Kitchen
浅池
きゅうり
初めの記憶は太陽だった。
仲間たちに囲まれて、僕は自分がこの世に生きていることを知った。
*
「——よぉ、新入り」
薄暗く、閉ざされた部屋の中で不躾な声が降ってきて、僕は声の方へ体を回した。徳用袋の中じゃ、動くのに限界があったけれど。
同じ袋の中にいた仲間たちも、その主を探しているようだった。ややあって、赤いトマトがゴロゴロと転がってきた。
「新入りたち、って言った方が良いのかな。お前ら、ここがどこだかわかってるのか」
僕はやや湾曲した体を左右に振って、否定を表現した。袋の上の口が金色のビニルテープで止められているせいで息苦しく、仲間たちと皮が擦れて、動く範囲にも限界があった。
「どこですか、ここは……」
僕の下にいるひとりが言った。体がまっすぐで見た目もツヤがあって美しい、トゲの尖ったお兄さんだ。僕たちの最前の記憶はやたらとまぶしい蛍光灯の下にいた時だ。それで誰かに持ち上げられた気がして、それで。
「まあここはあれだ、野菜室ってやつだ」
トマトの言葉に僕はもともと曲がっている首を傾げた。確かに僕たちはきゅうりだ。いわゆる野菜だが、それを集めた部屋があるなんて。
「いいか。家庭に買われた俺たちは、一旦レイゾウコっていう箱の中の、野菜室に入れられるんだ。そこで、運が良ければその日のうちに、悪けりゃ何日か経ってから、調理される。そこでうまい料理に変身できれば俺たちの人生……野菜生活は充実したものだったってわけだ」
「だった?」
「料理された時点で俺たちはおさらば。次の生に託すことになるんだ。当たり前だろ」
「なるほど」
下にいるお兄さんが唸った。
「ちなみにいちばん最悪なのは、食われないままどこかしら悪くなって捨てられるってことだ。食われるために生まれてきたのに、何にもならずに死ぬなんて最悪だろ。……ちょっとあいつは怪しいと思っている」
トマトは声をひそめ、奥の隅にいるアボカドを見やった。黒っぽく、皮もツヤを失ってひび割れかけたアボカドが転がっていた。「だからお前ら、できるだけ良い状態で長生きしろよ。そこの兄ちゃんなんかよ、今は綺麗なんだから。そのままサラダにでも使ってもらえよ」
僕の下にいるお兄さんはふるりと体を震わせた。綺麗と言われた喜びなのか、食べられることへの恐怖なのかは判断がつかなかった。
僕はぼんやりと理解した。
——美味しい料理になって食べてもらう。それが、至上の喜びなのだ。
*
徳用きゅうりの袋は七本入りだったと記憶している。
二日経って今は、四本になった。
その日の内に、やはり僕の下にいたお兄さんはサラダになった。お兄さんが使われたおかげで袋の口が開いて、いくぶんか呼吸もしやすいし、何より袋が広くなった。
先輩風を吹かせていたトマトもお兄さんと一緒にサラダになったそうだ。毎日のように野菜室を出入りする醤油さんが言っていた。トマトはたいそう幸せそうで、生で使われたことを誇りに思っていたようだった。生のまま食べられることは、新鮮で美味しい証拠なのだそうだ。
きゅうりはほとんどが生で食べられる野菜だから、その点僕たちは幸せの度合いが高いのかもしれない。
「気をつけなさいよ」
袋の中で身を寄せ合っている僕たちに麺つゆさんは言った。「あなたたちの場所、冷風が直接かかっているから。あんまり乾燥しすぎると早く傷むでしょう」
次に野菜室が引き出された時、その運動エネルギーを利用して僕たち残りの四本は袋を押してゴロゴロと転がった。くし形に切られた大きなスイカが取り出された分、室内が広くなったのだ。スイカは誰にともなく「あばよ」と言って明るい世界へ持ち上げられていった。
「ママ、早く切って! スイカ、スイカ」
子どもの声が聞こえた。他に出て行く野菜がないところを見ると、食事の時間ではなさそうだ。
トマトの言う通りだとすれば、生でそのまま食べてもらえる上に、食事でもない時間に自分だけが主役になるスイカこそ至上の喜びを手にした、世界一幸せな野菜だ。
ただ生でそのまま食べてもらうには、スイカは新鮮で美味しい状態を常に保つ必要がある。
