第6話 リガ近郊〜市街(夕刻)
何度も書いたが、冬のロシアの日没は早い。
高緯度であるリガもそれは変わらず、午後4時を回った頃には闇が迫ってきた。
加えて、偏西風のために天気は西から崩れていく。西方のリガに近づくと徐々に風花が風防にあたるようになってきた。
リガはバルト海沿岸にあるために内陸部に比べ湿気があり、雪もかなり降り積もる。リガで18まで過ごしたハンスにはその事をよく知っていた。
となると、リガ近くの湖や池にシュトルヒを降すのは難しい。雪かきしてないと氷上にもかなり雪が積もるのだ。
しかしハンスにはいい着陸場所の心当たりがあった。
リガから少し離れたところに炭焼き小屋のある森があり、その小屋に行く人が何十年、下手すると何百年と踏み固めた道が、森のトンネルのようになっているのだ。
広葉樹の森なので葉は落ちているが、覆ってる枝に雪が積もる分、その道に積もる雪は少ない。ハンスたちの子供時代のいい遊び場だ。
シュトルヒの長い翼でも充分入る広さのトンネルだし、この時期なら炭焼きをする人もいない。安全に停めておくことができる。
子供の頃から慣れ親しんだこの森に飛行機を下ろすことになるとは、と昔を思い出しつつ、シュトルヒを降下。
露天焼きをする事もある、森の中の広場から雪を風圧で吹き飛ばしながら森のトンネルに入り、シュトルヒを停めた。
「よし。これからリガまで少し歩くが、大丈夫か」
シートベルトを外してハンスは後ろを向く。
「ずっと座りっぱなしでしたから、体力は余ってます。行きましょう」
マリーヤもシートベルトを外しながら、にっこりと答える。
「かなり暗くなってきてるから、急ごう」
機外に出たハンスがマリーヤと荷物を受け取り、降す。荷物はハンスが持ち、リガ市内へと案内する。
ハンス、マリーヤ、アドルフの順で、くるぶしくらいまで積もった雪を踏み進んでいく。
市街に入った頃には雪の粒は大きくなり、本格的に降り始めた。
夕闇も迫り、灯火管制のためか街灯もまったくついてない市街に人影はなく、もの悲しい。
鎧戸の向こうから、かすかに屋内の灯りが漏れている家がちらほら見える事で、廃墟ではないとわかるくらいだ。
やがて目的の家にたどり着く。ショーウインドウにも鎧戸が降り、扉にもクローズドの掛札が。
だが、ハンスはお構いなく扉を連打した。
「おーい!ヤコブのジサマ!俺だハンスだ!開けてくれ〜!」
店内からはなんの反応もない。だが、鎧戸からは灯りが漏れている。屋内に人はいるはずだ。
「ジサマ、いるんだろう⁉︎緊急なんだ!頼む、開けてくれ〜!」
そのうち屋内では人の歩く音が聞こえ、のぞき窓のカーテンが開かれる。そこには苦虫を潰したようなヤコブの顔。
「まったく」というつぶやきとともに、扉が内側に開かれた。
「お、ジサマ〜。お久しぶり」
ハンスはあえてにこやかな顔と声でヤコブに話すが、眼鏡のしかめっ面は変わらない。
「店先で騒がられてはいい迷惑じゃ。さっさと入らんか」
「つれねぇなぁ」
と言いつつハンスは室内に入る。温かい空気で身体が緩む。
「お、おじゃましますっ」
ハンスに続いてマリーヤと白犬アドルフが店内に入ると、さすがのヤコブも驚いた顔になる。
「この娘っ子は…」
「あー、今から説明するから。この店、犬は大丈夫だっけ?」
「…犬は別に構わんが…」
「ならよかった。この衣装がけ、借りるな」
うっすら積もった雪を払い、外套やらスカーフやらを衣装がけに引っ掛ける。マリーヤの外套を脱がすのを手伝い、アドルフはその足元でお座りをしている。
立ち話もなんだから、とヤコブが椅子をすすめてくれ、すまんね、とカウンター内部に用意された2脚の椅子に座る。
「さて、では話してもらおうかの。まずはこの娘っ子じゃ」
「この子はマーシャというんだ」
「マ、マリーヤ=ドミートリヴェナ=ペトロヴァナです。よろしくお願いしますっ」
「ロシアっ子か」
「そう」
「ロシア娘を嫁にするとは、大胆な」
「よ、嫁⁉︎、で、ではなくて…」「もう、その手のツッコミは聞き飽きたよ」
マリーヤとハンスは同時に声を上げる。
「嫁でなければ、なんなのじゃ?」
「話せば長くなるんだが…」
と、出会いから最近の話までをマリーヤと2人で話すと、結構長い話になった。
