びよういんこわい

 「地震 雷 火事 親父」 という言葉をご存じでしょうか。この世の恐いものを順に並べた言葉。地震や雷、火事といった災害に肩を並べるほど、かつては親父の存在がおそろしかった。とはいえ、いまや無口で頑固な親父なんて絶滅危惧種でしょう。娘に尻尾をふるのが時代の潮流ちょうりゅうです。かくいう私の父も環境に適応したタイプなので、火事の次に親父はあげません。


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 私にとって火事に並ぶほど恐ろしいものと言えば、「美容院」でございます。オシャレな方々には理解しがたい感情でしょうが、田舎出身の朴訥ぼくとつな男にとっては極めて恐ろしい存在です。



 東京の大学に入って1年以上が経過したころ、周りはどんどんオシャレになっていきました。

 一方の私はといえば、高校の部活で愛用していた通気性の良い白の半パンに、これまた部活で愛用していた速乾性の黒の半袖を身にまとうという、代わり映えのない格好をしていたわけです。また、それを見かねた妹から、床屋から美容院へのシフトチェンジを執拗しつように進められている時期でもありました。



 ある日、ふらりと出かけていた私は一軒の美容院の前を横切ります。

 深緑の街路樹に囲まれた、一面ガラス張りの、キラキラとした美容院。

 普段であれば、お洒落なオーラで目がやられてしまうので見向きもしなかったでしょう。しかし、店舗前の黒板に書かれた「1500円」の文字が目に入ってしまった。


 ──なんて安いんだ。いつも行っている1000円カットと500円しか変わらない。


 そうして、川を流れる葉のように、私は美容院へと吸い込まれていきました。



 扉の先へ一歩足を踏み入れると、人生で嗅いだことのないかぐわしい香りと、ピカピカの白い床に囲まれます。さらに奥から背の高い美男美女が押し寄せてくる。


 早くも場違いだと思いつつも、もうあとには引けません。案内されるがまま革製の椅子に誘導され、記念写真の台紙のようなメニューを渡されます。


 「ゴールドコース」「プラチナコース」「ダイヤモンドコース」、名前を見ても意味不明。

 加えて値段を見てびっくり。メニューには予定と桁一つ違う金額が。

 入った瞬間になんとなく察したものの1500円ではないということをこのとき確信します。



「と、とりあえずブロンズコースで」



 心の中で悲鳴を上げながら、震える声でメニュー表の一番安いコースを注文します。

 しかし、困難な局面はまだ追いかけてくる。



「今日はどんな感じになさいますか」



 明るく軽やかな声が私の脳内を反響していきます。

 ここで素直に教えを乞えば、まだ救いはあったのでしょう。しかしこのとき、「美容院初心者だと思われたくない」という私の下らないプライドが邪魔をします。



「横短め、上半分くらいで」



 澄ました顔で私がそう告げると、美容師は少し呆気にとられた表情。

 1000円カットの常套句じょうとうくもここでは通用しないのか。



 散髪が始まると、場に似つかわしくないバリカンの音が鳴り響きます。

 美容師は何をトチ狂ったかパリコレの話をしている。目の前のじゃがいも学生を見てほしい。どこからどうみても縁がない。


 やがて横側を刈り終え、バリカンの音が止みました。


 鏡の向こうには垂直に角刈りを伸ばす、スラムダンクの一巻の赤木剛憲が。

 

 この段階になると私はおろか美容師の方も動揺を隠せない。饒舌だった口も次第に固まってゆく。


 「上のほうをもう少し切りましょうか」

 「お願いします」

 「全体的にもすこしだけ整えましょうか」

 「お願いします」


 このやりとりが続くこと数回。最後に整髪剤をつけて何とかしようとするものの焼け石に水。ブロンズコース8500円を掛けて完成したのはバリカン坊主。



 初心者なら初心者らしく、謙虚に振る舞いましょう。

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