第3話 覚悟

 数こそ少ないが、近世ヨーロッパを彷彿させるアンティーク調の家具が並ぶ部屋で、黒のワンピースに、ヘッドキャップと同じく白のフリルがついたエプロンを着たナンシー・ディミティに──私は究極の二択を迫られていた。


「そんな、無茶です!」私は叫んだ。「私はこの男が、どんな人間かも知らないんですよ。すぐバレるに決まってます!」

 対するナンシーは至って冷静だ。

「無茶かどうかは問題ではありません。ジェラルド様は──このことを見越しておられました。そして、私に仰ったのです。『俺を殺せ』と」

 え──。

 ジェラルドは知っていた?私がこの体に乗り移ることを?そしてナンシーに、自分を殺すように言った──。

「あの時は私も──珍しくご冗談を仰るとしか、思っておりませんでした。まさか、本当に現実に起きるなんて──」

 ナンシーは、私を見る。

「しかし、これが現実であるというなら、ジェラルド様の不在はすなわちこの国の破滅。そう簡単に諦めるわけにはいきません。それなら足掻くしかありません。例えそれが愚策でも、同じ破滅を行くなら、やるしか手はありません。そう申し上げると、ジェラルド様は好きにしろ、とおっしゃいました」

 この国の破滅か。それとも。

 ナンシーの目に、私が映っている。その瞳には恐れは映っていなかった。ただ、断然たる決意だけが光っていた。

「どちらにしろ、私にはただ手をこまねいて国が滅びるのを待つ、という選択肢はありません。私に殺されるか、それとも、ジェラルド様に成り代わって国を執政し、滅びるまで足掻くか」

 殺されるか、生き延びて茨の道を進むか。

 いやあるいは、即刻死ぬか、緩やかに死んでいくかのどちらかだけなのかもしれない。

 しばらくの沈黙が流れ、ナンシーが、ふ、と息を漏らす。そして少しだけ、表情を和らげた。

「この場で、理詰めだけでお話するのは、それこそ愚策だったかもしれませんね。ジェラルド様の悪い癖が移ってしまったようです」

 そう言って、ナンシーはそっと私の手をとった。冷んやりと冷たい手だった。

「今お話ししたことは嘘ではありません。本当のことです。ですが、これが私の本音です、ジェラルド様」ナンシーは彼に語りかけるように囁いた。「私は、ジェラルド様が戻って来られる可能性を捨てきれません。もうお会いできないなんて、寂しすぎますわ。私を置いて行ってしまうなんて、ひどいです。だから、」ぎゅっと、両手を握る。「ジェラルド様がいつか戻って来られるまで、この国を守ってください。あなたにしかできないのです──あなただけが、頼りなのです」

 ああ、私は、このために。

 腹の奥が何だか熱くなって、急速に胸に迫り上がってきた。心に積もった膿が押し出されて、空いていく。そしてそこに、底からあたたかいものが染みて満たしていった。

 心と頭が、浄化されていくようだった。それは、たまたま早起きして朝焼けを見た時の感覚に似ていた。世界が輝いて見える、あの瞬間。

 目を閉じて、心に決める。大きく息を吸って吐いた。

 彼女にここまで言わせる、彼の意志を継ぐ。ここで生きていく覚悟と勇気を持って。

 私の生をここから始める。

「……いくつか、条件があります」

「……!何なりと」

 ナンシーは、泣きそうな顔で、嬉しそうに微笑んだ。その顔を見て、再度腹の底を引き締めた。

「やるからには、責任を持って、やり遂げます。私はあなたに、それを約束します」

 目の前の彼女と、私自身ジェラルドに。

「はい」

「だから、約束してくれますか。目標は、彼をこの体に戻すこと、それと、戻るまでこの国を支えることです。それを、あなたは全力でサポートすると」

「もちろんでございます。私は、そのためにジェラルド様のそばにいるのです」

 そして彼女は私の手を取ったまま跪いた。

「この命を拾っていただいたあの日から、私は生涯、この命消えるまでジェラルド様にお仕えすると、心に決めております」

 ちょうど雲に隠れていた陽が差して、彼女と私を結ぶ手を照らした。

 この男は、幸せだなと思った。こうやって、自分を必要としてくれる人間が、そばにいる。

「疑わないのですね」私は言った。ナンシーが顔を上げて私を見る。「私がどんな人間かあなたは何も知らないのに。もしかしたら、この身体で私利私欲を貪るかもしれない。あらゆる権力を行使して、罪のない人民を虐げるかもしれない。ジェラルドに扮して、あなたを弑してしまうよう命じるかもしれない。それなのに、あなたは私を疑わないのですね」

 ナンシーは立ち上がって、確かにそうですね、と呟いた。

「私はあなた様のことを、何も知りません。だけど──不思議ですね。見目がジェラルド様だからでしょうか。でもそれだけじゃない気がして」

 ナンシーは私を見つめた。優しい瞳で。

「あなた様とジェラルド様は、どこかとても、似ている気がするのです。だから私は、信じてしまうのかもしれません」

「似ている、私と彼が?」

「──はい。特に、光を灯したその瞳が」

 ナンシーが窓際に近づく。そして、振り返った。

「そういえば、まだあなた様のお名前を伺っておりませんでした。教えていただいてもよろしいですか。ジェラルド様になっていただくとはいえ、あなた様のことも、覚えておきたいのです」

 私は頷いて、自分の名前を口にした。あっちの世界での、名前を。


「私の名前は──…」

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