例えばトマトは劣化しても、煮込めばなんとかなる。そこで美味しくなれば一発逆転だ。
劣化したきゅうりは何になるのだろう。
浅漬けだろうか。
*
僕の隣にいたのは下ぶくれの元気な子だった。きゅうりのくせにひょうたんみたいにくびれて、下半身だけが太くなっている。
「やっぱり普通のサラダだと同じ大きさに揃えて切りやすいあのお兄さんだったんだろうなぁ。俺はなんなんだろう。細かく切ってチョップドサラダにしてくれれば良いんだけど」
ははぁそうか。切り方によっては生来の形を気にしなくて良いのか。
僕は自分の湾曲した体を見下ろした。美しく弧を描いているならまだしも、片方の先端に近い方だけがひょっこりと頭をもたげているように曲がっているものだから、どうにもバランスが悪い。調理する人間は見栄えというものをどこまで気にするのだろうか。
「まだトゲだって硬いし、新鮮だよ。買われてから二日しか経っていないんだ。大丈夫さ、君なら」
僕は彼のトゲをヘタの部分で擦りながら言った。下ぶくれくんはくすぐったそうに笑った。
また野菜室が引き出されて、僕たちの入った袋がそっと隅に押しやられた。代わりに何かが入ってきて、さっきまで僕らがいた場所を占拠する。
「あれ、またスイカじゃねえか」
同じように押しやられ、長い体を持て余すように捻じ曲げ壁に押し付けている長ネギが言った。
スイカは、大きなくし形から更に半分に切られ、三角錐のような形になっていた。
「参ったね」
小さくなったスイカがため息をついた。「食べるなら食べるで、一度にみんな食べてくれればいいのにな……スーパーで八等分にされて、ここでもまた半分で。まあさっき子どもたちが、甘いだとか美味しいだとか、言ってくれていたのが聞こえたからまだ救われるね。明日には食べ切って欲しいよ」
「でも、感想が直接聞けたのは羨ましいな」
上から声が降ってきた。野菜室の上部についた浅いスライドケースに乗っているミョウガの声だった。「私たちは小さいから、すぐ使われてなくなっちゃう」
「そっちの方が良いと思うけどね」
スイカはフンと鼻を鳴らした。スイカに鼻がついているかはわからないけど。
「あなたたちが美味しいって言われているの、私は知っているわよ」
麺つゆさんがミョウガを慰めるように言った。一リットルのボトルで、引き出しの手前の方に立っている麺つゆさんは上下の棚どちらにいる野菜とも仲が良かった。醤油さんと同じく、野菜達と一緒に外へ出ては少し使われて帰ってくるから、外の世界の話をよくしてくれていた。「そうめんやお蕎麦の時に、一緒に使われているでしょう。良い香りだって喜ばれているのよ」
「それなら、嬉しいなあ」
ミョウガは、サラサラと皮を擦り合わせて笑った。
「俺たち、どっちが先に使われてもさ」
下ぶくれくんが僕に囁いた。「麺つゆさんか醤油さんに、食べた人たちがなんて言ってたか教えてもらおうぜ。残った側がその感想を聞くんだ。そしたら、食べられた方も嬉しいし、残った方も、自分がそうなるってわかるだろ」
「それは良いね」
僕は感心して頷いた。「みんなも、どう?」
同じ袋に残っていた他の二本のきゅうりに声をかけると、三日月形の綺麗にカーブした方は嬉しそうに笑い、短くて真ん中だけ細くなっている方は口を尖らせた。
「どうせ、僕はあんまり美味しくないだろうから……」
「あら、見た目で決めつけちゃダメよ」
三日月形のきゅうりが言った。「私だってきゅうりとしては不格好なのよ」
「でも綺麗なカーブだ」
僕は先端の方だけ曲がった首を彼女へ向けた。「僕よりはいい」
「ありがと。あなたもキュートだわ」
彼女の言葉に、僕は少しびっくりして何も言えなくなってしまった。
「——なあ、盛り上がっているところ悪いけど」
醤油さんのからかうような声が聞こえた。「それってつまり、俺たちに何か言うことがあるんじゃないか?」
「お願いします」
いち早く下ぶくれくんが床に這いつくばるように倒れて頭を下げた。僕たちも慌てて続いた。
「僕たちと一緒に料理に使われたときは、僕たちを食べた人間の感想を教えてください」
