7章 1944年6月~8月 第1話 7月 白ロシア北部(午後)

 1944年6月は、ドイツ軍の終わりの始まりと言われる。


 6月初頭、米英軍主体の北フランス・ノルマンディー上陸が開始され、ついに西方からもドイツ国内に連合軍が迫るようになった。

 その半月後、東部戦線中央方面でもソ連軍による大規模攻勢、いわゆるバグラチオン作戦が開始された。

 実は昨年の米ソ英3首脳によるテヘラン会議で、1944年夏の東西同時攻勢は決まっていたことであり、連合国は全力でナチスドイツの消滅を目指していたのだ。


 昨年来のソ連軍の攻勢で、独ソ戦線は大きく西に後退していたが、ドニェプル川上流で湿原帯や森林などの自然障害も多い白ロシアを占領するドイツ中央方面軍は、ソ連軍の攻勢を受け止め、最小限の失地でやり過ごしていた。

 1944年6月当時、大きく湾曲していた白ロシアをソ連軍が狙ってくるのは、ドイツ軍上層部も予期していており、強固な防御陣地が築かれていたが、それはソ連軍もわかっていた。

 だからこそ、兵員で2.5倍、砲門・軍用機では3倍以上、戦車などの戦闘車両では実に5倍という大兵力で攻勢をかけており、その物量差では新兵だらけのドイツ軍にはどうすることもできなかった。

 加えて、相次ぐ敗走の責任を(自身の判断ミスは棚に上げて)軍部に押し付けていたヒトラーは、彼の決定に異を唱える将軍を次々と左遷。信頼していたはずのマンシュタイン将軍まで更迭されると、ヒトラーに逆らわないイエスマンだらけになってしまっていた。

 古今東西、おべっか能力と軍事能力が両立する将軍はごくわずかで、大抵は反比例することが多い。この場合のドイツ軍将官もその例にもれず、ソ連軍の強力な攻勢・包囲にあたふたする、もしくはヒトラーの死守命令を墨守するのみで、いたずらに損害を増幅させていった。


 開始1週間で前線は崩壊し、20万以上のドイツ軍が殲滅、包囲下ですりつぶされていった。

 勝利を確信したソ連大本営スタフカは、速やかに作戦第二段階へ移行、白ロシアの中心都市ミンスク付近でのドイツ残存部隊の包囲と奪還を目指して進撃していた。

 

 もちろんこの事態は、北部方面軍にも大きな影響を与えた。

 なにしろ南方を守っていた堅陣が消散したのだ。がら空きとなった南から回り込まれれば、プスコフやナルヴァで孤立するだけだ。

 それどころか、このまま西進したソ連軍がバルト沿岸に達すれば、北部軍全体がドイツ本国とから切り離され、立ち枯れてしまう。

 プスコフでは、リガに向けての撤退準備が慌ただしく始まっていた。


 ♢♢♢


「ちっ」

 ハンスは前方を飛ぶ機影を見つけると、すぐさま機体を下げる。

 まだ距離があるため、ケシ粒ぐらいの大きさしかないが、こんな場所でゆったり編隊組んでるのがドイツ機であるわけがない。

「あちらさんも、かなり低く飛んでるな…」

 すると、残存のドイツ地上兵を狩るソ連の対地攻撃機か。だとすれば、シュトルヒが攻撃されることはないだろうが、より上空に護衛の戦闘機がいる可能性もある。

 幸い、あっちは地上目的捜索に全力を尽くしているのか、ちっぽけなシュトルヒに気がついた感じはない。

 ハンスは静かに機首を返して、ケシ粒の機体から離れていく。


 ハンスが後席も連れずに『こんな場所』➖ソ連軍機がうろちょろしている、元中央方面軍管区を飛行してる理由。

 ドイツ軍戦闘機パイロットのレスキューの命が下ったのだ。

 中央方面軍の撤退を助けるために、北部軍のプスコフからも連日航空支援を行なっているが、圧倒的兵力差のために苦戦していた。

 今日出撃したドイツ戦闘機隊でも被害が出て、1人のパイロットがパラシュートで脱出したことが僚機から報告された。だが、その場所が現状ドイツ軍、ソ連軍双方どちらともに確定支配をしていない、勢力不明地だったのだ。