ヤコブは「ふんふん」と聞いていたが、
「話を聞いても、やはり2人は好き合ってるとしか、わしには思えんのだが」
「すっ、好き⁉︎」「好きではあるさ、もちろん」
また2人の声が重なるが、ハンスはそのあとを続けた。
「マーシャは何事にも一生懸命だし、慕ってくれてるのもわかる。これで嫌いになれる奴はいないでしょ、普通。家族愛みたいなものさ」
「家族愛、の。それ以上のものをわしは感じるが、まあよい。それでこの娘っ子と犬を連れてきて、お主はわしにどうして欲しいんじゃ?」
「それそれ。迷惑かけるのを承知でお願いしたいんだが、マーシャとアドルフを預かって欲しい」
「ふむ」
「プスコフに知り合いはいないし、リガの知り合いは大半は行方不明。ジサマくらいしか頼めそうな相手はいないんだ」
「わたし、一生懸命働きますからっ」
マリーヤにはここに来る道中で、知り合いの爺さんのところに置いてもらうことを話してある。見ず知らずの老人と一緒に暮らすことになるが、かつてのエリザヴェータとの共同生活に続いて、その経験も2度目だ。
「ハンスさんを信じてますから」
と、マリーヤは二つ返事で承知してくれていた。
ヤコブは頼み込む2人の顔を交互に見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「わしにその娘を預けるという意味が、わかっとるか?」
「意味とは?」
「わしは隠れユダヤじゃ。もしわしがドイツ軍に摘発されたら、その娘も…って、小僧、そのことを話してないのか?」
マリーヤが目を大きくし、「ユダヤ人、なんですか?」とつぶやいたのを見てヤコブは気がついたようだ。
「あー、うん。ジサマが誰にも話すなっていうから。ジサマが話していいと思ったら、自分で言うと思ったし」
「まったく…。変なところで義理固いの、お前は」
苦笑混じりにハンスにいうと、マリーヤに向き直るヤコブ。
「嬢ちゃん。言った通りわしはユダヤじゃ。わしが怖いか?」
「…どういうことでしょうか」
「嬢ちゃんも教会から聞いてるじゃろう。……その、ユダヤ人の、悪評を」
ナチスのユダヤ差別は、昨日今日生まれたものではない。
もとより人間は、自分たちとは違う人や集団を異端視する傾向があるし、頑なに自分たちの信仰とコミュニティを守ろうとするユダヤ人の姿勢も、それを増長させた。
教会権力の異端排除。十字軍の昂ぶりの余波による虐殺。黒死病蔓延時のいわれなき犯人説。
歴史の時々にそれは表れ、ユダヤ人を過酷な状況に追い込んだ。
決定的だったのは宗教改革だろう。旧教=カトリック教会の独善的な教えに反発した人々が、さまざまな新教会派をつくり対立、キリスト教徒同士が殺し合う宗教戦争が西欧各地で起こった。
その陰でユダヤ教徒への迫害と追放、虐殺が激化していったことはあまり知られていない。信仰の違いでキリスト教徒が殺し合うなか、長く差別を受けていたユダヤ人が無風でいられると思うほうが無理がある。
西欧から逃げ出したユダヤ人は、まだ開発途上でユダヤの経済力を必要とした東欧やロシア、または新大陸に逃れていった。
だが増えたユダヤ人を警戒、排除する動きはここでも起こる。
聖職者たちは、ユダヤ人は神の教えに逆らい、強欲と背徳の限りを尽くし、夜な夜なキリスト教徒の子供を攫っては怪しげな儀式の生贄にしている、などと純朴な正教徒に言い聞かせていた。
このようなあからさまなデマを教会が吹聴するのは、教会=善の構図にユダヤ人=悪を対比させ、物事を単純化させて洗脳、教会への信仰を高める意図もあったのだ。
ヒトラー肝入りのユダヤ
ヤコブの真剣な視線を正面から受けたマリーヤは、
「怖くないです」
と目を見てしっかり答えた。
「なぜじゃ?」
「確かに、教会の方からユダヤの話は聞いたことがあります。ですが、まわりにユダヤの方はいませんでしたから、あまりイメージが湧かなくて」
「…」
「それを言うなら、ドイツ軍の悪評の方が酷かったです。
ここでマリーヤはチラッとハンスの顔を見て、すぐに視線を戻した。
「見た目は普通でした。目もつり上がっていないし、耳も尖ってない。当たり前ですが、牙だって生えてないですし。もちろん物資の提供は要求されましたけど、それは党も同じですから」
