第7話 2月 プスコフ市街(夜)

 3日の足止めの後、天候回復とともにハンスはプスコフに戻った。

 その頃には整備班などの地上撤退部隊もぽつぽつとプスコフにたどり着いており、ジークムンドとも再会できてマリーヤを無事逃がせた報告ができた。

 その後はソ連軍がプスコフ周辺まで迫ってきて、その防衛に明け暮れたが、主力の捕捉に失敗し攻勢初期の勢いを失ったソ連軍の動きは鈍く、また北方のナルヴァ突破に力を注いでいることもあり、プスコフ周辺は徐々に落ち着いてきた。


 ♢♢♢


「いいホテルだな」

 部屋に入ったジークムンドは開口一番そう言った。

「さすが将校様といったところか」

「ジークだって先任軍曹に昇進しただろ?」

「だからと言って、個室が与えられる訳ではないからな。班の連中と大部屋でカーテンの仕切りがあるだけだ」

 そう言って周りを見回しながら室内に進む。


 各地から撤退してきた飛行隊や整備兵を含めた地上スタッフの再編成の結果、シュトルヒとハンスはそのままプスコフ基地に配属となり、ジークムンドも機体に慣れているということから主任整備員に横滑りした。

 だが急激に増えた人員分の宿泊施設が足りず、軍が接収した市内のホテルの1室が士官には与えられていた。ハンスもその1人だ。

 広くはないが、ベットもあるし小さな丸テーブルに椅子も備え付けられている。1人で寝起きするには充分だし、2人で飲むスペースもある。

 戦闘が落ち着いたこともあり、久しぶりにジークムンドと飲むことにしたため、ハンスの宿に呼んだのだ。マリーヤの件では世話にもなったし、義理は返しておきたい。

「これならジークも満足だろ」

 スタラヤ=ルッサからの撤退のさいにも後生大事に持ってきた、ネズミった一品。

シュバルツビールか」

 案の定、ジークムンドは相好を崩す。

「つまみは炒り豆だけだが」

「こいつさえあれば、文句はない」

 ジークムンドは愛おしそうに瓶ビールを手に取り、ラベルを確かめる。

「あと、これはリーザからの餞別」

 と、リュックから出したのは、エリザヴェータの酒場でよく使っていた陶器のタンブラーが2つ。記念に貰ったものだ。

「やはりジョッキがなくてはな。ラッパ飲みなどビールに対する冒瀆だ」

 瓶の栓を歯でこじ開け、さっそく2つのタンブラーに濃い焦げ茶の液体を注ぎ泡を出す。

「暖房機の近くに置いといたから、多少は温まっているはず」

「俺は人肌ぐらいが好みでな、これで充分だ」

 日本人には信じられないかもしれないが、苦味が薄く優しい甘味があるシュバルツビールは常温以上で飲むのがドイツでは一般的だ。チョコレートにも似た甘い香りがあるのも特徴といえる。


「では2人の無事に」

「そこはマーシャの移送成功を祝って、だろ」

 乾杯、とカチリと杯を当てて口につける。泡の刺激が喉ごしを滑り落ちる感覚は久しぶりだ。甘い香りが鼻腔をくすぐり、口元に白い泡がつき付け髭のようになる。

「美味しい時は、一瞬だな」

「ビール1本を2人で、だからなぁ。あとは安ウォトカで我慢してくれ」

「酒があるだけマシだ」

 手酌で残りの黒ビールをダンブラーに注ぎ、香りを楽しむように飲むジークムンドだった。


「何にせよ、あの娘を無事にリガまで送れたのは上出来だった」

 炒り豆をぽりぽりさせながら、ジークムンドが言う。

「撤退途中に嫌なものを見ただけに、なおさらそう思う」

「嫌なもの?」

「似たような話だ。対空砲班の若い一等兵がな、スタラヤ=ルッサでいい仲になったロシア女と離れたくなかったんだろうな、隠して連れてきていたんだ」

「!…それは、また」

「無謀よな。あまり人の寄らない弾薬運搬車に隠してたらしいんだが、陸上部隊の撤退には3~4日はかかる。水や食料も必要だし、用だって足さないわけにはいかない。バレずに済むには相当な幸運か、あるいは上官の黙認が必要だな」