「お願いします」
「お願いします」
醤油さんと麺つゆさんは上の方で顔を見合わせて笑ったらしい。
「そんなの、お安い御用よ。この人がちょっとからかっただけ」
麺つゆさんは醤油さんを小突いて、僕たちに笑いかけてくれた。
*
下ぶくれくんと短い子はその夜に使われた。二人一緒だなんて、と少し驚いたけど、さらに驚く知らせを醤油さんがもたらしてくれた。
「きゅうりって火を通しても食べられるんだな。生食が普通かと思ってたぜ」
「どういうことです?」
「いや、彼らな。きゅうりの。さいの目切りにされて。にんじんと玉ねぎと、それからじゃがいも、鶏肉と一緒に炒められて」
醤油さんはにこにこして言った。「豆板醤と俺もちょっと使われて。最後にカシューナッツを加える」
「それって?」
「宮爆鶏丁……クンパオ・チキンって呼ばれる中華料理だとよ。食卓には餃子もあってな。今日は豪勢だったな」
「餃子だって? 俺は使われていないぞ」
奥の方で長ネギが唸った。
「最初から具も包まれている冷凍かチルドかの餃子でも使ったんだろうよ」
醤油さんが面倒そうに答えた。「それか惣菜」
「惣菜か……あいつらはプロに使われるから良いよな、絶対にうまいもんな」
「あら、手作りだって負けないわよ。現にそのクンパオ・チキン? は、美味しかったんでしょう?」
「ああ、喜ばれていたようだよ。特に大人の男がビール片手に」
「ほら見なさい」
麺つゆさんの勝ち誇った声に、長ネギは肩をすくめた。
「別に悪いとは言っちゃいねえよ。でもあれだな、最近忙しいよな。一日の間で何回も引き出しをガチャガチャやられてたまったもんじゃないぜ」
「子どもたちが夏休みだと言っていたよ」
「ああ、それで昼間もしょっちゅう料理しているのか」
長ネギが頷いた。「明日あたりに、俺も使われてえな」
「それは、みんなそうだよね……」
急に僕は心細い気持ちになった。彼らが美味しい料理になったのは嬉しい。生食されなくても、僕たちが料理として食べてもらえる可能性が広がったのも嬉しい。
それでもやっぱり、周りの野菜が使われていくのを横目に、徳用大袋の中で次第に萎びていく自分が怖かった。
*
「ああ、こっちの方が良いんじゃない?」
急に野菜室が引き出され、僕たちの入った袋が取り上げられたと思ったら、僕の体は人の手につかまれていた。二人の人間が、僕を真ん中にして話していた。
「そうだね、こっちの方が良い形してる」
「じゃあ取っておこう」
そう言って、僕をつかんでいたその人は、僕の体をスライドケースの方へ入れた。ミョウガが入っている、野菜室の上段の引き出し。
三日月形のきゅうりはひとりで下の段に戻されたらしい。袋からは出されていて、僕たちを包んでいたあの袋はもう捨てられてしまったようだ。
「良い形……?」
僕はドキドキしながらスライドケースに体を横たえた。三日月形の彼女の方が、よほど美しいと思っていたのに。
また野菜室が開いた時、今度はラップに包まれたナスがひとり入って来た。僕と同じスライドケースの中に。
「やぁ、よろしく。ちょっと息苦しいね、ここ」
「うん、まぁ君の状況ならここじゃなくても息苦しいと思うよ……」
少し太くて平べったいナスの体をまんべんなく包んでいるラップには、黒い線のたくさん引かれたシールが貼ってあった。バーコードだ。それに、「見切り品」の黄色いシールもかぶさっていた。
「僕はもともとバラ売りのコーナーにいたんだけどね。ほら、ここに傷があるでしょ? だから早い段階で見切り品にされちゃって。二十六円だったんだ。ここの家の人が傷を気にしないで買ってくれて良かったよ。地獄に仏ってやつだね」
ナスは表面が茶色くカサカサしている傷を僕に見せた。少し大きくて、二つもついていたから、確かに避けられそうな見た目だった。「葉っぱの擦れた痕なんだ」
「そうなんだ」
僕が頷いた時、また野菜室が引き出され、人間の腕が僕たちのいるスライドケースを素通りして奥の方へ突っ込まれた。
「ああ、そんな」