一旦言葉を切り、「何よりも」とマリーヤは続ける。
「ドイツ軍人のハンスさんは、わたしにとり最も信頼できる大人です。家族以外で、いや家族よりも。
結局、人なんだ、と思いました。
ドイツ人とかファシストとか。ユダヤ人、正教徒、男も女も。
こうだ、と決めつけて色眼鏡で人を見ると、見えるものも見えなくなるんだと。
だからヤコブさんは、怖くないです。
初対面で言うのは失礼かも知れませんが…、ヤコブさんの目とか眼鏡、背格好なんかも亡くなったお祖父様にちょっと似ていて、親近感があります。
お祖父様は、女が勉強できてなんになる、と言う村人が多い中で、『男女平等が共産主義じゃ』と、本をたくさん買い与えてくれた人で…。
わたし、おじいちゃん子だったんです」
そう言うマリーヤの顔は、少しはにかんでるように見えた。
じっとマリーヤの話を聞いていたヤコブだったが、ふぅーと長く息を吐く。
「……優しい子じゃの、君は」
「いえ、そんなことは」「だろ?本当にいい子なんだよー」
またもやマリーヤとハンスの声が被り、そしてハンスが続ける。
「だからさ、置いてやってくれねーかな。もうジサマしか頼める人がいないんだよ」
「小僧、忘れとるな?」
「何を?」
「前に言ったじゃろう?わしはおぬしに大きな借りがあると」
そう言えば、ユダヤ人ということを隠してくれたとかで、恩に着るって言ってたような。
「我らは契約の民だ。約束したことは必ず守る。だから、この娘っ子を預かることに問題はない」
「助かる」
「待て待て。やっと話が戻ったが、わしが隠れユダヤということがドイツ軍にバレたら、なんの関係もないこの娘まで巻き込まれるのじゃぞ。その危険性は考えたのか?」
「それは、いまさらだなぁ。マーシャをここに連れてくるまでにさんざん危ない橋渡ってきたし。それに比べたら、そのくらいのリスクはしょうがないかな、と」
あっさりと言うハンスをしばらく見ていたヤコブだが、そのうち「わかった」とゆっくり頷いた。
「マリーヤと言ったか。わしは子育ての経験もないし、嬢ちゃんの欲しいものもわからん。だが、雪風を防ぐ場所くらいは与えられる。それでよいか?」
「充分です。ありがこうございます。これからお願いします」
そう言ってマリーヤはにっこり笑った。
「と、今後のこととか色々話したいとこなんだが、もうかなり暗いし飛行機が雪に埋もれるかもしれん」
特別指令の期限は今日一日だ。もうプスコフに帰ることは無理だが、リガの基地には帰投して無線で連絡することはできる。脱走と疑われるのも面倒だし、極寒のこの地でシュトルヒを放置すれば、計器の故障や不具合を起こしかねない。
「今度はプスコフだから、前のように毎日来ることはできんが、時間があったら必ず」
立ちあがろうとするハンスに、小さい手が伸びて袖口をぎゅっと握る。
「マーシャ?」
「絶対、ですから」
マリーヤが見上げるようにハンスの顔を見る。
「わたし、ハンスさんに助けてもらってばかりで、全然恩を返せてません」
マリーヤの手に力が入る。目が潤むように揺れる。
「だから…、だから!絶っっ対に!帰ってきて、ください…」
マリーヤの白い顔が赤く染まっていた。様々な感情が混ざり合った表情だ。ただ、ハンスを心配しているのはわかる。
「わかったよ」
ハンスは捕まれた左手とは逆の、右手でマリーヤの頭をぽんぽんとする。
「必ず帰ってくるから」
「約束、ですよ?」
「俺が約束破らないのは、知ってるだろう?」
そう言ってゆっくり笑うハンス。
そして、ロシア式の濃厚なハグをした。
後をヤコブに託し、雪に埋もれそうになっているシュトルヒの元へ。
なんとか完全な闇になる前にリガの空軍基地にたどり着き、命令書をみせてプスコフへの連絡と一晩だけ泊まらせてもらうことにした。が。
翌朝から雪が本降りとなり、3日間リガで足止めとなった。
特別任務中(という事になっている)のハンスに他の任務が与えられることもなく、やることないハンスは3日間ヤコブの店に入り浸りとなった。
マリーヤは、いたく喜んでくれた。
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