 怪我を負ってる可能性もあり、徒歩で脱出するのは難しいだろうが、シュトルヒなら不整地に着陸して救出できる。そう考えた上層部がプスコフ唯一のシュトルヒ乗りのハンスに命じたのだ。

 東部戦線にいたドイツ戦闘機隊の多くが西部戦線に配置転換になったこともあり、パイロットの絶対数が不足していたことに加え、今回撃墜されたのは10機以上の撃墜数をもつエースパイロットの1人だったこともある。ハンスも知らない顔ではない。

 敵の進出状態の偵察も兼ねて、ハンスは地を這うようにシュトルヒを飛ばせていた。


「しかし、結構な無茶振りだよあ」

 敵地不時着兵の救出はシュトルヒの任務のひとつだ。なので、ハンスもこれまでに何度かやった事があるが、救助成功したのは1回のみ。

 戦闘中の僚機からの目撃情報で救出に向かうことが多いため、まず情報自体が不確実だ。加えて開いたパラシュートは目立つため、降りたところを待ち構えていた住民に殺されてしまう事もある。

 さらに難易度を上げているのは、イワンの飛行機があちこち徘徊する中なかで、捜索しなければならないことだ。自分の命をかけてでもパイロットを救う、という気持ちはハンスにはないので、これ以上イワンの飛行機が増えれば逃げ出す事を決めている。

「見つからんな…」

 とにかくスピードが命だ。ロシア住民やパルチザンも、侵略者を追い出せるとばかり、活発に活動している。発見が遅ればそれだけ生存率は下がる。

 低空飛行で周囲に目を配るが、破壊された家々に、かつて畑だったらしい砲弾でほじくり返された大地ばかり。人影は見えない。

 その中でも種蒔きされたらしい整地された畑もあり、こんな戦地でも生き抜こうとしている住民もいる事がわかる。


「んー?」

 ふと、こちらに手を振っている人に気がつく。だが2人いる。

「要救助者は1人じゃなかったっけ?」

 落ちたドイツ軍戦闘機は、単座機のはずだ。

 旋回して近づくと、軍帽を被り手には小銃、肩にかけたパンツァーファウスト。

 その服装を見ても、ドイツ陸軍に間違いない。ただ手を振っているだけでなく、手で『降りろ、降りろ』と合図しているように見える。

 どうしようかとハンスが考えた時間は5〜6秒ほど。

 近くの草原を見つけ、機首を下げる。


 短い距離で着陸したシュトルヒに、手で呼んだ2人が駆け寄ってくる。エンジンを止めてゴーグルを取り、機外に出て2人を待つ。

「こんちは」

 来た2人は1人が少尉、もう1人が軍曹の階級をつけている。陸軍なので直接の上下関係にはならないが、でも階級がこちらより低いのはありがたい。変なねじ込みをされる可能性は低くなる。

「はっ、いきなりお呼びたてして誠に申し訳ありませんっ!わたくしは、中央方面軍所属、第3装甲軍第9軍団…」

「あー、時間ないし、そういうのはいいから」

 眼鏡をかけた神経質そうな少尉が、カツッと汚れた軍靴を合わせ、敬礼して所属を述べてくるのを、ハンスは途中で遮った。

「俺を手で呼んだよね?何か理由があるんでしょ?」

「はっ…、いえ、でも」

「足をやられた負傷兵がいるんですわ、仲間に」

 と、口を挟んできたのは少尉より少し後ろにいた軍曹だ。

「軍曹!今、私が話してるのにっ…!」

「時間ないんやで、小隊長はん。空軍さんもそう言ってん」

 少尉の叱責にも気にせずに、太々しい態度で軍曹がいう。

 あらためて軍曹を見ると、細いが鋭い目、鼻下から口周り、顎やもみ上げに至るまで茶色の無精髭が特徴的だ。右耳が凍傷あるいは戦傷でつぶれており、着崩れた軍服やまとった雰囲気も含めて、戦場に慣れた兵士とわかる。

