チンパンジーに進化してる

中辛バーバリアン

夏休みの宿題が自由になったときの話

 ゲームをしに友達の家まで出掛けて、飽きたら外へ出かける。燦々さんさんときらめく太陽を背に、泥だらけの靴で駆け回って、夕方のチャイムで帰路につく。

 昼の休憩時間中、オフィスの窓ごしに見える入道雲を眺めながら、少年の頃の夏休みを思い出す。



 ***



 小学5年のときであった。夏休みまで残り2週間をきったころ、担任の一言でクラスが沸いた。



「夏休みの宿題は自由! 事前に計画を立てて、自分にあった目標を決めること!」



 片田舎の、どこにでもあるような、公立の小学校である。なかなかに開明的かいめいてきな取り組みだったと思う。クラスはにわかに色めき立ち、来週のクラス会で各自夏休みにやることを発表しましょう、となった。


 その日、私は家に帰るやいなや、ノートとカレンダーを引っ張り出し、白紙のページに予定を書き込んだ。ノートにはびっしりと、殴り書きの数字が並んでいた。



 週はすぐに明けた。

 発表当日、一人ずつ黒板の前に立って発表していく。



「ぼくは漢字練習帳を1冊やります」

「わたしは計算ドリルを2冊やります」



 おそらく、当時の担任としては生徒たちのやる気や発想というものを期待していたのだと思う。しかしながら、小学校高学年ともなればいやしさ十分にも育つころ。皆、普段の夏休みよりもゆとりのある目標を設定してきた。

 小学生の浅知恵を目の当たりにして、担任の表情はみるみる暗くなっていった。


 発表も終盤に差し掛かったころ、ついに私の名前が呼ばれる。

 私は左手にノートを抱えて登壇とうだんすると、周囲をぐるりと見渡した。担任の顔はそれはもう曇りに曇り、クラスメイトたちもすでに不穏な空気を感じ取っているようだった。


 しかし、クラスの雰囲気とは裏腹に、私の目は自信に満ちあふれていた。



「ぼくは夏休みに漢字練習帳をやってきます!」



 これまでの発表ではるいをみない量である。相場からすると5~10倍。当然クラス中の視線が私に集まる。

 今思えば、所詮しょせん普段の宿題の域を出ない独創性皆無どくそうせいかいむの目標なのだが、当時の私には誰よりも綿密な計画を立てたという自負(勘違い)があった。

 左手のノートに目を落とす。ノートの一面にびっしり記された計算式が目に入った。



「1日24時間のうち10時間寝るとすれば、起きている時間は14時間。うち半分を遊び時間に充てて、7時間は勉強できる。200字詰めの漢字ノート1ページを終わらせるのにいつも60分掛かっているから、1冊にかかる時間は30時間……」


 ノートに書かれた計算式をもとに、早口でまくし立てる。気分はまるで天才物理学者ガリレオ



 私が公演を終えると、教室は静まりかえっていた。

 達成感と不安の入り混じる顔で恐る恐る周囲を見渡す。



 ──担任と目が合った。



 担任はしんとしたクラスメイトたちの方へ顔を向けて、声を震わせた。



 なんて素晴らしい意気込みでしょうか。皆も見習いなさい。折角の夏休みの宿題を自由に決められるのだから、いつもと同じではダメでしょう。


 そうして、クラスの発表会はやり直しという形で来週へ持ち越しとなった。

 もちろんクラスで唯一、水準を満たした私だけを除いて。

 この日、私は終わることのない賛辞を浴びるのだった。


 翌週、二度目の発表が行われると、漢字練習帳を1冊やるといった子の目標は2冊に増え、計算ドリルを2冊やるといった子の目標は3冊に増えていた。

 それでも9冊やるという馬鹿は居なかった。



 夏休みに入って数日も経たず、私は計算式の欠陥に気がつく。

 食事の時間が遊び時間としてカウントされているのだ。刑務所ですら食事の時間と自由時間は別物である。食事は団欒だんらんの場ではなくなった。

 また、計画では疲れが考慮されていなかった。腕が痺れようが、目が乾こうが、集中力が途切れようが、常に一定のペースで成果を出さなければならない。

 さらに、休みの日などというものも設定していないので、仮に1日でも宿題を出来なかった日があれば、その翌日は14時間分の宿題をする必要があった。



 ──無理である。



 夏休みも一週間が過ぎると、日が登ってから沈むまで遊びに出かけて、帰って来たら夕飯を食べ、お風呂に入って、ぐっすり眠る。そんな幸せな日々を過ごしていた。本棚の漢字練習帳は表舞台から姿を消した。



 いつの間にか夏休みも終わり、成果発表の時間になっていた。

 日に焼けたクラスメイトたちが一人ずつ黒板の前に立って発表していく。きつね色の肌が何だか満足げに見えた。


 発表も終盤に差し掛かったころ、ついに私の名前が呼ばれる。

 私はかすれた声で返事をして席を立つ。2冊目途中で書き込みの絶えた漢字練習帳をたずさえ、ゆっくり処刑台に登っていった。



 ***



 連日猛暑の灼熱しゃくねつなかをしなびた社会人たちが歩いていく。アスファルトの反射光が強くなってきたので、私は窓から離れて自席に戻った。

 進捗報告しんちょくほうこくの昼礼まで残り10分。昨日までに終わらせるといった仕事はまだ終わっていない。

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