果てのノア

 細胞復元剤が手に入ったのは男と女にとって幸運な事だった。


 復元剤の量はざっと見積もって二週間分、目的地までの距離を測っても一週間、有り余る量だ。心に余裕が出来た男は、女を背負いながら歩く速度を早めること四日、目的地である巨大なドーム状の建物に到着した。


 分厚い合金製の外壁に、特定の生体情報を持つ者しか入場を許さない最高強度を誇る生体認証装置の扉、半恒久的に供給される無尽蔵のエネルギー供給と自動食料生産供給施設は大戦後自然が生命種に適する状態に復元するまで稼働し続けるよう設計されており、此処には全ての生命がその種に応じたカプセルに収納され、復活の日を待ちわびている。


 ノアの箱舟、プロジェクト・アース、リザレクション・プログラム、命の箱、様々な名称で呼ばれるその建物に辿り着いた二人は、興奮した面持ちで生体認証を登録すると、人間が生きるのに最適に設定されたドーム内へ足を踏み入れる。


 「こっちです、此方へ」


 男の背から降りた女は、この場所の地図が頭の中に入っているかのように通路を迷いなく踊るように歩き、右へ、左へ、輪舞を踊るように曲がり、何の変哲もない壁の前で立ち止まる。


 「此処には全ての命が生きています、今か今かと待ちわびています、命は明日を目指す為生きているのです」


 女が壁をそっと撫でると緑のラインが奔り、音も無く壁が横に開き地下へ続く階段が現れた。嫌な……とてつもなく嫌な予感がする。


 「感謝しています、貴男にはどれだけ感謝しても感謝しきれない恩があります。命を救うべく生きねばならない私を愛してくれたこと、ただの部品である私を生かしてくれてくれたこと、人として扱ってくれたこと、感謝しています、名も無き人」


 暗闇の中へ進む彼女は星々の煌めきに似た笑顔で、寂しげに笑う。止めなければならない、何故かそんな気がした、止めなければ己は壊れてしまう、致命的な損傷を受けてしまう。手を伸ばし彼女の身体に触れようとしたがそれは空を切り、虚空を掴んだ。


 「明日を貴男へ捧げましょう、未来を命へ与えましょう、大丈夫、きっとまた、会えるから、だから悲しまないで」


 バランスを崩し真っ逆さまに奈落へ転落する。闇の中を転げまわり、彼女の囁くようなおも哀しい声が誘うその先へ、ただひたすらに落ちる。


 「どうか止めないで、どうか姿を見せないで、貴男を見てしまえば―——私は」


 痛み、全身が痛み、眩暈がする、麻薬と薬物で抑え込んでいた痛覚が今になって顔を覗かせ肉体の制御権を剥奪した。回る視界の中、一つの巨大な機械が目に入る。


 それは樹木に似た巨大な機械、九つの制御装置を携えた機械は鼓膜を震わせる駆動音を発しながら、大の字で倒れている男を見下ろしていた。


 思い出した、思い出してしまった、記憶の彼方に摩耗され塵に埋もれていた施設の名を今となって思い出す。此処は、此処には、来てはいけなかった。


 よろめきながら、苦痛と激痛に悲鳴をあげる肉体に鞭を打ち、再び立ち上がる。ケーブルの何本かは先ほどの落下の衝撃により断ち切れてしまったが、生命維持ケーブルは生き残っている。捜さなければ、彼女を此処から連れ出さなければ、逃げてきた意味が無くなってしまう。


 「———」


 人の気配、彼女の気配を感じ、樹の根元に視線を寄越すと、今にも始まりの装置へ身を入れようとしている彼女を見つける。


 声にならない声を張り上げ、転びながらも女の下へ走る。明日を得たいと願った彼女の下へひたすらに走るが、疲労により弱った身体は心について行けず、間に合わない。一度、此方へ視線を向けた女は何時もの悲しそうな笑みを男へ送り、装置へ身を委ねた。


 

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