第2話 リガ市内(午後)

 2人の負傷兵をリガの飛行場に運び、移送や整備、補給をしている間に、一走りヤコブの店に顔を出す事に決めた。

 リガの飛行場は市街に隣接しており、しかもヤコブの店のある地区と近い。また、夏の夜は長いため、多少遅れていても明るいうちにプスコフに戻れる。


 市街はゴーストタウンのようだった。

 とにかく人気ひとけがない。石畳の街路を小走りするハンスの足音がよく響く。この街路が、かつて人々の雑踏に埋もれていたのが夢だったとさえ思える。

 ソ連の占領、ドイツの再占領で減っていた人口だが、残った住民もソ連軍が迫っているのを知って、街から逃げ出した者も多いと聞く。

 バルト=ドイツにとっては3度目の移住になる者もいるし、前回のソ連占領時代の圧政を忘れていないラトビア系住民の中には、同じように西方に逃げたり、ドイツ軍に味方する義勇兵となる者も少なくなかった。

 東部占領省など進駐ドイツ人も、もちろんというか一番に逃げ出している。占領省に接収されていた旧オストワルト邸の脇の街路も通過したが、門は締め切られていて、広い庭には書類でも焼いたような跡があちこちに残っていた。

 ➖ドイツ本国も安全とは限らんけどな。

 海路渡った本国にも西から連合軍が迫っているし、空襲も多い。彼らに安住の地があるのか。

「さて、どうしようか…」

 ハンスにとっても避難先の問題は、他人事ではない。その思いが思わず声に出てしまっていた。


 ヤコブの店にたどり着いたが、店の入り口には「クローズド」の板がかかっている。

 だがこれは想定済みで、店の裏手の通用門に向かう。

 ココン、ココンと、事前に決められた独特なノックで合図すると、間もなく覗き窓のカーテンが開き、「なんじゃ、小僧か」というヤコブの声と共に扉が引かれた。

「なんじゃとはご挨拶だな。せっかく来たのに」

「ふん。生憎じゃが嬢ちゃんはおらんぞ」

「どこ行ってる?」

「港じゃ。避難の手続きをしておる」

「そうそう、それなんだけど」

 勝手知ったるように、椅子を手繰り寄せ腰を下ろしながら言うハンス。

「ジサマたちはどこに逃げるつもりなんだ?」

 

 もうナチスドイツは、持たない。

 これはある程度戦況がわかってる者なら、そう見るのが普通の感覚だ。そうでない者といえばヒトラー本人か、彼を盲目的に信じている者ぐらいだろう。

 国家と心中する気などこれっぽっちもないハンスは、いずれかのタイミングで逃げ出すことを考えていたが、その前にマリーヤとヤコブを逃す必要があった。

 とは言え、どこに逃げるかが難しい。逃げる手立ても含めて。

「そこは抜かりない。わしとて、ただのほほんとしてたわけではないわい。いろいろ情報を吟味して、安全に逃げる機会を窺っていたからな」

「そんなこと言ってのんきに構えていたから、俺の家族は行方不明になったんだぜ?」

 苦い記憶。2度も同じ後悔はしたくない。

「大丈夫じゃ。乗るのはスウェーデン船、赤十字の難民救助船じゃからの」

「ふむ、スウェーデンか。それはいい」


 スウェーデンはこの大戦では数少ない中立のヨーロッパ国だ。

 北欧の隣国フィンランドがソ連に攻められた時、同じく隣国のデンマーク、ノルウェーがドイツに占領された時も、助力をせずに中立した。ある意味、見捨てたとも言える。

 そしてドイツがヨーロッパを席巻していた時には、戦争継続に必須な鉄鉱石を安く大量に供給することで媚びを売り、独ソ戦開始時には中立違反を承知でドイツ軍の国内通過を認めた。

 スウェーデンがしたたかなのは、国外にいたスウェーデン船をイギリスに雇用させ、危険な大西洋の物資輸送に参加させたことだ。

 海運国スウェーデンの助力は、大西洋の戦いで多くの船舶が沈められていた苦しい時代のイギリスを大いに助け、その代償としてドイツのUボードの攻撃で少なくない犠牲も出している。

 いわば中立と言いつつ両陣営にいい顔し、外交バランスを慎重に見極めて時間を稼ぎ、その間に国防力を高めたのだ。

 さらに重要なのは、かつての同盟国イタリアが降伏してドイツに宣戦布告、フィンランドもルーマニアもソ連と停戦交渉をしている中、スウェーデンだけは国交を閉ざさず、割高ではあっても鉄鉱石を売ってくれていることだ。劣勢となった現状、ドイツはスウェーデン船に介入できるとは思えない。