野菜たちのザワザワとしたうめき声が室内を満たした。人間がつかんで取り出したのは、最初の日に見た黒ずんだアボカドだった。人間の声が降ってくる。
「食べ頃になるまで置いておこうと思っていたら、使うの忘れちゃって。これいつ買ったっけ?」
「知らないよ。切ってみれば良いじゃん」
引き出しが閉じられ、彼らの声が遠くなる。断片的に「ああ」といった落胆の声や「中まで真っ黒だね」「もうブヨブヨだ」と話す声が聞こえ、最後の一言は、野菜室内の全員が息を殺していたせいだろうか、妙にはっきりと、僕たちの耳に届いた。
「ダメだな。もうこれ、捨てないと」
*
夜になったようだった。スライドケースからはミョウガが、下からは長ネギが取り出されていった。
食べてもらうことなく捨てられたであろうアボカドを思って、その日の僕たちは妙に口数が少なかった。だから、可憐なミョウガにも、食べられることを心待ちにしていた長ネギにも、あいさつらしいあいさつを返してやれなかった。
「——今日でお別れかもしれないわね」
唐突に切り出された麺つゆさんの言葉に、僕は目を見開いた。
「どうして、そんなこと」
「ミョウガと長ネギを使うなら、今日のご飯はお蕎麦かそうめんだもの。私はもう、家族四人分のつけ汁に足りるかな、くらいしか残ってないから」
麺つゆさんは、ボトルの底の方に少しだけ残っている我が身を見下ろした。
「お前がいなくなると、寂しい」
調味料仲間の醤油さんがポツリとつぶやいた。「でも全部使い切ってもらうのって、幸せだよな。さっきの彼みたいに、——あんな、あんな風に……」
僕の知る限りいちばん大人で、陽気で、みんなから頼られていた醤油さんが、初めて声を震わせ、言葉を出せなくなった。麺つゆさんがボトルの口を少しだけ、醤油さんの方へ傾けた。
「大丈夫よ。彼だってわかっていたわ。本当に残念だけど、あの人たちも悪気があったわけじゃない。それに私は、捨てられるんじゃなくて、これから使われにいくのよ」
「うん……」
醤油さんはまるで、母親にすがりつく子どものようだった。不安そうな声は、今までより彼を幼く見せた。麺つゆさんはそっと、自分のボトルを醤油さんのボトルの蓋に擦らせた。
「また新しい麺つゆがすぐ来るわよ。まだ夏は続くし、親子丼とか、私にはいろいろな使い道があるんだもの。そしたら新しい子の面倒、見てあげてね。きっとあなた、ここにいる誰よりも長くこの室内にいるから」
「……わかった」
醤油さんは掠れた声をなんとか絞り出した。絞りたて、と書かれたラベルがきらりと光った。
「きゅうりくんとの約束、守れなくてごめんね。あとは醤油さんにお願いしてね」
「そんなことは、良いんです……」
麺つゆさんにとっては幸せなことなのに、寂しいと思うのは僕のわがままだ。
一緒に過ごした三日間が長かったのか、短かったのかはわからない。きゅうりの中で最初に使われたお兄さんはほんの数時間しかいなかったし、醤油さんは僕より長い時間を麺つゆさんと共にしていたんだ。
「……今まで、ありがとうございました」
その後すぐにまた野菜室は開いて、円錐形になったスイカも三日月形のきゅうりも、麺つゆさんと一緒に出て行った。
そして誰も、帰って来なかった。
*
昨日入ってきたばかりのナスは同居人として最悪だった。
「僕も結局捨てられちゃうと思う? なんで見切り品だってわかっているのに買ったんだろう」
おろおろとスライドケースの中を転がり、「それに、昨日のうちに使ってくれなかった!」
と、神経質に騒いだ。僕は丸みを帯びてもはやトゲとも呼べなくなった自分の体のブツブツを見下ろす。
麺つゆさんに言われた通り、冷風が直接当たらない場所を選んで過ごしてきたからまだそんなに品質は落ちていないはず。それに昨夜、わざわざ選り分けたということは、使う予定があるってことだろうし。
でもそれなら、なぜ昨夜は三日月形の子が先に使われたのだろう。
何を考えても結局はこの疑問にぶつかり、泣きそうな気持ちになる。僕が最後だった。僕は、最後まで使われなかった。何が悪かったんだろう。外見でしか判断されないなら、やっぱり見栄えが良いものしか食べてもらえないのではないか。
