすぐの頃。

 南米で新型ウイルスと見られる強力な伝染病が発見され、防疫措置の致命的な遅れにより国境をすり抜け、瞬く間に全世界へと広がった。空気感染するそれは世界中で感染者をだし、その半数以上が数日中に死んでいた。医療機関も混乱し、対応が後手後手に回っているという。そしてどうやら、特に若い女性の致死率が群を抜いて高いのだと。


 菊地くんは恋人の名を呼びパニックになり、半ば漁師さんを脅すようにして船を出させ、島を出て行った。そして戻ってこなかった。

 私も家に帰りたくて泣いたけれど、夏トンボ博士は私を絶対に船に乗せようとしなかった。どんなに泣いて喚いて訴えても。  

 漁船は定期的に報せを携えやってきた。博士は私が船と接触しないよう、私を縛って閉じ込めさえした。

 しばらくの間、その島で博士と暮らした。私は深く博士を恨んだ。


 でも私は博士のお陰で生き延びたのだ。


 耳に残る潮騒と海の色。

 研究小屋の日差し除けのすだれ。

 スコール、炎天、入道雲。

 憎々しかった匂いが、鮮やかな夏がとても懐かしい。


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