 すなわち、安全に中立国に逃げれるのだ。


「しかし、乗船できるのか?倍率、高いんじゃねぇ?」

「だからこそのマーシャじゃよ。今も港に行っておるのはそのためでもある」

「どういう事?」

「あの子の語学能力が買われておるのよ」

 マリーヤはロシア語はもちろん、ドイツ語はもう自由に使いこなしているし、フランス語も通常会話はできるらしい。さらにリガに来てラトビア語をマスターし、続けて英語も勉強したのだという。

「あの子は、ドイツ語とフランス語がわかると英語は難しくないとは言っておったが、数ヶ月であれだけ話せるようになるとは、想像もしとらんかったわ」

「そういや、ドイツ語もすぐに話せるようになってたなあ」

「それに目をつけたのが赤十字のスタッフでな、スウェーデン船だが金をだしてるのはアメリカ赤十字で、英語も現地語もできる嬢ちゃんは重宝されてるらしくてな」

「仕事を手伝う代わりに、優先的乗船権をもらおうって魂胆か」

「わしはもちろん、犬のアドルフまで乗せる特権をもらうんだ、と張り切っておった」

 やや人見知りの面があるが、真面目で何事にも一生懸命な彼女のことだ。皆にかわいがられているのだろう。

「そういやアドルフもいないが、マーシャにくっついていったか?」

「ああ、なんでもあの犬、嬢ちゃんの騎士らしいの。あの可愛さじゃ、変なやからが寄ってこんともかぎらんしの」

「チャラいスタッフに、言い寄られたりしてねぇかなあ…」

「なんじゃ、一丁前にやきもちか?」

「アホか。こりゃ、なんというか…、そう、保護者としての心配だよ」

「まあ、そういう事にしといてやろう」

 いいからかいネタを見つけた、というヤコブの表情が鬱陶しい。


「あー、それで、移動というか避難はいつ頃になりそうなんだ?」

 この話題は分が悪いので話を変えるハンス。

「今月の末から船が来るらしい。後は状況次第らしいが、何度かストックホルムとの間を往復すると聞いた。嬢ちゃんやわしらは最終便まで引っ張られるだろうから、来月末といったとこか」

 スウェーデンとはバルト海を横断すればすぐだ。浮遊機雷などを警戒してゆっくり航行しても、2日あれば着く。

 だが、撤退するドイツ船を狙ってソ連潜水艦が出没すると聞いた。中立のスウェーデン船、赤十字船は本来なら攻撃されないはずだが、視界の取れない潜水艦からだとドイツ船と思われて誤射されることもあるという。

 沈められてから「間違ってました、ごめんなさい」されても命は戻らない。状況を見るとは、そういうことだろう。


「そんなに何度もリガに来るんだな。他の街には行かないのか?」

「そこまでは知らんな。だが、ここリガに何度も来る理由はなんとなく分かる。というか、スウェーデン船が来るという情報自体、から回ってきたものだからの」

「……ジサマ、その話、ここで話しても大丈夫か?」

「なぁに、占領省の連中も特別行動部隊アインザップグルッペンも、一目散に逃げてしまっておるわい。声を潜める必要などないわ」

 長年の憂が晴れたかのような呵々大笑するジサマを、ハンスは初めて見たかもしれない。

 確かに、東部占領省の本部となっていた旧オストワルト邸はもぬけの殻だったし、ユダヤ人狩りに勤しんでいたアインザップグルッペンも、このソ連の攻勢が激しくなっている中で、他の保安警察部隊と共に軍隊に組み込まれている。

 ヤコブのような隠れユダヤにとって、重石がとれて清々した気分になるのはよく分かる。

「その筋…、って事はジサマの裏家業のことか」

「ほとんど本業になりつつあるがの」

「……すると、狙いはカイザーヴァルト収容所?」

「さすがに、いい読みじゃ」

 ヤコブは口の端をくっと上げて続ける。

「スウェーデン船の真の雇用主は、アメリカのユダヤ人じゃよ」


 リガのユダヤコミュニティ、リガ=ゲットーはドイツ軍がこの地を占領するとともに封鎖、のちにその過半は虐殺された。

 だが、その運命を受け入れなかったいくつかのユダヤ人家族は地下に潜った。隠し部屋などに潜み、アインザップグルッペンや保安部隊の目から逃れていたが、彼らに食料などを供給していたのが、ヤコブの裏家業だった。

 そのことをハンスはマリーヤを預けた後に聞き、さすがに驚いた。だが目端の効くヤコブがリガから逃げ出さなかった理由もわかったし、しっぽを出さずにここまでやってきたのだから、大したものである。

