古弥煉(コヤネ)
ただいま、と引き戸を開けた渚杜は先客の気配を感じ一時停止した。玄関に新しい靴はない。黒緋と裏柳も気配に気付いて警戒心を強めた。そんな二人に渚杜は苦笑しながら「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」と宥める。
「おや、渚杜。おかえりなさい」
「ばあちゃん、ただいま!」
廊下から顔を出したのは卯月 靜(きさらぎ しずか)。太秦の嫁であり、渚杜の育ての親だ。任務で毎晩出掛ける渚杜の帰りを待っており、お腹を空かせている息子に軽食を用意している。
「靜! ただいま!」「黒、口の利き方に注意! 靜様、ただいま」
元気よく手を挙げる黒緋を諌めながら、裏柳が靜に向かい一礼した。式神は本来一般の人には認識出来ない。けれど、彼女は見鬼の才を有しているため黒緋と裏柳を普通の子供のように扱う。
「黒緋ちゃん、裏柳ちゃんもおかえりなさい。頑張ったご褒美にあんみつとアップルパイを用意してあるからお食べ」
「やったー!」
「靜様、ありがとうございます」
和菓子好きな黒緋、洋菓子好きな裏柳のために毎回靜はそれぞれ菓子を用意している。それに子供のように喜びを表現する黒緋と、控えめだが、嬉しそうに頬を緩める裏柳を見て靜も皺を深くした。
「あ! ばあちゃん、もしかして古弥煉(コヤネ)様が来てる?」
「ええ。少し前にお見えになって、うちの人と将棋をさしていますよ」
「……土地神様と将棋さすって、じいちゃんほんと何者だよ……」
「元・陰陽師。今では隠居生活を謳歌しているただの老人ですよ」
靜はそう言いながらキッチンへと戻って行った。何でもないように言っているが、普通はありえないことなんだよなぁ、と渚杜は頭を掻きながら太秦たちのいる居間へと足を向けた。一歩、足を踏み入れれば気付いた古弥煉が駒を手にしたまま渚杜の方を見る。太秦も同じように視線を向けると「おかえり」と微笑んだ。
「ただいま、じいちゃん。古弥煉様、いらっしゃい」
「渚杜~お邪魔してるよ」
軽く手を振る古弥煉に軽く会釈して渚杜は菓子を頬張っている黒緋と裏柳を眺めることにした。スプーンで白玉を口に運んで瞳を輝かせて「おいしい!」と喜びを表現する黒緋。アップルパイを小さな両手で持ち、口に運んだ裏柳はサクサクとした食感のパイ生地とその中から甘く煮たリンゴの味が気に入ったようで次々と口に運ぶ。目元を緩める裏柳の頭を渚杜は優しく撫でた。撫でられている裏柳は頬を僅かに染めながら嬉しそうにする。それを見た黒緋が声を上げた。
「あー! 柳ばっかりズルい! ズルーい! 黒も撫でて!」
スプーンを手にしたまま机を叩く黒緋は頬を膨らませる。次第に涙目になる黒緋が泣き出す前に渚杜が手を伸ばした。頭に乗せた手を左右に動かして頭を撫でると涙が止まった黒緋がニコニコと笑顔になり再びあんみつを頬張り始めた。
「まあまあ、相変わらず二人は渚杜に甘えたがりますね」
緑茶の入った湯呑を持った靜がふふっ、と笑う。湯呑を受け取った渚杜は礼を述べると緑茶を飲んで一息ついた。
「ところで、古弥煉様はなんでここに来たの?」
「さあ。ご本人に直接聞くしかないかと」
「だよね」
そう言って太秦と古弥煉の方を見れば、丁度勝敗が付いたようで古弥煉が険しい顔で腕を組み、対する太秦は扇子で仰ぎ飄々と笑っていた。
「勝負ついたね」
「古弥煉様に手加減無しだなんて、太秦様ったら勝負ごとになると熱くなるんですから」
ふふっ、と靜が肩を揺らす。
「いやぁ~、渚杜に会いに来たら任務に出ているって言うじゃないか。ただ待つのもなんだし、太秦と将棋をさしていたんだが負けたわ!」
「それで、古弥煉様はなんで俺に会いに来たの?」
渚杜の問いに古弥煉が「そうだ」と居住まいを正し、渚杜へと向かい合った。
「明日、ここを発ち茅川町へ向かうのだろう?」
「うん。陰陽寮への入学が決まったからね。見送り……ではないでしょ? だって古弥煉様は茅川町の土地神様だし」
「だいたい土地神がほいほい離れて良いのか?」