 この軍曹と比べると、少尉はいかにも若く余裕がない感じを受ける。


「あそこにいるのがウチの連中なんやが」

 と、軍曹が顎でしゃくった先に、半壊した家屋に隠れていたらしいドイツ兵が出てきていた。

 全部で10人くらいか。泥と乾いた血で汚れ、茶色くなった包帯を巻いてる者も少なくない。さらに薄汚れた担架も見える。あそこに負傷者がいるのか。

「ウテナへ撤退する途中で味方の地雷踏んづけて、足やられたトンマがいてなぁ。まあ、動けない奴は捨てろっちゅー意見もあったんやけど」

 そこでいったん言葉を止めた軍曹がチラッと見たのは、小隊長と呼ばれていた少尉。そう主張したのは誰かがわかる態度だ。

「同じ釜の飯を食った仲間を捨ててくのは、しのびないわな。かと言って負傷兵連れたままじゃ、イワンに追い付かれるかもしれへん。どないしょーか、って話してたらふわふわ空軍さんが飛んどるのを見つけてなぁ」

 そう言って軍曹がにやりと笑う。

「で、どうやろか?負傷兵運んでくれる?」

「ま、そのために降りてきたわけだし」

 多分そんな話だろう、というのはドイツ兵に呼ばれた時に想像がついた。捜索中のパイロットは見つかりそうもないし、手ぶらで帰るよりは負傷兵の1人でも運んだ方が燃料も無駄にならない。

「おー、ありがとさん」

「だけど、ウテナには連れて行けんよ。リガに運ぶ事になるがそれはいいか?」

 パイロットが怪我をしていた場合、撤退準備中のプスコフに運んでもまた移動させるだけだから、治療施設のあるリガに輸送する事になっていた。

「そりゃかまわへん。つーか、そっちの方がありがてぇ。じゃあ、さっそく…」

「ありがとうございますっ!」

 不意に少尉が大声を上げる。さらに、後方の兵士たちに顔を向けると、

「おい、お前たち!こちらの空軍中尉殿のご厚意で、トマスを後方移送する事になった!さっさと運び入れろ!」

 と大きな声で部下たちに命令する。まるで自分が交渉して勝ち取ったかのように。

 やれやれ、という感じで軍曹が肩をすぼめた。


 兵士たちがシュトルヒの格納庫に、トマスというらしい負傷兵を結びつけている間、ハンスは軍曹に断って小用を足す。ベテランパイロットなら、尿意は飛行機乗りの大敵ということがよくわかってるから、時間があれば少しでも膀胱を軽くするのが慣いとなるのだ。

「じゃあ、ワイも連れションを」

 と、軍曹がついてくる。

 少し離れた場所で、シュトルヒに背をむけた格好で用を足す2人。

「空軍中尉殿、一服しまへんか?」

 小便は口実だったのだろう、すぐに切り上げて懐から小布に包まれた3本のタバコを出してきた。

「あー、俺タバコ吸わんのだよなぁ」

「珍しいお方やなぁ。…だったら、周りの吸う人へのゲシェントにでもしてくれれば」

「……そういうことなら、貰っておこうか」

 これは負傷兵を運ぶことへのお礼、ワイロということだ。これ以上断るのはメンツを潰す事になるし、タバコが好きな相手へのちょっとした頼み事なら、確かに効果的なゲシェントになる。