 隠れたユダヤ人から代金代わりに受け取った物品を、ゴールドにかえて少しづつ海外に運び出してもいるらしい。その大胆さにも舌を巻く。

 一方、逃げ出さず虐殺もされなかったユダヤ人は、リガ郊外に作られたカイザーヴァルト強制収容所に収監され、隣接する軍事工場や鉱山、農場などで強制労働に従事させられた。

 悪名高きアウシュヴィッツ(現オシフィエンチム)収容所は強制労働も行ったが、ユダヤ絶滅を主眼に置いていた。だが、カイザーヴァルト収容所は強制労働が主眼で、高い塀に囲まれた地域にいくつものバラックが建てられ、隣接した工場や農園で働くユダヤ人たちを何度か見た。リガの空軍基地を離発着すれば、見ないわけにはいかない広大な施設なのだ。

 だが、ソ連軍の接近に伴いここでも撤退準備が進んでる。労働に耐えられそうな者は船で東プロイセンの強制収容所に、耐えられない者は殺処分になるという。


「しかし、これはある意味チャンスとも言える」

 と、ヤコブは話し出す。

「ドイツの連中も手が足りてない中での移送じゃからな。目をかすめて逃げ出せた者も匿っておる」

「危なくね?」

「なぁに、アインザップもいなくなったし、そもそも軍人以外のドイツ人はほとんどおらん。市街には空家も多いしの、匿う場所には事欠かん」

 ユダヤ人に見た目の身体的特徴はない。長い間各地に分散して居住した結果、ほぼ同化している。ユダヤ教という宗教を信じているか否かが「ユダヤ人」を分ける基準なので、ナチスはダビデの星ともいわれる六芒星のマークをつけさせることを強要したりもした。

 裏返せば、マークもつけずに外を出歩いても、見た目で判断出来ないのだ。ドイツ軍人にはユダヤ迫害に無関心の者がほとんどで、今はソ連軍からの防衛で手一杯だし、いくらいても怖がる必要はない。

「殺処分の者もな、看守の道徳心を揺さぶったり、あるいは買収してな、処分された事にして脱走させた者も多い」

 一度買収に応じれば、それをネタに脅迫することもできるからの、と悪い顔で言う。

「まったく抜け目ねぇなあ。そんなんだから、ユダヤはずる賢いなんて言われるんだぜ」

「褒め言葉と受け取っておく」

 ヤコブは涼しい顔だ。

「その話がアメリカのユダヤ人に伝わって、この赤十字船派遣となったわけか」

「嬢ちゃんが重宝されるわけがわかるじゃろう」

 つまり、かくまった多数のユダヤ人をナチスの目を避けながら逃すためのミッションというわけだ。

 カイザーヴァルト収容所には、リガだけでなく周辺地域のユダヤ人やスラヴ人も集められていると聞く。人数把握や乗船リストを作るためにも、現地語をマスターし英語に変換できるマリーヤのような人材は希少価値だろう。


「そうなると大事なのはタイミングじゃ。リガにソ連軍が来るのはいつ頃になるのか、それが分かれば…」

 ヤコブは片目を瞑り、もう片方の目でハンスを見る。以心伝心、ドイツ軍の情報が欲しいという意味なのが分かる。

「軍事機密なんだがな。まあ、ジサマもそこまでぶっちゃけてくれたからなぁ」

 一応の前置きを入れてハンスは話す。

「もうミンスクはダメだな。リトアニアに下がって防衛線を引いているが、どこまで持つか。最終防衛ラインはカウナス➖シャウリィ間と聞いている。

 東ではプスコフ放棄は決定で、地形的な問題もあってそのまま下がらず、ペイプシ湖西岸を北上してナルヴァから南下してくる軍勢と合流のようだ。でも制空権ない中での撤退だからな、どのくらい被害が出るか…」

「そうか…。急がねばならんな」

「まあでも、イワンの進撃速度も鈍ってるから、8月中は大丈夫だろ」

 それまでの損害に加え、大量のドイツ軍捕虜を後方に移送するのにも兵力を使っているだろうから、前線の圧力は減少している。

「頼むぞ。わしらが逃げ出すまでは持ち堪えてくれ。…そして、小僧自身も、の」

「…わかってる」

 死なないように、そして折り合いをみて逃げ出せるように、ハンス自身も準備をしておかなければならない。

「なんとか、ジークを巻き込まなきゃあな…」

「なんじゃ?」

「いや、こっちの話」

思わず漏れた独り言を聞いたヤコブが聞き返すが、説明すると長くなるのでごまかした。








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