「ここの土地神様は古弥煉様に萎縮して何も言えないことを良いことに割と頻繁に起こしになりますよね」
太秦と靜が小声で茶々を入れる。
「そこ! うるさいぞ!」
古弥煉は咳払いをすると何事もなかったかのように話しはじめた。
「見送りではない。陰陽寮への入学は建前で、本当は九尾狐を倒すのが目的だろう」
「うん。九尾狐に呪われた俺を助けてくれた天狐様を救うためにね」
九尾の狐。千年以上前に出現した怨念を纏う狐は多くの呪詛をまき散らしていた。九尾は陰陽師と天狐により封印されたが、十年前にその封印が何者かにより解かれてしまった。九尾狐は多くの妖を率いて百鬼夜行を起こし町中を恐怖へと陥れた。だが、それは陽動にすぎず、九尾狐の目的は渚杜に呪いを掛けることだった。
その呪いは命を奪うだけでなく、掛けられた者の魂まで喰い殺すものだった。九尾狐を退けた後、渚杜の左胸に刻まれた九つの尾を模した痣を見た天狐は呪いの浸食を止めるため、躊躇することなく身を捧げて渚杜の体内へ入った。
今も渚杜が生きていられるのは天狐が呪いを抑えている為だ。九尾狐の呪いを恐れた陰陽師たちは真実を知らぬまま幼い少年に狐憑きと忌み名を付け、処刑しようとした。それを助けたのが太秦であり、古弥煉から真実を聞かされていた彼は渚杜を陰陽師として育てる決心をしたのだ。
「そうか。決意は変わらぬのだな」
頷いた渚杜に古弥煉は太秦と靜へ視線を移した。二人も同じく頷いて渚杜の意思を尊重する。それを見た古弥煉は深く息を吐きだし渚杜の頬を撫でた。
「お前は一度言い出したら聞かないからなぁ……。仕方ない、か。なら聞け。茅川町に九尾狐はいる。今は天狐との戦いでの傷を癒しているだろうが、それも直終わる。傷が癒えたら奴は行動を再開するだろう。だが、あの地には四狐が結界を張っているから九尾狐は出ることは叶わん」
「四狐?」
疑問符を浮かべた渚杜に古弥煉は続けた。
「四狐は金狐、銀狐、玄狐、白狐の四人。彼らは天狐に仕えていた狐たちだ。あの子たちは結界に力の大半を使っているが故、人並の力になっておる。そして、四人は柊乃(しの)、雪邑(ゆきむら)、奏冴(そうご)、智景(ちかげ)と名乗り、陰陽寮に在籍している」
「なんで?」
「さあ。それはあの子たちが決めたことだ。本人たちにしか分からんよ。だが、まあ予想は出来るがな」
笑い声を上げる古弥煉に渚杜は首を傾けた。そんな中、靜が声を掛けた。
「お話は以上ですか? もう夜も遅いですし、この子は明日出発しますのでそろそろ……」
「おぉ! そうだな、すまんすまん。つまり儂が言いたいのは、九尾狐討伐は危険が伴うが、お前は一人じゃないという事だ。お前を助けてくれる者たちがいる。それを忘れないようにな」
「……うん。ありがとう、古弥煉様」
「う、うむ」
「もしかして古弥煉様は心配で来てくれた?」
おやつを食べ終わった黒緋と裏柳が抱きついてきたのを受け止めながら渚杜は言う。幼い頃からの決意は変わらない。九尾狐を倒すということは死を覚悟するという事。まだ十五歳の少年が背負うには荷が重い。古弥煉はそれが心配だったのだ。
「大丈夫だよ。九尾狐を倒して、俺に掛けられた呪いを解く。そして、天狐様を解放する。それは俺のやるべきことで、もう決めたことだから。そんな顔しないでよ」
「……分かった」
「この子の決意は固い」
「ええ。誰に似たんでしょうかね」
太秦と靜が困ったように笑いながら渚杜の頭を荒く撫でる。くすぐったそうにする渚杜を見ながら血は繋がっていないはずなのにまるで本当の家族のように接する太秦と靜。彼らに預けて良かった、と古弥煉は目を細めた。
「さ、渚杜はお風呂に入ってもう寝なさい。古弥煉様は一泊されますか? それともお帰りになります?」
「う、うむ。今帰ればあいつら怒ってるだろうからなぁ~」
「泊まるんだろ。靜、部屋を用意してやれ。
一応土地神―空狐だからな」
「敬意が足りんぞ、太秦よ」
「……」
互いに睨み合い、同時に「はっはっは」と笑い出した。
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