2. 夏トンボ博士
私は
私より四十も年上のおじさんとの血縁関係が正確にはどのようなものであったのか、今となってはよくわからない。 親戚は残念ながらウイルスへの耐性が低かったらしく、軒並み死んでしまったからだ。 母は再婚だったし、義理の父は無垢な私の眼にはおじいさんにしか見えなかった。彼は少なくとも、義父側の親戚の一人だった。
小学校に上がった頃に、母が再婚した。都心のアパートから郊外の桜の樹がある邸宅へ。友達もおらず、居心地の悪い家を避けるように私はよく一日中裏の山や畑にいて昆虫たちを観察して過ごすようになった。
殊に学校のない夏休みなんかは、田舎の屋敷に預けられたこともあり、これ幸いと昆虫採集に出た。 母に念押しされた日焼け止めもせず、虫かごに捕虫網、大きめで耳たぶあたりまで落ちる麦わら帽子という出で立ちで朝から晩まで山の中を歩いていた。
朝露のスニーカーを掠めて飛ぶ鮮やかな蝶たち。 青空の下のトンボ。 湿り気のある土、朽木の中の幼虫たち、夕暮れの涼しさに暮れる空。 心細さを駆り立てる巨大な木々の影と茜色の雲。時には夕立に襲われることもあった。 私だけの知る秘密の洞窟(今思い返せばただの横穴にすぎなかったと思うが)で雷をやり過ごし、温かい水の匂いに呼吸した。 傍らにクワガタやらカミキリムシの詰まった虫かごを抱えながら。
母は私に深窓の令嬢らしくあってほしいのだと幼心に知っていたが、生憎そんなものに興味はなかった。結局、「おてんばなお嬢様」というラインで譲歩してくれた母は、物分かり良く昆虫採集の道具を用意してくれた。もっとも標本作りのための毒瓶がほしいと言い始めた時にはさすがに理解の限度を超えたらしい。真っ蒼な顔で叱られたので、私は大人しくクワガタを飼育するだけで諦めた。とても残念だったけれど。
冬になると、次の夏休みが来るのを楽しみに、クリスマスプレゼントの昆虫図鑑を読みこんで退屈な雪の季節を乗り切った。世界は広い。南米の昆虫に憧れて、いつか世界中を回って昆虫の標本をつくろうと心に決めて毎日図鑑を抱いて眠った。
そんな娘を扱いかねたのだろう。あくる夏、私はいつもの田舎で夏休みを送ることなく、船にゆられて見たこともない島へ行くことになった。義父の甥とかいう四十絡みのおじさんが昆虫博士であり、その研究調査に一ヶ月南のナントカという無人島に行くのが恒例になっていて、それに同行して自由研究をして来たらどうかという半ば強制的な提案がそれだった。
少し、博士について説明をする。夏トンボ博士は本名を「
丸眼鏡に長い両手。 何個も眼がついているかのように夏草の茂みの中でも目当ての虫を見つけるのが早く、熱中すると手をだらんとして見入ってしまう姿から夏トンボ博士、と呼ばれていた、らしい。 奥さんはいなかった。 四十歳になっても昆虫達が僕の愛人なのだと大真面目に宣言しており、家の者達も学問に身を捧げるとはそういうものかもしれない、と諦めていたそうだ。
専門はトンボではなくカミキリムシだというからおかしい。 けれど昆虫でさえあれば大概の質問には淀みなく答えてくれたし、甲虫類でも鱗翅類でも、私が見つけるたびに嬉しそうに説明してくれる人だった。
私は母に連れられた船着き場で、初めて博士に会った。
今でこそ私の記憶に温かく残る夏トンボ博士の眼は親しげに笑っているけれど、その時の彼は不機嫌さを隠しきれていなかった。 無理もない。 私は空気の読めない母の気遣いで麦わら帽子にワンピース、下には花柄の水着などを身につけさせられており、研究調査に向かう博士のお供としては実に相応しくない格好をしていた。 これまた夏らしいサマースーツの母が手を引き、博士ににこやかに礼をする。 権力ある伯父の歳若い後妻が、足手まといの何も分かっていなそうな少女をひと夏押しつけるために作り笑いで頭をペコペコと下げる。 あまり気持ちの良くない光景であったに違いない。 博士の後ろには助手の大学院生、菊地くんが唖然としていて、私はとても恥ずかしかった。
母に抱きしめられ(いい子にしてるのよ)、船に乗り、浜が遠ざかってから、博士は咳払いをし、その格好ではとてもダメだし邪魔なんだという趣旨のことを言葉少なに伝えようとした。 私が麦わら帽子を抱いて見上げると博士は目を逸らした。 苛つく気持ちを隠そうともしないのにはだいぶ傷ついたのだが、無理もないだろうと思った。 母のことは嫌いではなかったけれど、彼女は自分の物差しを大事にしすぎて他人の物差しを無視するようなところが多分にあったし、それで人を不快にさせることも、娘がそのとばっちりを受けることも初めてではなかったので。
ところで私は当然ながら虫捕り三昧で過ごす心積りであったため、母には内緒で夏休みの宿題をベッドの下に隠し、空けたスペースに活動的な服と靴と昆虫図鑑、虫捕り道具をめいっぱい詰め込んできていた。麦わら帽子を無愛想な博士に押しつけて、リュックサックから私の宝物達を出して見せ、私にとってこの機会がいかに貴重なものか、どれだけ昆虫が好きなのかを子どもながらに切々と訴える。船は小さく、ひっきりなしに揺れたけれど、気にしてなどいられない。替えの靴を掲げて服装を抱きしめて、裁定を待つ。
「着替えてもいいですか?」
「それなら話は別だ!」
夏トンボ博士はニヤリと笑った。
そして麦わら帽子を私に被せ直してくれ、翅が震えるように長い腕を肩のわきにあげてみせた。
「『擬態』は生きていくための大切な知恵だものねえ?」
波飛沫の冷たさと、揺れる足の裏。
彼のこの言葉は、今でも私の大切な宝のひとつだ。
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