 3本のうち1本を抜き取り、自分の胸ポケットに入れるハンス。

 それにしても、戦局の悪化と共にゲシェントの質も下がったことを実感する。2年前のホルム戦の頃はワイン2本だったのに、今ではシケモク1本なのだから。

 まあ、それでも今の前線部隊では、これが出せる限界という事なのだろう。


「大変そうだね、おたくんとこも」

 残ったタバコのうち1本を口にくわえて、美味そうに煙をはく軍曹に対しハンスが言う。

 あえてぼかした言い方をしたのだが、軍曹は意図を正確に読み取ってくれたようで、くわえタバコの口をニィと歪めて、アゴで背後の若い少尉を差した。

「まあ、ぼちぼちやなぁ」

「実際に部隊動かしてんの、軍曹でしょ。なのにあの少尉は」

「今の若いモンは、こんなもんでしょうや。階級はあのボーヤの方が上やし、イキがるのもしゃーない、しゃーない」

「足、引っ張られてない?」

「ビビりなくらいがちょーどええんですわ、この戦場では。お国のために〜、ちゅーてキバッておっ死んじまっても意味ないしぃ」

 なんて話していると、後方から「恐れ入ります!」と少尉の声がかかり、大仰な言い回しで負傷者を積み込んだことを告げ、軍曹との連れション話は終了した。


 後方貨物室に結えられた負傷兵の安定具合を確認すれば、後は飛び立つだけだったが、そうはならなかった。

「あの…」

 今までの張り上げんばかりの大声とは違い、押さえた声でハンスに少尉が話しかけてきた。

「これ、もう1人乗せれますよね…?」

「そうだけど?」

「わたしを、乗せてくれませんか⁉︎」

「はっ?」

 驚いたハンスは、振り返って少尉の顔を凝視した。媚びを浮かべた笑い顔が不快感を催す。冗談ではなさそうだ。

「後席が空いているなら、ご迷惑にはなりませんよねっ?わたしを、この地獄から連れ出してほしいんです!」

 段々と大きくなった声に、軍曹をはじめ他の兵士が気が付かないわけがない。ざわっというか、しらっというか、変な雰囲気が流れる。

「しかし、少尉はこの小隊の指揮官だろ?なのに君だけ逃げるって」

「軍曹がいれば問題ないですっ。どうせ部下たちはわたしよりも軍曹の言うことを聞きますしっ」

 吐き捨てるようにいう少尉。

「だとしても。最後まで面倒見るのが君の責任だろうが。それに、ケガ人以外は運ばないルールなんで」

 本当はそんなルールはないが、指揮官が部下を見捨てる手助けはしたくない。大きな見返りがあれば別だが、そんなことに気の回る若造ではないだろう。

「そんな…」

「まだウテナまで距離はあるが、頑張って歩いて」

 そう言ってくるりとハンスが振り向いた後の事、ダーンと銃声が響いた。

 瞬間遅れて響く絶叫。


 驚いてハンスが振り返ると、少尉が驚いた顔で崩れ落ちるところだった。右足の軍靴を押さえている。

「あーあーあー、銃が暴発しちゃったわー」

 この場にそぐわない、抜けた軍曹の声が響く。軍曹の持つ自動小銃の銃口からかすかにたなびく硝煙。

 ➖わざとやったな。

 ハンスは直感した。軍曹は自分達を見捨てようとした少尉を意図的に撃って、負傷させたのだ。

「ぐ、軍曹っ!きさま〜‼︎」

「えろうすんません。おい、誰か小隊長に手当てを!」

 軍曹の声に従って2人ほどの兵士が、うずくまった少尉の軍靴を脱がせると、苦痛に喘ぐ少尉の悲鳴。そんな少尉に構わず、血塗れの右足の親指を手当てする。

「これは、上官反逆ざ…、い、痛‼︎」

少尉も軍曹がわざとやった確信しているようだが、激痛の中では迫力がない。

「だからぁ〜。暴発や言ってますやん。なあ、みんな」

 軍曹が他の兵士に言うと「ですねー」「事故、ご愁傷様っス」と軍曹に同調。この少尉の人望のなさがわかるというものだ。

こうなれば黒も白になる。上官反逆も単なる事故になってしまうのが戦場だ。

「く、空軍中尉殿…」

 頼みの綱とばかり、少尉がハンスに救いの眼差しを向けるが、

「いやー、見てなかったので、俺には分からん」

 と、逃げた。こんな内輪揉めに巻き込まれる気はない。

「だけど、これで足の怪我したんだから、後席に乗せる資格が生まれたけど、どうする?」

 そうにっこり少尉に笑いかけると、グッと詰まった表情をする。

「……搬送…、お願いします…あ痛‼︎」

「よーし、じゃ後席に乗って。あ、足やられてるから、手伝ってやって」

 そう言って軍曹を見ると、人の悪い顔を浮かべてニヤリと笑う。

『迷惑かけて、えろうすんません』と、声は出てなくても、ぱくぱく口の動きだけでそんな意味を伝えてくる。

 ➖軍曹としても、うるさ型の少尉がいない方が生き残る率が上がるんだろうな。

 古強者ふるつわものの軍曹にうまく操られた感のあるハンスだった。


 帰りの飛行機では、不満やる方ない少尉の愚痴を聞かされっぱなしのハンスは、こんなことなら、ゲシェントのタバコは3本貰っとくんだったと後悔していた。









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