「話は通ってなかったか」

「ああ。見つけたのが上官らしい。1〜2日は隠し通したんだが、その一等兵があまりに頻繁に弾薬車にいくから不審に思ったらしくてな。で、踏み込んでみたら…」

「その後は?どうなった?」

「引きずり出された若い女を前に、一等兵には拳銃が与えられた。自分で決着をつければ、軍法会議にはかけんという話だったようだ」

「…それはまた、かわいそうに」

 この場合の『自分で決着』とは、その一等兵の手で愛したロシア女を撃ち殺せ、ということだ。

 残酷な話に思えるが、見つかった時点でロシア女の処刑は揺るがない。『自分で決着』すれば無かったことにするというのは、ある意味温情ともいえる。

「流石に震えていたな、その若者は。震える手で女に狙いをつけようとしてたが…。結局その拳銃を自分の口に咥え、引鉄を引くことで『決着』をつけた。ダーンと、な」

「うわっ」

 人の死の話は苦手だ。その情景を頭で浮かべてしまうからだ。自分の脳を銃で吹き飛ばすようにして自殺する若い兵隊のシーンを。

「残された女は半狂乱になってドイツ兵の手から逃れ、倒れた若者に泣きすがっていた。その女の頭を上官が撃って、全てが終わった」

 そこまで話して、ジークムンドは静かに最後のシュバルツビールで口を濡らした。


「…なんか、やり切れねぇな」

「その上官だって、やりたくてやってるわけじゃなかっただろう。その後凍土をみんなで掘って、2人の遺体を一緒に葬らせたのもその上官だったからな。撤退中で時間がないのはわかってても」

「全ては戦争がもたらした悲劇かあ…」

「全てを戦争のせいに出来りゃ楽なんだが。上がアホ過ぎて、その戦争に赤信号が点ってもいるからな」

 なんとか持ち堪えているとはいえ、時間とともに戦力差は広がるばかりで、どんな楽観的なドイツ兵でもここからの逆転は難しいことはわかっていた。ただ、表でそれをいえば『敗北主義者』と言われて、野戦憲兵にしょっ引かれるか、下手するとその場で銃殺だ。


「そういや、俺もヤな話を聞いた」

 と、ハンスも話し始める。

「シュバルツベルク行政委員を覚えているか?」

「もちろん」

「銃殺されたってさ。リガで」

「⁉︎なぜだ?」

「ロシア人に便宜を図り、物資を横流ししたってことらしい」

「…わからん。スタラヤ=ルッサのことは上の了解を得ていたのだろう?」

「その話はほら、マーシャを預かっているヤコブという俺の知り合いから聞いたことだから、そいつも詳しい理由がわかってるわけじゃないんだ。ただ、まあ東部占領省の中にも、スタラヤ=ルッサのように現地人と仲良くやるやり方を嫌っていた奴が、いたんだろうな」

「それで、スタラヤ=ルッサ失陥を機に責任をおっ被せたか。ふん、姑息な連中が考えそうなことだ」

 民族至上主義者からすれば、下等民族に配慮すること自体が許せないことなのだろう。その政策が有効か否かに関係なく。

「甥のシュバルツベルク補佐官も一緒に処刑されたらしい。彼らだけじゃなく、ロシア人に特別の配慮をした、と告発された者も」

「愚かな…。勝敗がどうあれ、戦後復興には彼らのような優秀な行政官が必須だろうに。上層部はドイツ人を滅ぼしたいのか?」

「案外、あのチョビ髭はそう考えてるかもしれんぜ?『負けました、ごめんなさい』するくらいなら、民族もろとも滅んだほうがいいってな」

「その冗談は、笑えん」

 これ以上にない渋い顔で、新たに注いだウォトカを舐めるジークムンドだった。


 しばらく黙って酒を飲んでいたハンスとジークムンドだが、しばらくして手元のダンブラーを見ながらハンスがぽつりと言う。

「いろいろとありがとな、ジーク」

「ん?いきなりどうした?」

「いや、さ。マーシャの移送でさ、ジークには骨折ってもらったから」

「…ふん。お前にもそういう殊勝な気持ちがあったんだな」

「そりゃあ、あるさ。こう見えても感謝してるんだぜ。アドルフの時もマーシャの件でも」

 今回のミッションでつくづく思ったのは、人の縁だ。

 そもそも、マリーヤを故郷の村から運び出したのはエリザヴェータと知り合いだったからだ。

 性格もあるが、彼女には色々と面倒見ていたし、彼女がハンスに恩を感じていたのも知っていた。エリザヴェータなら断らないという読みがなければ、さすがのハンスも少女を連れ出そうとは思わなかった。

 今回、ヤコブにマリーヤとアドルフを預けたのも同じだ。計算高いが、それ以上に恩を返そうとする心根が、あの老人にあることを知っていたからこそだ。

 だが、ジークムンドにはそういう行きがかりがない。

「ジークとは、突き詰めればシュトルヒの搭乗者と整備員という関係でしかないわけだろ。それでいて、マーシャの件ではなし崩しに共犯者に巻き込んでしまっているなぁと、ちょっと申し訳なく思ってさ」

