幻覚
雪が降る。細かな雪がチラチラと降り積もり、痩せこけ荒れた大地を白に染める。
幾数日、女は半日以上眠る日が多くなり、食事や水分を摂取出来る日が少なくなっていた。元々痩せ型だった女はみるみるうちに肉が減り、骨張り、肌艶も酷くなってゆく。栄養が不安定、細胞も再構築出来ず弱り、ガスマスクと免疫機能活性剤が無ければ風邪一つで死の危険があった。
女を背負い、白の中を歩く男は初めの頃よりずっと軽くなった彼女へ涙し、歯を食いしばりながら白の荒野を行く。目的地まではまだ距離がある。其れまでに、何とか補給施設か科学施設を見つけなければならないが、そんなものは影一つ、欠片一つ見つからない。絶望―――その単語が男の思考を支配した。
暫し歩を進め、疲労に喘ぐ。足が鉛のように重い、視界が霞む、喉が痛いほどに渇き、頭が割れるように痛む。それに……嫌な声と姿が見える。
何故人間一人に此処まで括る。
命は無価値、お前が言っただろう。
死ねばよかった、死ねば楽になれた、だから死ねばよかった、お前が死ねば大勢が生きられたんだから。
仲間など不要、不要なものは切り捨てて然るべきなのだ、そうだろう。
明日を紡ごうとするから死を恐れる、期待しなければ、未来を見なければ死は救いなのだ。
多種多様、全て別々な人種で現れる姿は何か―――知っている、知っているから、恐ろしい、全員の全てを知っている故に、男は声とその者達に恐怖する。
呪いを吐き、己を責立てる者は自分、精神の中に生きる別々な自分が己を責立てる。孤独を分かち合った独立した人格が過ちを犯した己を責立てるのだ。冷徹で、冷酷で、合理的な判断を下す狂気の仮面が、般若のような、鬼の面貌を被った者達が再び肉体の主導権を取り戻そうと、呪いを吐く。
今死ねば楽になれる、一人で生きて、一人で死ぬのも変わらない、どうせ終わる世界だ、自分が死んでも世界は終わりを迎える。そうだ、死ねばいい、楽になれる、この苦しみが溢れた世界と共に死ねばいい。この生命維持ケーブルを引っこ抜けば、楽になれる。手を伸ばし、ケーブルを抜こうとした矢先、か細い声が聞こえた。今にも消え入りそうな声、彼女の声。
「……死んでは……いけ……ませ……ん。……あな……たは、いき……て」
生きて、生きて、生きねばならない、背負った女が望んだならば、生きて生きて生き抜かなければならない。彼女の言葉には従おう、己の中の誰かが叫ぼうが従おう。どれだけ呪いの言葉を吐かれてもいい、己の全ては彼女なのだから。男にとって女の言葉はどんな呪いよりも強力な呪い、或いは祝福、故に従う、言葉に従う。
頭を振り、精神安定剤と輸液、麻薬をケーブルを通し肉体全体へ投与する。活力が漲り視界が開け幻覚が景色と同化する。命を削っても構わない、この命は女のためにあるのだから構わない、自分がどうなろうとも彼女が生きていれば、命を繋げれば生きていた意味を見いだせる。男は開けた視界で、周囲を見渡すと崩れかけた建物を発見する。科学研究施設、絶望と疲労に晦まされた視界から発見出来なかった建物を見つけた男は、力の限り足を進ませ、建物へ向かった。
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