ではなぜ、隣にいるこのうるさいナスは、二つも傷があるのに買われたのだろう。
昼ごろ、ナスの騒々しさはピークに達した。家の人たちが買い物から帰ってきたのか、野菜室内にたくさんの食材が持ち込まれ、その中に三本入りのナスの袋があったからだ。
「なんで僕がいるのに、またナスを買うの?」
「君だけじゃ足りなかったんじゃないかな、ほら、麻婆茄子とか」
「あいつら細長くてスタイリッシュな長ナスじゃないか。僕とは感性が合わない!」
僕は宥めるように言い聞かせたが、ナスはその太い体を包むラップの中でヘタを振り回して暴れていた。
僕は醤油さんと目を見交わしてこっそりとため息をつく。何でもいいから、早くこの場所から出たい。もう美味しい料理になるとか、生のまま食べてもらえた方が幸せだとか、そんな話をしていたことさえ遠い昔に感じる。
自分の存在意義を疑問視しながら、この薄暗い野菜室に閉じ込められている状況から、ただ逃げ出したかった。
しばらくして、暴れる元気さえなくなり、ただすすり泣いているナスを無視しようと体を反転させた瞬間、野菜室がまた開いて、スライドケースに手が伸びてきて。
僕とナスが取り出された。
***
結論から言うと、僕は人間に食べてもらえなかった。
料理にもならなかったし、体を切られることもなかった。
ただ、僕の胴体には四本の、短く切られた割り箸が刺さっている。
隣のナスにも、同じように。
「すごい、やっぱり見栄えがいいね」
「こんな動物っぽい形したきゅうり、よく見つかったよな。めっちゃ馬」
「ナスも牛っぽくていい感じだよ」
今までほとんど腕しか見たことのない人間たちに見つめられるのは気恥ずかしかった。
僕はナスをそっと見やった。ナスは緊張しているのか、恐怖なのか、それとも他の何かの感情なのか、新たに生えた四本足でまっすぐに立ったまま、ブルブルと震えていた。
精霊馬、という習わしらしい。
後になって、僕の背中に乗った人が教えてくれた。
よくはわからなかったけど、そして自分が人間と話していることにも驚いたけど、とにかく僕はこの人を背中に乗せるのがお役目だったそうだ。
知らない間に何千キロも走ったかのように疲れていた。
すぐにでも意識を失いたかったけれど、僕はこのまま何日間か飾られるらしい。隣にいるナスも、その後で僕と同じような役目があるのだそうだ。
野菜室とは全然違う外の世界は広くて、明るくて、暑くて。そして細くたなびく煙から、不思議な香りが漂っていた。
「ありがとうね」
僕の背中から降りた人は言った。「毎年、毎年、きゅうりさんとナスさんにお世話になっているね」
「いいえ」
もちろん僕は、前の年のことも、その前のことも知らない。
ただ何となく、嬉しかった。
*
僕たちの至上命題は、美味しく食べてもらうこと。
その為に生まれて、その為に鮮度を保ったり、追熟させたり、いろいろな方法で生きていく。
畑から食卓までの間に、さまざまな人間達の手を介して、たくさんのことがあって。
そうして最後に「いただきます」「ごちそうさま」があって、僕たちの命は完結する。
それはとても幸せな、これからも続いていく営みで。
僕たちはみんな、そうして命を繋いでいる。
*
何日か経った。
ナスと僕の飾られていた棚も片付けられた。
いいかげん水分も抜け、すっかり萎びて黒ずんだ僕の体から割り箸が抜かれ、生ごみの箱に投げ入れられた。
そして、僕に向かって両手を合わせている人間の顔が見えた。
目を閉じて、少し微笑んで、「ありがとう」って言っていた。
たぶん、たぶんだけど、そこには美味しく食べてもらって「ごちそうさま」と言われたくらいの、何かがあったんだ。
四角く切り取られた明るい景色の向こうでその人が立ち去り、ふたが締められた時。
真っ暗なゴミ箱の中で、他の何十、何百という命のかけらの中に自分が横たわった時。
僕は確かに幸せな気持ちで、目を閉じた。
Kitchen 浅池 @asaike
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