「ちょっと、か?」

 ジークムンドは杯を片手に、半笑いで軽く突っ込む。

「ロシア女をドイツ軍人が連れ出すなんて、スパイ容疑で即射殺もあり得る重罪だからな。それに巻き込んでるんだぞ、お前は」

 それはジークムンドの話にあった、ロシア女を隠して運び、失敗して自殺したドイツ兵の話からも明らかだ。

「わかってるよぉ〜。だから不思議なんだよなあ。なんで協力してくれたのか」

「……なぜだろうな」

 ジークムンドはしばらく考える顔をする。


「確かにハンスは俺とは違う。最初に会った時、『俺、人殺ししたくないんだよねぇ』って言われた時にはびっくりした」

「そんなこと、俺言った?」

「言った。忘れられん。だったら軍人になるなよって思ったわ。でも続けて『でもシュトルヒ乗りたいから軍人やってる』と言われて、2度びっくりした」

「あ、それはなんとなく覚えているかも」

「そんな理由で軍人やってる奴がいるとは、全く想像の外だった。下手すれば戦意不足と見られて、除隊されるかもしれないことをあっけらかんと言うことも」

「ただ、思った通りのことを言っただけだけどなあ」

「そうだろうな。にへらっと笑ってそんなことを言うとは、単なるアホだとその時は思った」

「ひでぇ」

「だが…、俺には出来んな、ということを感じたのも事実だ。

 俺のような奴は世間体とか周りの評判とかを気にする。人殺しをしたくないのは俺だって同じだが、軍人だから、戦争だからと言い訳して加担している」

「お、今のは褒めてくれた?」

「調子に乗るな。俺とは違うと言っただけだ。……だが、なかなかできることではない」

 そう言ってウォトカをあおるジークムンド。


永劫回帰エーヴィゲ ウィダークンフトという言葉、覚えてるか?」

「……なんか、前にジークから聞いたなあ。人生は嫌なことの繰り返し、だっけ?」

「…まあ、ハンスにしてはよく覚えてたほうだな。いろいろ解釈のしようはあるが、ニーチェの有名なテーゼだ」

 そういうジークムンドの顔は赤い。酔いが回り哲学モードになってきたようだ。

「こうして戦争に放り込まれていると、永劫回帰を感じずにはいられん。毎日死にそうな目に遭わされながら仕事をこなし、なんとか今日一日を生き延びたとしても、明日も辛い日々が待っている。砲爆撃を喰らってこの世にいないかもしれん。悲観的にもなろうというものだ」

「そりゃあ、みんなそうじゃない?」

「ウソつけ」

 と、ジークは持った杯をハンスに突きつける。

「お前はこんな時でも楽観的だろうが。明日生き残ることを疑っていない」

「そうかなあ?俺だって死ぬかもしれんとは思うよ。ただそれを考えても仕方ないからなあ」

「それだよ」

 突き付けた杯をぐびりと飲み干し、手酌でウォトカを注ぐ。

「こんなクソみたいな戦争中でも『死を思え《メメント モリ》』とは、ならない。それどころか、ロシア軍用犬は拾ってくる、ロシア少女は助ける。戦争とか民族とかの枠を超えてやりたい放題。それでいて破綻せずへらっとしている」

「……えーと、怒ってる?」

「怒っとらん!うらやましいだけだ!」

「…やっぱり、怒ってる…」

「国家や民族など、どこぞの指導者が我々を都合よく動かす束縛に過ぎん。

…それもわかってるのに!

俺は‼︎勇気がなく、目の前の安定になびてしまう!従ってしまう!

まさに群畜ヘーダ!」

 勢いよく杯を飲み干すジークムンド。こりゃ酔い潰れるなとハンスは見切る。

 ベッドは1つしかないんだが…。床に寝かすのは危険だしなあ…。2月のロシアを舐めてはいけないよな。

「しかし!そんな中でも、軽々枠を超えてやりたいように生きているのがお前だ。認めたくはないが、お前こそニーチェの言う『超人ウバーメンチ』なのかもしれん、と!」

 だからな、と目がトロンとし始めたジークムンドが続ける。

「お前の近くにいて、お前のやることを見ていたいのだ。…わかるか?」

「ああ、わかったわかった」

 超人も畜群も全然わかってないハンスだが、酔っ払いに言ってもしょうがない。

「…あと……、マーシャはいい子だし…」

「それは、よくわかる」

 それには大きく頷くハンスだった。


♢♢♢


 ドイツ北方軍の素早い撤退は、損害を最小限に抑えたと言っていい。

 エストニア国境では、フィンランド湾とペイプシ湖に挟まれたナルヴァ地峡に敵を誘い込み、戦闘正面を狭めて大軍の強みを消した防衛戦で撃退に成功した。

 大きな損害を受けたソ連軍は、雪解けの泥濘時を迎えることもあり、攻撃を打ち切り、ドイツ軍としては数少ない勝利を挙げることになった。


 雪解けと共にソ連軍の攻勢が止まるのは、ここ2年の東部戦線ではよく見るパターンだ。

 だがドイツ軍がひと息ついた3ヶ月後、更なる大攻勢が始まるのだが、それは次の章の話となる。













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